【人類学】渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ [すらいむ★]
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渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
私たち日本人は、縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。
現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したところ、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。
弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。
(以下略、続きはソースでご確認下さい)
日経サイエンス 2021年6月23日 2:00
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/ 現在同島で調査している伊勢古事記研究会長武智時三郎氏の話によるとイスラエル人が
日本に来たことは間違いなく、とくに@日本民族史上からいって淡路が一番古い土地と
いわれる、淡路の先住民族はアイヌ人といわれるが、アイヌ人は言語的にいってイスラエル人に
通ずるA現場の菰江(コモエ)という地名はヘブライ語では「碑の上の菰」という意味で
石ヅカの存在と符号する―などをあげている、発見者の白山氏らは「いまから三千年くらい
前にダヴィデ(旧訳聖書に出てくる人物、新訳ではキリストの祖先だという)の縁者と
みられるものがある意図をもってここに構造物を置いて行ったのではないか」という推理を
導き出しており、こんどの発掘によってそれを実証づけることになったものである
しかし日本の学界ではこれに対し@この推理を否定する材料はいまのところ何もないが、
時代考証は伝承によっているので学問的実証とはならないAイスラエル人が日本に渡来した
ということになると大和民族論を訂正するばかりではなく、国体や皇室にも影響がある―
という二点を理由にしてこれまであまり積極的な動きはみせていないが、この発見についての
興味と学問的な認識はもっているといわれ、白山氏は「そこに微妙な点があるのでイスラエル
協会やアメリカのアインシュタイン博士らユダヤ人の多くが関係しているニューヨーク文化
センターの協力によってあくまで純粋な学問的体系を一応立ててみたいと思っている、なお
現在イスラエル共和国に照会中の同国内における碑文(古代文字)の解読文を入手すればこの
発見はさらに裏づけの要素を深めることになるだろう」と語っている
とまれこの発掘によってイスラエル人の遺跡と確認されるものが発見されれば、日本の有史
以前にイスラエル人の一部が淡路に渡って来たということになり一躍世界の興味の的となると
ともに、日本の伝説〃神代時代の天孫民族〃なるものがユダヤ人の祖先と同一民族?という
ことも考えられ、ナゾを秘めた十五日からの調査の成行が注目されるわけである
http://mysteryspot.org/report/awaji-israel/awaji-israel.htm 結婚して高知に来たけどさ
なんかアマノジャクな思考のやつが多いわ
ああいえばこう言う的な
これって大陸とか半島のマインドなのかもな 「おいどんは縄文人でごわす」
リンク先を見ると大和朝廷ってのがなんなのかよくわかるな
古墳作ったのとは別民族だろ >>1
黒潮の海流に乗ってやってきたってことだろ
20年前に否定された弥生人半島渡来論に固執してる奴らにとっては謎だろうな >>4
高知県で道聞いたとき、
全員坂本龍馬のマネしてんなwって思って
車の中で笑いが止まらなかった 今夜は、カツオの叩き山盛りの
皿鉢料理で一杯ヤルぜよ...ww 土佐久礼とか呉とかは呉(と日本人が思ってる)人が住み着いたとこ 渡来人といってるだけで、どこからかが書かれていない。
朝鮮半島か、山東半島か、揚子江河口か、台湾か、はたまた欧米か?
