0001しじみ ★
2020/07/02(木) 20:30:38.83ID:CAP_USER■研究者が当たり前のように使っている「椿井文書」
江戸時代の偽文書(ぎもんじょ)と聞いて何を思い浮かべるだろうか。うさんくさいと思う人もいるだろう。現代でいうところの有印公(私)文書偽造という犯罪を思い浮かべる人もいるかもしれない。いずれにしても過去のことなので、自分とは直接関係ないと考えている人が大多数に違いない。ところが、知らず知らずのうちに現在に影響している江戸時代の偽文書も存在するのである。
古文書学に基づいて偽文書を排除し、真正な古文書から過去の姿を復原していくのが歴史学の基本である。この作業が幾重にも積み重ねられてきた現在の歴史学においては、荒唐無稽な内容の、明らかに偽作されたものは命脈を保てない。
もちろん、そのようなものに真実を求めようとする一般の方々はいるものの、少なくとも研究の世界では、この手の偽作はほぼ壊滅状態にあると歴史学者の大半は思っているに違いない。かくいう筆者も、27歳になるまではそう信じていた。
ところが、今世紀に入っても、多数の研究者が当たり前のように使っている偽文書が存在したのである。それが「椿井文書」である。しかも、近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類をみない存在といえる。分布の範囲やその数、そして研究者の信用を獲得した数のいずれにおいても、日本最大級の偽文書といっても過言ではないと思われる。
■「パンドラの箱」の中身をのぞいてしまった
「椿井文書」とは、山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(まさたか1770−1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。
筆者が「椿井文書」の存在に気づいたのは、2003年の終わりごろだったと思う。大阪府枚方市(ひらかたし)の市史担当部署で非常勤職員としてつとめはじめ、1年あまりが経過したころであった。
きっかけは、津田城という枚方市を代表する山城の歴史を簡単にまとめてほしいという依頼にあった。調べていくうちに、津田城は中世の城ではなく、近世に津田村の村人が創作した由緒に起源があると気づいた。その由緒とはかつて津田山の山頂に津田村出身の津田氏の城があったというもので、そのことによって津田山の支配権が中世にまで遡ることを主張しようとしたのである。
さらに調査を進めると、津田村と敵対していた穂谷村では、それに対抗して新たな主張を展開したことも浮かび上がってきた。すなわち、それ以前の古代に、朝廷に氷を納める氷室が存在した穂谷村こそがこの地域の本来の中心で、津田山の支配権も自村にあるという主張である。
『枚方市史』には、穂谷村に所在する三之宮神社の所蔵文書が掲載されており、そのなかにかつて氷室が存在したと記されている。これらの古文書が実際に作成されたのは近世だが、中世史料編に含まれているので、『枚方市史』では偽文書とは認識されていないことになる。
この三之宮神社文書の入手経路を調べてみると、原蔵者として椿井政隆の名前が浮上してきた。三之宮神社文書が椿井政隆作成の偽文書であることも明確となった。
それからも椿井政隆の存在が気になって、穂谷村と隣接する南山城地域の自治体史もめくり続けてみると、似たような内容の古文書が次から次に見つかった。しかも、いずれも正しい中世史料として掲載されているのである。
見慣れてくると嗅覚は冴えるもので、同様のものを拾い続けては隣の自治体史へ、そしてさらにその隣へと順に目を通していくと、気づけば滋賀県まで辿り着いていた。このときの「パンドラの箱」の中身をのぞいてしまった感覚は、今でも鮮明に覚えている。
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