>>23
チェスタトンのその言葉は解釈がいろいろできるけれど、重要な一つの論点は
独我論的な世界観とキリスト教との関係なのだろう。

>一人の人間を殺す男は一人の人間を殺すにすぎぬ。
>だが自分自身を殺す男はあらゆる人間をみな殺す男である。
>自分自身に関するかぎり、彼は全世界を拭い去るのだからである。
>象徴的に言って、彼の行為は、どんな婦女暴行よりも、
>どんな爆弾狂の破壊行為よりも性(たち)が悪い
―『正統とは何か』より

チェスタトンが言う生命への忠誠というのは、つまるところ神への忠誠だろう。
この世界が我独りの精神でできているのなら、他我など存在しないし、
他我のように思われるものも我の一部にすぎないのだ。我独りが存在する。
その独りの我(つまり世界)に幕を下ろすとは、いったいそれは何様のつもりなのか。
チェスタトンにとって、それは神への冒涜となる。

そこで生命の尊厳が云々、他者への配慮やなんなり、
そうしてその「効用」を測って、天秤を揺らして、死んだ方がマシだ(得だ)とばかりに
自殺したのだとしたら、それはあまりに合理主義的にすぎやしないか。
そうではない、そこに情緒はあるのだと言うかもしれない。
チェスタトンもそこに情緒はあるのだろうと言っている。