おそらく元の論文には明記されているのだろうね。
山口、島根、鳥取は渡来系の比率が低い。
潮流の影響、土井が浜などの遺跡、出雲の伝説などと、ちょっと雰囲気が異なる。
焼き討ちされた弥生集落などもあるので、渡来系の多くは縄文系にぶっ殺されたのかもね。
そして四国や近畿など、当時の僻地で渡来系はようやく縄文系と融合できたということだな。
ただし、石川県では朝鮮半島からの影響が大きそうだが、現代の朝鮮人の祖先ではなく、当時、朝鮮の先住民を支配していた中国大陸の北方系の影響だろうね。 九州は大陸と距離は近いが
すでに先住勢力がしっかり基盤を築いていて
入植しづらかったのかな。
先住勢力との競合を避けつつ東を目指した結果
四国、和歌山、奈良といったところに定住していき
神武の東征と呼ばれるようになったのか。 半島からやってきたとすると
福岡・山口・島根あたりがオレンジじゃないと
説明がつかないけどそうなっていないね
とすると広東省とか福建省あたりの民が
黒潮にのってやって稲作も伝えた
ってこととつじつまが合いそうだよね 大陸の渡来人といっても北方と南方は区別できるんじゃないの。 縄文というけど鹿児島みれば隼人(ポリネシアン/蘇民)のこと
鹿児とは鹿の子模様/籠の事だけど
竹は南方由来の植物 四国なのに高知しか話題に登ってないのが草
渡来人てどこだろうな
かなり古い話なら唐人駄馬の話か
あるいは有史以降なら関西から流れ着いたものか
半島系は日本で一番少ないのが四国 近畿圏に渡来人由来が多いのは納得できる。そら、当時の中央に行くだろうからねぇ。
でも四国に多くて、九州北部から島根鳥取の山陰にかけて少ないのはどういうことだ?
渡来人は、黒潮に乗ってやってきたのか?近畿へたどり着く前に四国に到着してそこに住んだ? 鹿児島や青森のような端っこに縄文人の血が残るのはわかるが
福岡って大陸との入り口だから渡来人が拠点作りそうなもんだけどな 弥生系の渡来人と一口に言っても、紀元前数百年のころに
中国南部から黒潮に乗ってやってきた渡来人と、
紀元後になって朝鮮半島経由でやってきた渡来人と
大きく分けても2種類ある。
朝鮮半島経由でも、中国系の渡来人と百済や高麗系の渡来人とに
わかれる。
ところがマスゴミや左翼の学者は、渡来人をひとくくりにして
あたかも現在の朝鮮人に近いかのような大嘘を書いている連中がいる。
現在の朝鮮人は古代の渡来人がやってきたはるか後に、満州から
朝鮮半島に侵入してきたエベンキ土人なんだから、関係ない。 >>5
で、青森のキリストの墓に繋がってくるとか・・・・? この手の話って、一見、学術的な話に見えるが、実は、左翼の日本人分断工作なのではないかと思えてしまう。
縄文人が先にいて、あとから、弥生人が入って来たとされるが、こんなことで、人種対立、差別、マウント合戦が始まる。
これが、琉球、アイヌ独立の話につながるわけで、あくまでも、学術的ならばいいけど、、、、、、うさん臭いんだよなぁ。 瀬戸内海はハイウエーなんだよ、潮の満ち引きを利用すれば、下関から大阪湾まであっという間。
ハイウエイーの沿線(沿岸)=四国なんだよ。 だから、日本じゃほぼ無い●●を食べる文化があったんだろ(過去形)
ウツボじゃ無いですよ 弥生人の話してた言葉が今の大和言葉である可能性が高いらしい
すでに朝鮮半島で日本語グループが出来上がってから南下してきた韓国語グループに押し出される形で日本列島に渡ってきたと
まぁ弥生人が仮に古代韓国人なら日本語と韓国語の関係性がこんなに遠いわけないからそうだろうなとは思う >>8
何故か学者は黒潮のことを無視するよね。
結局、本ばかり読んでいるからそこから一歩も外に出られないんだよ。 >>31
それを可能にする航海技術がない
対馬海流は海流が絞られるから流速が速くて航海は難しい
航海が出来るのは文明があり船が必要だった大河の近くか、海洋族だった縄文人か
仁那日本府は縄文人が日本から半島に渡ってるだけで逆は不可能 色んなルートで日本に到着した勢力があるんだと思うけど、
そのうち、四国から近畿にかけて移動した勢力が拡大した結果が
このゲノム情報なんじゃないの。 そりゃ、中国や朝鮮から、
対馬海流に乗れば能登半島に着くし、黒潮に乗れば四国や和歌山に着くからな。
九州は隼人や熊襲の勢力が強くて上陸地には向かなかったんだろ。
呉越同舟で日本に向かって漕ぎ出せば、上陸地が越の国(越前/越中/越後)になり、衣装は呉服になるかもな。 日本人のルーツははっきりしていて日本人固有のハプロタイプは3万7000年前に日本に到着した人達なんだけどね。
渡来人とか弥生人とかアホかと。
日本人のハプロタイプの種類は多いのは事実だけど長年かけてちょっとずつ混血した結果であろう。 >>28
都合の悪い話は信じず都合のいい話ばかり信じてる人は、都合の悪い事実が世間に多くなると
それを信じないから結果として猜疑心が極めて強く、また都合のいい嘘に騙されやすい、となる。
陰謀論に染まりやすい人とも言える >>31
韓国語じゃなくて朝鮮語ね
語学に明るくない人の書き込みだということだけわかる 九州や山陰は渡来人の漂着は多かっただろう。
交易や数日の宿泊くらいなら大陸の情報と引き換えに客人としてもてなしただろうが
入植となると当然ノーだっただろう。 えーとな・・・渡来人でない日本人は居ないと思うぞ。
みんな、どこかから海を渡ってきた者の子孫だ。 >>47
朝鮮人とか、日本人よりずっと後になって半島に来た連中だろw >>32
確かに昔は変な思想で忖度する学者がいたけど、今は無視されてるよ
ただこの記事を書いた記者がいまだに染まってるだけだと思う 渡来人って日本人だから。
ミナマ日本府で朝鮮南部を支配。
百済は王子を日本へ人質に送って恭順、新羅の3代目の総理は日本人、4代目の王は日本人。
朝鮮半島には日本から海を渡って、多くの日本人が済んで日本人村を作ってた。
多くの日本人権力者が朝鮮南部を支配し、故郷の日本を懐かしんで日本から桜の苗木を持ち込んで植樹した。
だから当時の日本人入植地と、現在桜の昔からの植生値は一致してる。
長年経つうちには、朝鮮生まれ育ちの日本人もたくさん誕生していただろう。
生活習慣も姓名も古代朝鮮風にした日本人もいたことだろう。
そうして暮らしてた中、シベリアの「悪魔の洞穴」から這い出したエベンキが、途中でワイ族や匪賊などと混血し、凶暴化して朝鮮半島に雪崩れ込んだ。
多くの古代朝鮮人は攻め滅ぼされ。エベンキ族に上書きされた。
朝鮮南部に居住してた日本人は戦乱を嫌い、日本に戻ってきた。
これがいわゆる渡来人。
つまり朝鮮半島で暮らしてた日本人。
ミナマ日本府や、古代日本の属国だった百済や新羅の政権中枢にいた日本人。
能力のある日本人だった。
だから日本でも指導力など発揮してたのは当然のこと。
51 訂正
朝鮮半島には日本から海を渡って、多くの日本人が済んで日本人村を作ってた。
↓
朝鮮半島には日本から海を渡って、多くの日本人が住んで日本人村を作ってた。 >>32
ゲノム情報を素直に見れが黒潮に乗ってが理解しやすい。
福建省やフィリピンからなら納得できるな。
朝鮮半島経由なんぞデタラメ騎馬民族説のせい。真っ平御免だね。 四国の人って広末みたいな鼻が多いと聞きました
欧米諸国に見られるものですね アメリカだと土着民がインディアンで渡来人が白人黒人? >>26
近年の出土資料や半島の史書を見ると日本支配を裏付ける記載が多い
韓国では前方後円墳が数多く見つかり、
三世紀の地層から日本の文物が出土するが、日本では五世紀の地層からやっと半島の文物が出土する。
科学的研究が進むほど、古代日本の朝鮮半島支配が裏付けられていってる >>23
四国に故郷帰りした一団が
勢力圏を築いて、その痕跡を消し去ってから
今の歴史になったって説を昔読んだわ
痕跡を消さなきゃいけない理由が何かって言うと
アレとかコレなのかなぁ…ってなるか >>51
任那日本府(みまなにほんふ)
「みまな」だよ
「みなま」じゃない >>65
ちなみにウリの一族は、応仁の乱で京都から逃げてきた一族の末裔ニダよw 昔テレビでやってたが歴史を記した文献で
埼玉や東京・板橋には埼玉・高麗神社周辺をはじめ多くの地域で
朝鮮半島から渡ってきた人たち多数いたとか言ってたような…
渡ってきた時代が違うのか? 日本人ルーツは朝鮮だよ 朝鮮半島からたくさんの人が渡ってきたらしい >>69
お前の勘違いは、朝鮮半島と朝鮮人を同じだと思ってることだ。
大陸渡来系の日本人は、けっこう沢山半島経由で来た。
だが、それは朝鮮人ではないw 縄文人は朝鮮半島に進出してるし
渡来人、縄文人のとらえかたが根本的におかしいからこうなるのかもな 縄文遺伝子は日本人の1割程度しかない
渡来人にしたって弥生人と中国朝鮮系の帰化人はまったく別の民族
日本人の基礎になった民族はあくまでも日本語をもたらした弥生人 弘法大師を出した佐伯氏なんか代表だし
石鎚山のアーク伝説なども秦氏がらみだろうな。 ちなみに弥生人の頻度が九州で低いのは別に不思議ではない
弥生人は朝鮮半島からでなく沿海州から渡ってきたわけだから >>68
時代が大分後だよ
(以下引用)
三 武蔵国の帰化人
.
