ここまでのまとめ

 ※記号の意味
 ●:朝鮮式印象操作で畿内説をゴリ推しする隠れ在日の主張
 ○:常識ある日本人の主張

●邪馬台はヤマトである
○中国の文献なので「邪馬台」なら「シャマダー」と読む
○そもそも魏志倭人伝には「邪馬壹国(シャマイゴー)」と数字の「壹(壱)」が使われている
○ちなみに「卑弥呼」は「ペイミーフー」と読む
※魏の標準語は呉語(≒上海語)

●西日本は畿内を中心とした祭祀統一による連合国だった
○史書や記紀にはそんな記録は残っておらず、根本的に学者の空想物語である
○倭人伝には祭祀の様子が描かれているが女王の役割は書かれていない→女王卑弥呼と祭祀は無関係である
○また墓の形式は被葬者の宗派によって決まるものであり、女王が決めていたわけではない

●卑弥呼時代が古墳時代の始まりであり墓は前方後円墳に統一された
○古墳文化は東日本に見られる前方後方墳など卑弥呼時代のずっと以前から存在してる
○古墳時代には前方後円墳以外の形式の古墳も多数建造されている
○前方後円墳の構造には各地域独自の発展が見られる
 
●畿内式土器が出土する範囲は畿内政権の傘下である
○卑弥呼時代は異常気象の続いた時期であり、畿内で飢饉に見舞われた人々が移住した痕跡である
 (3世紀:畿内→瀬戸内→大分→福岡へと畿内式土器が分布している)
○奈良の唐古鍵遺跡は丁度この時期に無人化している(住民の行先不明)
○纏向遺跡には人が住んでいた形跡がない

●纏向の大型建物が卑弥呼の居た宮殿である
○柱の細い平屋の建物で、周辺からは木製の土木用具や東海・伊勢産の飯炊き土器が多数発見されている
 よって、古墳造営時の土木事務所であった可能性が高い
○城柵も楼閣も無く、魏志倭人伝で描かれているような警備の厳重さは微塵もない
○桃の種は柵列の下から出土しており、同じ時代のものではない