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 人口6千人のセベロクリリスク(千島列島北部のパラムシル島〈幌筵島〉に所在)にとって、この日はまさに黙示録となった。しかし、ソ連当局はすべてを隠蔽した。国の主要な新聞は沈黙し、地元紙は数日間、休刊にした。
 1952年11月5日早朝、セベロクリリスク(日本統治時代の柏原)の住民は強い揺れで目覚めた。午前4時の2分前だった。 ...

 激しい揺れは、太平洋の巨大地震によって引き起こされた。マグニチュードは実に9.0。リヒタースケールで8.3。震源地は、海岸線から30 km、深さ200kmの海底にあった。揺れはさらに30分続き、この間に破壊は、クロノツキー半島から千島列島北部にいたる海岸700kmを覆った。...

 波はそれほど高くなく、1m強だった。最初の津波は、海岸線に最も近い家々を浸水させ、破壊した。10〜15分後、水は退き始めたので、多くの人が、残った持ち物を取りに家に戻った。これが致命的な誤りとなる。
 海水がいったん退いた後、二度目の津波が街を襲った。それは、まさに破壊的な、高さ10bの波だった。波は、途中であまり障害物にぶつからず(最初の波が障害物のかなりの部分を一掃していた)、島の内部に凄まじい速さで流れ込​​んだ。
 その朝、セベロクリリスクのほか、高波は、オネコタン島のムッセリ湾(高さ9.5〜10b)とカムチャツカ半島のピラトコフ湾(10〜15b)とオリガ湾(10〜13b)も覆った。しかし、セベロクリリスクが主な犠牲となったことが後に判明する。わずか数分で、人口6千人の都市全体が壊滅した。
 それから第三波が来た。第二波よりは弱かったが、いわば破壊の「仕上げ」をし、海岸にあったほとんどあらゆるものを海に運び去った。...

 この悲劇に関するデータは、海軍部門のアーカイブが利用可能になった2000年代初めにようやく部分的に機密解除された(しかし、国防省のアーカイブはまだ機密扱いだ)。これらのアーカイブによると、千島列島北部の大災害により、計2,336人が亡くなった。
 しかし歴史家たちの意見では、1952年11月5日の津波は、少なくとも8千人の命を奪い、そのうちのほぼ2千人が児童と未成年だ。統計には、民間人と、遺体が発見され身元特定された犠牲者だけとが含まれているという。...

 しかし、セベロクリリスク自体は、津波の後、困難な時代に入った。避難した人々の多くは、都市の中核である水産物加工工場や基地がひどく損傷し、閉鎖されたため、二度と戻らないことに決めた。軍の駐屯部隊も大幅に縮小した。
 さらに、1961年には、沿岸海域でニシンが回遊しなくなったため、状況はさらに悪化。セベロクリリスクの主要産業に大打撃を与えた。 
 津波の後、都市は再建され、丘の近くに移動した。つまり、古代の海底の段丘にスライドし、海抜20m以上の高さになった。
 だが、理想からはほど遠い。現在、セベロクリリスクは、エベコ火山の噴火時の泥流の経路上にあるからだ。今日、2,691人がこの都市に住んでおり、これは島全体で唯一の集落となっている。