武蔵国に帰化人が配されたのは、『日本書紀』天武一三(六八五)年五月条に、
化来(まいき)つる百済の僧及び俗(しろきぬ)、男女并せて二十三人、皆武蔵国に安置(はべら)しむ。
とあるのがその初めである。そして帰化人を安置するために郡が建てられたが、武蔵国には高麗郡と新羅郡が存在する。
高麗郡は、『続日本紀』霊亀二(七一六)年五月条に、
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以って、武蔵国に遷す。始めて高麗郡を置く。
とあるように、東国の七国から高麗人を集めて建郡された。この高麗郡は、現在、埼玉県入間郡に併合されているが、日高町と飯能市を含む地域に存していた。
当時の高麗郡は、『和名抄』によると上総郷と高麗郷に分かれ、建郡のさいに、上総国から移された高麗人が居住したのが上総郷で、その他の高麗人が集住し高麗郡家が所在したのが高麗郷であったと思われる。
中心には高麗神社が鎮座し、高麗姓を名のる宮司が代々世襲されて、今なお正系を保っている。
この高麗家には、「高麗氏系図」一巻が今も伝えられ、その巻頭につぎのように記されている。
(巻頭虫蝕)之に因りて、従来の貴賤相集り、屍を城外に埋める。且つ神国の例に依りて、霊廟を御殿の後山に建て、高麗明神と崇む。
郡中に凶有れば、則ち之を祈る也。云々。
高麗神社の祭神は、一族の統率者であった若光王であるが、この若光王について、『日本書紀』天智天皇五(六六六)年十月条に、
高麗、臣乙相奄〓等(おつそうあむらら)を遣して、調進(みつきたてまつ)る。
大使臣乙相奄〓・副使達相遁(だちそうどん)・二位玄武(げんむ)若光等。
とあり、さらに三八年後の大宝三(七〇三)年四月条(『続日本紀』)に、
乙未。従五位下高麗の若光に王の姓を賜う。
と記されるが、これらの人物が同一であるか定かではない。
しかし、新たに設置される武蔵国高麗郡への統導者として、官位を授けられるほど中央政府において認められていた若光が派遣されたと、考えられなくもないであろう。
高麗神社の西南に位置する高台に、若光の守護仏という聖天を本尊とする聖天院(高麗山勝楽寺)があり、同じく若光の供養塔と伝えられる五重塔がその境内に建てられている。
この寺は、聖雲(若光王の三子)が、天平勝宝三(七五一)年に、師の高句麗僧勝楽が入寂したおり開山したと言われている。
一方、新羅郡は、前項で既述の『続日本紀』天平宝字二(七五八)年八月条の、「始めて新羅郡を置く」と記されるこのときに、高麗郡と人間川とを隔てた東の地に設置された。
志木・余戸の二郷からなる小郡で『和名抄』や『延喜式』には新座(にいくら)とあり、また『和名抄』の註記に「爾比久良」とされるように、古くは「ニイクラ」と称されたらしく、さらに中古には新倉と書いたようである。
現在では、新座(にいざ)・志木・白子などの地名が使われている。
このほか、武蔵国における帰化人の居住として、播羅郡に上秦郡と下秦郡があり、賀美郡に長幡部の名が見られ、これらの郡には秦(はた)氏の存在が認められる。
この秦氏は漢人系の帰化人で、五世紀の初め、楽浪(らくろう)・帯方(おびかた)の二郡が滅亡したさいに、弓月君が百数十県の人民を率いて渡来したと伝えられる代表的帰化氏族の一つである。
彼らは養蚕や機織の技術をもって朝廷に仕えていたが、やがて一族の分派が東進し武蔵国へも移動してきたらしく、式内社の長幡部神社が鎮座することなどからも、秦氏一族の居住地としていたことがうかがわれる。
同じく漢人系の帰化人に、浅草付近に住んでいたと言われる檜前(ひのくま)氏がいる。 >>76
ついでにその前振りも転載しとく
