反日日本人のスレ 反日日本人の気持ちが知りたい
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日本が嫌いなのは個人の価値観だから
まあ しょうがないとして
日本よりアメリカやスエーデンやデンマークの
ほうが好きとかなら分からんでもないが
なんで日本より韓国中国朝鮮のほうが好き?
「日本が弱いから嫌い」 というのは反日ではないので理由にはなりません。 >>1
ガチガチの左翼ですが、韓国中国北朝鮮は大嫌いです。
安倍政府を攻撃するため、過去の中国や朝鮮の被害をロジック上うまく利用することは頻繁ですがね(笑 >>1
血もしくは宗教もしくは教育でそうなったんだろう
あと自分がそうだったが、若者ほど日本が嫌いで外国を好む場合がある
しかしある程度歳を取ると日本人としてのアイディンティティが確立されてほとんどが保守的に回帰してくる
まれにそのまま日本嫌いが治らずに歳を取っていくのが一部いる
あとこの国の傾向として保守よりも売国的な連中が出世している
この辺も影響しているのだろう >>5
こういう自分の信条と真実への信仰が不可分で、自分を客観視できないところも反日の一つの要件だな。
>>6
その日本嫌いにしても日本への安心感が基底にあって、予定調和の嫌悪に過ぎなかったりする。
日本にもたれかかった上での同属嫌悪だな。 甲陽学院高校時代、朝鮮 差別人間の浜瀬聡(はませ さとし)は
定期券偽造、万引きを繰り返していたよ。退学処分にはならなかったけど、一浪して
東京海洋大学に進学したが、専門課程に上がれずに、大学を中退した。 東京海洋大学中退の浜瀬聡(はませ さとし)は甲陽学院高校時代(昭和55年〜57年)に、
自転車を10台ぐらい盗んで、越木岩神社〜苦楽園口の通学に使用していた。
現在は監視カメラが有るので、直ぐに浜瀬は逮捕→退学処分だろうね。 何故この国が自虐風味の自己卑下ばかりが幅を利かすのかということは時々考える。
戦後サヨクと親和性が高いのは確かだが、それ以前にはなかったかというとそうでもない。
思うに波風が立たないことを至上命題とし、あえてリスクを背負うことを嫌う精神風土のまま
近代を迎えてしまったことと関係があるのかもしれない。
日本を批判する側も擁護する側も、自分が叩かれる可能性を引き受けていない点では変わりはない。
責任という言葉がただの政敵叩きのツールと化し、
主体意識が不在のまま自分をかさ増しするためだけの守旧派攻撃もこの国の一つの伝統かもしれない。 国の威信・名誉・国益を意識した発言をネトウヨ扱いして揶揄したり叩いたりしている時点で反日性向は明らか。
問題はそれを反日とくくられることすら引き受けることのできない足腰の弱さにある。
だから自分たちこそが愛国者だなどというトンチンカンなことを言ったりする。 日本には光も影もあるが、それをひっくるめて肯定的に捉えようと考えるのが愛国。
日本の否定的な部分を暴き立てることに満足感を覚えるのが反日。
日本人としての当事者意識がどちらにあるかは明らか。 自分が差別だと認知した言説の中に幾ばくかの理があることを認めると、
世界観が崩壊してしまうのだろう。
多様性や寛容といった概念もその世界観の範囲内にとどまるものなので、
不寛容というよりは防衛本能と見なした方がいい。 自分のケツは自分で拭く個人主義が発達せず、世間体が個人の倫理を代用していた精神風土の中、
多数派が多数派というだけで過剰に意味を持つ戦後民主主義とたやすく付和雷同する国民性の相性は抜群だった。
問題は歯止めの利かないサヨク思想への違和にようやく国民が気付き始めた時には
国民の中の世間知がすでにサヨク勢力によってあらかた破壊されていたことだ。 ここ20年ぐらいの間に急激に社会が女性化してきているのを強く感じる。
気持ちに寄り添う、心のケア、きめ細やかな対応といった
昔なら一笑に付されていたであろう物事をうじうじと掘り返す世の中になった。
その一方で面倒くさいことは全て自己責任で片付け、ケツをまくる。
精神が弱体化し、ある程度以上の負荷に耐えられなくなったということなのだろう。 その結果として生活が快適になったのは事実だが、
それを享受し使いまわす側の主体の問題が放置されてきたのも確か。
快適さを当たり前のものとして享受することは、
不快に対する拒絶反応を制御する能力を減衰させることにもつながる。
そしてそれは、社会の不条理の中から自分の未来を切り開く意志のない
ただ環境に適応することのみに汲々とする、真の意味での批判力のない
若者を生み出してきた。
良いも悪いもない。
我々はそういう時代を生きているという認識は踏まえておかないと
借り物の体制批判を超えた建設的な批判力は宿らない。 たかだか日本が好きだというシンプルな感情の表明を
あれこれ邪推して叩きに持っていくところまでがサヨクテンプレ。
ま、それはおいておくとして日本が好きという中に、日本社会で幅を利かせる
サヨク勢力の存在が含まれるのかどうかという問題はあるな。 別に他人に押し付けてるわけじゃなし構わないと思うがな。
サヨクのように必死で人の生き方に口をはさもうとはしないだけ。 条件付きの愛国心の方が薄っぺらいと思うがね。
どんなに社会に不満があろうと社会から生かされている以上感謝の気持ちはある。
愛国は見返りを求めることで成立するものではない。 国を条件抜きで愛する姿勢が備わっていてこそ国のいい点悪い点を客観的に語ることができると思ってるから。 無条件の愛があるからこそ、現実に踏みとどまり自分にできる範囲での身の程を弁えた
社会貢献も可能になる。 日本人だけど日本人が嫌いっていうのは裏を返せば、
自分だけが可愛いと言ってるだけのような気がしないでもない。
自分のルーツ・アイデンティティとまともに向き合えない人間は
どこに逃げても尊重されることはないだろう。 ウーマン村本がステレオタイプだと思う。
「俺は敢えて馬鹿な一般人の目線に立って、討論番組で低レベルな質問をしてやっている」
あいついつもこんな感じじゃん?
中身ペラッペラなくせにインテリぶって差別が人権がと言いながら
物凄い上から目線で一般人を馬鹿な生き物みたいに見下している。 確かにサヨクが日本が嫌いは語弊があるな。
正確には自分たちの思い通りに動かない日本が嫌い、だな。
その意味で安倍叩きもネトウヨ叩きも理にかなってる。 日本人でありながら日本人が嫌いというのは、開国以来連綿と続く日本の伝統ではあるが、
行き過ぎた自虐はしばしば大衆蔑視に支えられていることもある。
どういう経緯で日本人が嫌いになったのか、サヨク思想の刷り込みによるものか、
具体的な人間関係の挫折によるものか、開放的な外国人との遭遇体験によるものか。
結論は同じでもそれを支える内実は様々なので、形成過程は丁寧に言葉にしておいた方がいいだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています