問われているのは根源にある価値だろう。
それが無ではないというなら、その死へ向かう実践(死への過程、生き様)に
何の意味・価値があるのか。ぶつ切りにして最後の死だけを取り上げてその意味を問うのではない。
元来切り取りようもないはずの死だけを、その存在を云々するものでもない。
でもそうしてみると、仏教的文脈では有我論・無我論、いや空と言えばなんとか表現できるか、
違う、背理法の最たる禅の心よと、そういう話にもなるんじゃないかな。
キリスト教だったら、独我論でもって、その独我が自分ではなく、神の御心・神そのものなのだと。
この世は精神でできており統べられた精神が神である。
精神世界を好き勝手に夢見て生きられないのは、この世界に決まり事があるのは、
それこそが神の意志なのだと、これはイギリス経験論のバークになるのかな。

ヒュームが懐疑論でそういったものを粉砕したけれど、だけどじゃあ途方に暮れていれば、
何にもわからないで済むのかと言えばそれでは済まない。

だって現にこうして生きているから。
だからじゃあどういう実践がいいのか、それが問題なんじゃないかと。
実践でもって価値を立ち上がらせる・そうせざるを得ないのが人間でしょうとうような、
そんな話だと思うよ。

そうして実践の一つの在り様として、たとえばオルテガなんかもあまりにも厳しい
真の指導者(エリート)、指導というのは当然自らをも指導するわけで、
要は自律のあるべき姿を問うている。