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一 帰化人の渡来
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古代日本の国家形成過程における帰化人の役割は、文化的移殖者としての、また産業的開拓者としての活躍などの面で無視することはできない。
そして大化前代の帰化人、いわゆる新漢人(いまきのあやひと)などは、主に畿内(大和・山背・摂津・河内・和泉)や近江に集住し、特殊な職業集団(部)として中央政府と結びついていた。
皇室や有力な氏族の多くは、帰化人たちを自分の配下に置いて包摂することにより、彼らの高度な知識や技術、あるいは労働力を活用し、自己勢力を増大していったのである。
七世紀に至って、朝鮮半島の経営をめぐる勢力争いが活発になり、唐と新羅の連合軍によって日本の救援水軍派遣にもかかわらず百済が亡ぼされ(六六三年)、ついで高句麗が滅亡した(六六八年)が、この前後に、亡命者として多数の帰化人が日本へ渡来した。
『日本書紀』によれば、天智天皇四(六六五)年に百済の男女四〇〇人を近江国神前郡に、翌五年には百済の僧俗男女二千余人を東国に、また同八年には佐平余自信(さへいよじしん)・鬼室集斯(きしつしゅうし)をはじめとする男女七百余人を近江国蒲生郡に、それぞれ配している。
百済と高句麗からの帰化人渡来は、七世紀の後半まで続くが、新羅からの帰化人も、たびたび渡来したことが『続日本紀』天平宝字三(七五九)年九月条に記されている。
太宰府に勅す。頃年新羅帰化して舳艫絶えず。賦役の苦を規避して、遠く墳墓の郷を棄つ。ここに其の意を念うに、豈(あに)顧恋することなからんや、宜しく再三引問して、還らんことを情願する者は、糧を給いて放却すべし。
新羅は、古代日本との外交関係において、朝鮮半島の勢力争いで敵国ではあったが、むしろ地理的条件によって、大陸との交渉上の仲介地となり、接触は緊密であった。
そのため、さきの記事のごとく、新羅国の政情が悪化して、重税にたえかねた人びとが、平安時代に至るまでわが国へ逃れてきたのである。 >>77
とりあえず、長文コピペ荒らしはNGにしとくわ。
さすがに、二回目は許せん。 >>77 つづき
(以下引用)
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二 東国への移住
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帰化人が多く東国へ配属されるようになったのは、一つには畿内や近江に収容しきれなくなったという理由が考えられる。
あるいはまた、未墾地の開拓のために集団移住せしめたのかもしれない。
畿内から遠く離れた東山道・東海道の未開地に彼らを集住させることにより、荒涼とした原野が広がり人は稀薄という状態の東国を開拓させ、古代国家の強化をはかったのであろう。
『続日本紀』天平宝字二(七五八)年八月条に、
帰化の新羅僧卅二人、尼二人、男一九人、女廿一人を、武蔵国の閑地に移す。是に於いて、始めて新羅郡を置く。
とあり、また「養老令」の戸令に、
凡そ外蕃に没落して還ることを得た者、及び化外の人で帰化せし者は、所在の国郡が、衣類を給い、状を具さにして飛駅を発して申奏せよ。
化外の人は、寛国に於いて貫に附して安置せよ。没落の人は旧貫に依れ。
とあり、閑地すなわち空閑地に移し、寛国すなわち広大な原野を有する国に安置すべきことが記されている。
両記事とも未開地に対して帰化人を配したことを示すものである。
また、これらにさきだつ『日本書紀』持統元(六八七)年三月および四月の条に、
三月の乙丑の朔己卯、投化(まいおもむ)ける高麗(こまびと)五十六人を以て、常陸国に居(はべ)らしめ、田を賦(たま)い稟(かて)を受(たま)いて、生業(なりわい)に安からしむ。
(中略)丙戌、投化ける新羅十四人を以て、下毛野国に居らしめ、田を賦い稟を受いて、生業に安からしむ。夏四月の甲午の朔癸卯、筑紫大宰、投化ける新羅の僧尼および百姓の男女二十二人を献(たてまつ)る。
武蔵国に居らしめ、田を賦い稟を受いて、生業を安からしむ。
とあり、常陸・下毛野・武蔵の国のいずれの帰化人も、「田を賦い稟を受いて、生業に安からしむ」とされている。
これは、農作業の始まる時季に、田や種籾など農料を与え、広大な関東の原野を帰化人たちに耕作させたのであろうと考えられる。
こうして東国に多数の帰化人を配属した背景には、「養老令」の雑令の条に、
凡そ蕃使の往還せむ大路の近側に当たり、当方の蕃人を置くこと、及び同色の奴婢を畜うることを得ず。
亦伝馬子及び援夫等に宛てることを得ず。
と記されているごとく、いつ帰化人たちによってひき起こされるかわからない種々の問題を防ぐために、中央や韓地から遠く離すという意味も含めて、一定の土地を与えて労働に従事させ、
屯倉の設置以来進められてきた東国の開拓をいっそう促進させるとともに、帰化人たちを律令制下に組み入れようとする意図が含まれていたのである。 イスラエルのラビが調べた
ユダヤの神殿後は徳島だし
四国はユダヤ系が多いかもね
淡路島はおのころ島だし 日本で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、紀元前3〜4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧の頭部。
縄文時代晩期の紀元前3〜4世紀に鉄器と稲作農耕を持ち込んだ渡来人は、何処から来たのか >>69
朝鮮半島の先住民は縄文人ですよw
5〜6世紀までは日本の版図。 お遍路さんで回ってた時に神社もお参りしてたけど
百済系の神様を祀ってるのが結構多かったから
やっぱそういう由来があったんだな 弥生文化を嫌って縄文人が
カヌーに乗って南米まで
逃れた話はガセ? そんなに渡来した帰化人が多ければ、朝鮮みたいな未開の国になってるよ
倭人だから脱アジアの日の本が出来上がった そうでなきゃ、朝鮮みたいな
島国になってるよ >>84
時代がズレてるんじゃない?
縄文人が海から世界に出て行ったのは
弥生以前だったと思うけど 朝鮮と日本人が近ければ日本は朝鮮並みの遅れた国になってるし
韓国も北朝鮮もノーベル賞を10個くらいは受賞してるよ
つまりは民族が違うってことさ >>70
長宗我部の元は曽我部 別の曽我部と区別するために長宗我部にした
香宗我部親泰ってのもいるかせな 長が張からなんて嘘は止めろ >>17
九州は破局噴火連発の中で縄文人系が弱体化しとったんちゃうんけ?
潮流に乗って五島辺りに着いた支那大陸南岸からの渡来人が弥生系って理解なんだがね。
筑紫平野からジワジワ九州内陸〜東征と浸透して行ったのか、時期違いで追われた連中が瀬戸内経由で東征したのかそこら辺は判らん。
出雲系も必ずしも半島系とは言い難いのでは? 製鉄という要素を考慮せにゃならんし。
高温加熱の技能は縄文期の日本人は未収得なんやろ? まあ狩猟漁労採集で喰えたって風土環境も凄いなと思うが。 台湾沖縄九州四国ルートか
個人的に北陸の訛りって韓国語のイントネーションに似てると思うわ 四国は山内 一豊が家臣団引き連れて来たからじゃね 尾張出自だからね
地元郷士は追いやられたんだろ 渡来人と現代のチョンは別物ってことだけは先にはっきり言っておかないと勘違いするやつおるやろ。 >>68
多分 >>76 のコピペで把握出来るんじゃね?
半島内戦&侵略で亡命してきた豪族喰わせるにゃあ未開地開墾が適当やろと。
所謂任那経由でチョロチョロ往来有る中でレコンキスタ図って成功したのが新羅/失敗したのが百済と考えたら大体合ってると私的に妄想する。 四国民はイスラエルの民としてバカチョンを追い出さなければ マクロで見ると日本は古モンゴロイドと新モンゴロイドの結束の血筋とも言えるな
そのかわり血もだいぶ流れたが
アジアでもどれだけの恨み抱えた地なのかわからんから他所の悪口言えねえなw
監視社会早く崩壊すれば良いのに >>81
東南アジアでは5世紀頃には製鉄が広がってたし
ヒッタイトともなると紀元前に近い時からやってるし
文化的ルート的には南方からっぽいのも結構あるし、
製鉄は別に難しい知識でもないし
仮に製鉄の起源が中国だろうと限定されないと思うよ 科学で知れるルーツは比較的全てにおいて公平だよね
なぜかどこにでも湧くレッテル貼り野郎が利用する限られたこの掲示板とは違って、分子生物学は真実を暴いてくれる
早く自分のサンプルデータ持ち寄って盛んに日本人のルーツが議論されるような板になってほしいもんだわ 南海地震と津波と火山で住民が減少したか絶滅したところに流入してきたのがいるってだけじゃね? ハプログループO系統の細やかな違いについては結構細分化が一番進んでいると言える領域で、
指摘される事が多い「日本人のO系統は大陸人や半島人と同じ」という説はそういった裏付けを伴う分析により否定されつつある
つまりこれは弥生人と一括りにされるO系統のルーツが単純では無い事を示す
都道府県別に遺伝子分布を見た以前のスレでも指摘されてたので抜粋
>福岡で出土する弥生土器が朝鮮半島南端部で出土することはすでに20年ほど前から問題視され、
日本の弥生人が朝鮮半島と往来していたと考えられています。
>但し弥生人の遺伝子といわれるO1b2についても日本と韓国では大きな違いがあります。
>そのうちのL682 (旧 XO-47z)を朝鮮人固有の遺伝子とこういうスレッドで主張している人がいますがそれは何かの間違いか、ウソです。
>韓国では日本とは違うO1b2のタイプの L682 (旧 XO-47z)の種類は35%もありますが
>これは韓国発祥ではなく、水稲文化の担い手ともあまり関係がないと言われています
>つまり、韓国には本格的な水稲耕作をする弥生文化の担い手は殆どいなかったと考えられます。
>そしてそ水稲文化にあまり関係ないとみられる韓国に多いO1b2 L682 (旧XO-47z)
>は日本人では僅かに8%しか見つかりません
>ですので日本と韓国ではO1b2が共通だというのもウソなのです。
>日本人に多いO系のタイプは稲作弥生系O1b2は韓国や朝鮮半島全体で少ないO1b2a1a〘CTS713 旧47z (O-47z)〙で、
>これが日本では30%近くもいます。
>日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度に見られ、タイ人やインドネシア人など
>でもみられる稲作倭人遺伝子ともいわれています。
>つまりこの事実が物語っているように日本人は稲作弥生人なのです。
>縄文人に関しても(日本人のベースと学術的に確定している縄文人)は
>世界指折りの海人族で日本近海は隈なく活動圏としていました。
>ですから朝鮮半島の南端部にも縄文人は入植していて、釜山・加徳島の獐項遺跡の
>人骨(6,300年前:BC4,300年)が縄文と弥生人を混血させた現代日本人のようなものと判明し、
>日本から現代日本人とほぼ同じ人間が島嶼部の地域に入植していたことも分かりました。
>韓国人の共通ハプロと大まかに言われるO1b2(オーストロアジア語族)とO2(ハプロシナチベット)
>ですが、縄文D1bが韓国人に見つからないだけではなく、D1bと共に日本人の遺伝子型の根底の
>祖型であるO1b2に関しても共通性は少なく、韓国では縄文D1bが殆ど見つかりません。
>つまり日本独自ハプロタイプの縄文D1bと弥生倭人O1b2a1a〘CTS713 旧47z (O-47z)〙で
>何と70%以上を占めています。
>客観的には韓国人との共通性は多く見積もっても30%ほどしかありません。
>結論的には、日本人と韓国人は驚くほどに違うということです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています