【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
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所在地を巡って九州説か近畿説かで激論が続く邪馬台国論争に、新たな視点を投じる本が刊行された。福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長片岡宏二さん(63)が書いた「続・邪馬台国論争の新視点−倭人(わじん)伝が語る九州説」(雄山閣)だ。
「弥生時代の終わり、日本列島では近畿地方と北部九州の二大勢力圏があった。近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実。でも卑弥呼は決して、力でクニグニを制圧した人物ではない。隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ、邪馬台国の姿と重なる」。九州説を採る研究者として、論考を新著に詰め込んだ。
続編の今作に合わせて増補版に改めた前作「邪馬台国論争の新視点−遺跡が示す九州説」(2011年刊)では、論争の火種になってきた「魏志倭人伝」記載の方位や距離のずれを、実際の遺跡調査に即して整理し、筑紫平野の「クニ」の連合体を邪馬台国の有力候補として位置づけた。続く今作は、卑弥呼が「どのような王」として存在し、彼女が約50年間統治した「クニ」がどんな姿の社会だったかを考察している。
片岡さんは倭人伝を含む歴史書の記載から、卑弥呼像を「長年の戦争によって乱れ、疲弊した諸国が戦争を終わらせるために協力し、納得して担ぎ上げられた調整能力の高い人」とみる。そして倭人伝で描かれた社会の様子や権力構造を、近畿と北部九州それぞれの遺跡群に重ね、北部九州の相互扶助的な連合国家を「邪馬台国」とした。
「魏志倭人伝の基になった魏の使いは、近畿と九州のどちらがいかに日本として成熟し発展したかを書き残したのではない。ただ邪馬台国という地域のありようを書いた」
北九州市出身。ジャーナリストにあこがれを抱いて進学した早稲田大で、考古学と出合った。宅地開発と歩をそろえて遺跡発見が相次いだ小郡市に就職。発掘現場の視点から、日本の成り立ちを考えてきた。
近年、近畿説が広く受け入れられがちなのは「現代の日本が中央集権的なので『国とはそういうもの』と思われてしまうから」とみる。執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた。「専制君主ではなく、諸国が共立し、彼らに慕われた卑弥呼だった。でないと50年も続きません」。現場での実感を研究に生かすことはジャーナリストの姿勢にも通じている。
https://wajinden.com/wp-content/uploads/2014/09/yamataikoku-ichi.gif
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595956
★1が立った日付2020/04/08(水) 14:59:30.28
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1586325570/ >>92
俺がガキの頃だけど、
「山の手」の「お姫様」って意味で使ってた単語だから固有名詞じゃないぞ
当時は偉い人らは守りやすい高台(山の手)に住んでたからな
俺の住んでた所は違うけど女性(お姫様)が代表やってた村も結構あったし >>100
誤字訂正
五十猛(=海(=天)香語山) >>1 邪馬台国がどこに存在したか?……これに必死な人達の気持ちがわからない。どうかしてる。 >>100
かなり怪しいんだよね
経歴ロンダリングがあるね絶対 中国人が書いた文章を本当だと思ってる時点で全部の研究がアウト >>105
記録が残ってないわけない
消されてると考えるべき
ただ、古墳に何か書かれてるんだろう >>106
調査禁止の陵墓はいつまで禁止にしとくんだろね
こんな国他にないだろ 近畿と北部九州に
祖を同じとする親戚関係の国があったんじゃないの? >108
>祖を同じとする親戚関係の国があったんじゃないの?
その通りだと思います。 3世紀の畿内はまだ開拓途中の狗奴国
纏向は東海政権の古墳造営基地局 150mの墓を造ったとあるんだから
それを探せばいいだけでしょ 距離やスケールについては魏志韓伝、倭人伝ともに何らかの縮尺法が用いられているので100歩=150mとは言えない
殉葬者100名を伴う墓を探せばいい >>107
こんな昔の国主がまだ続いてる国が無いからな
王朝が変わらなきゃ普通は王の墓は暴かれない >>111
その通り
>>112
そういう非科学的なフィクションは月刊ムーでやってください >>114
文献曲解、方角詐称、物証皆無で印象操作してる畿内説は月刊ムーで論じてください
つうか犯罪ですよ >>115
どこが文献曲解なのかも示さず中傷するだけなんですね
物証皆無ってのも自分の勉強不足を棚に上げて中傷してるだけです 魏志倭人伝をよく読むと、
女王国視点で北や東についての記述はあるが、西に関しては何の記述も無い。
これは、倭種の国々の中で女王国が最も西に位置していたことを示している。
<魏志倭人伝>
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国から船で南に行くと侏儒国(種子島)がある
・ソウルから半島沿岸を水行し、対馬海峡を渡り、邪馬台国の方角は南である >>117
位置的に、宮崎県(日向)しか考えられないよね。 >>79
方位を間違える奴らが船で移動できないよ。
夜で太陽が出てれば普通の人なら間違えない。 日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内庁による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、神武東征によって稲作と弥生土器などの弥生文化が普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり 旧唐書には、倭国と日本(大和政権)が別記されている
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
以下旧唐書より
■倭国条(〜631年)漢委倭奴国の系統
「倭国者,古倭奴国也。」倭国は古の倭奴国である
■日本国(701年〜)出自不明な大和王権爆誕
「日本国者,倭国之別種也。」日本国は倭国の別種である
古の倭奴国では無い理由は?
↓
A:「日本舊小國,併倭國之地。」小国だった日本国が倭国を併合した
これは日本国の遣使に倭国と日本が別国だったという
認識がなければ出てこない言い訳だ >>121
『親魏和王の都』という本の伝承によれば、
邪馬台国=日向の都万国(投馬国)
卑弥呼=宇佐神宮の姫巫女・豊玉姫
台与=豊鍬入姫(ミマキイリヒコ[崇神]と豊玉姫の娘)
倭国大乱=日向の都万国(物部王朝)による東征で勃発 >>95
涙拭けよ願望に満ち溢れたファンタジーの学説で、まったく信用できない近畿パーww >>97
近畿パーは食糞だけで満足してろよ
君なら出来る必ず! 田中英道さんの埴輪ユダヤ人説は面白いよ。魏志倭人伝はちょっとだが。 魏からヤマイチ国へ派遣された張政という官人の軍事報告に基づき陳寿が三国志倭人伝をしるした
張政はヒミカが没するときも倭に滞在し 魏が滅びた時に帰国した
山一国に呉が攻めて来た時に魏からの応援が到着する時間が不正確なものであるはずはない
20年間大宰府へ滞在し魏が滅んだ時に帰国した
ヒミカの死亡時も滞在し 径100歩は性格な数字25m 「一番嫌いな都道府県民」全国10000人アンケート ポスト現代
1位 東京人 3762人 ダントツ嫌われ者
2位 沖縄人 854人 人口比率ワースト嫌われ者
3位 福島県 611人 >>129
田中英道さんは、
「秦の始皇帝はユダヤであった」、
「徐福・来日伝説は本当だった」、
とか絶妙だよね。
実際、秦の始皇帝や斉の徐福は、12支族・ユダヤ人の末裔であると言われている。
徐福が率いてきたハタ族の家系も12支族・ユダヤ人の血を引いていることに違いはない。 >>1
この人ほんとに古代史の専門家なんだろうか?
古代史の通説を否定してまで畿内説批判してるわ >>133
お前みたいな奥山よりまともだという事だw >>120
普通の人間の世界なら夜は太陽は出ないぞ…
どこの世界の人間なんだ >>125
確かに宇佐市のある中津平野から近くに耶馬渓という景勝地があるけど、
名前が邪馬台国に似てるなと思ったあことはある。
ヤマ(邪馬)地方にある渓谷だから耶馬渓なのかな。 >>136
いわゆる邪馬台国の卑弥呼が宇佐出身ということで、
彼女に因んでつけられた地名かもしれないね。 >>136
ちはみに、豊前、豊後の「豊」という字は、
いわゆる邪馬台国の卑弥呼(姫巫女)の名が豊玉姫であったこと、
そして、出身地である宇佐を中心に、
その周辺を勢力圏(豊王国)にしていたことから「豊」
の字が旧国名に残っているらしい。 九州説の人って素人が書いた本は読むけど、専門の学者の本は読まないよな
ほんと不思議だわ だから~邪馬台国の九州説は無いから
当時の中国語読みは「ヤマドゥ」国なんだから
因みに俺は近畿地方では無いよ 元の時代のあちらの日本列島の地図でさえ
北海道が上で九州が下になっている
だから南に行くのは東に行くってこと
近畿地方で間違いない >>144 間違ってた 九州が上(北)で
北海道が下(南)でした 失礼 >>140
>専門の学者の本は読まないよな
世間知らずの妄想専門家が書いた小説に興味はありませんw >>144
原本はこれだが?
「混一疆理歴代国都之図」
https://i.imgur.com/6BIVK45.png
日本列島が逆さになってるのを見たのか?w
あれは朝鮮で複写した際に用紙が足りず、縦書きの日本製地図を貼り付けたコラだぞw >>42
当時の地図が今と違って 歪んでるから
最古の地図の1つで 日本は台湾あたりにある
龍谷大学所蔵『混一疆理歴代国都之図』概略
https://barc.ryukoku.ac.jp/research/upfile/No.15-3.pdf 畿内説の思考は竹島をドクトに仕立て上げようとする半島民族と同種だw
そうやって印象操作を繰り返してきたんだよ 物理的に北海道が九州より南に位置している訳無いから
単に(地図の)上を南として書いているだけでは? >>148
日本列島の形が原本と異なるだろw
それで龍谷は赤っ恥かいたんだよなw 魏志倭人伝の記述
至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜
又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴
つまり対馬←→壱岐位置関係が南北だな
https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png
そして邪馬台国は南
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
さらにその南には敵対していた狗奴国 まるで纒向の建物で祭祀が行われ、大量のモモが奉納されていたかのようの印象操作してきた纒向バカw
桃の種が出土したのは建物とは無関係な場所
https://i.imgur.com/xOM3DEb.png >>141
例えば、上の方に書籍が紹介されてるけど、勝友彦とか
他には、安本美典、古田武彦、田中英道など
いずれも古代史の分野では素人
全員、知識が乏しい >>154
歴史捏造事件から体質の変わらない考古学者よりマシだね
そして何より、お前より頭いい人達だし >>137
耶馬渓と名付けたとされているのは江戸時代の頼山陽という人物で、名高い歴史家であり、日本の歴史や中国の史書にも精通していた
みたいだね。
それが山国谷という「ヤマ」と「クニ」という地名と周辺の地理からこの地の近くにかつて邪馬台国があったとみなして耶馬渓と名付けたのかもしれない。
だから 邪馬台国の谷→山国谷→耶馬渓 となったかもしれない。 頼山陽という人物は、大阪出身らしいので、九州の片田舎のそんな谷を旅行するなんて
ほぼ可能性は低いと思う。
同世代の伊能忠敬が測量で全国を回っていたみたいに、頼山陽は歴史家として邪馬台国に興味があり、
そこを訪れ、それと思われる場所に耶馬渓と名付けたんじゃないかな。 >>160
この新聞記事の問題点
@中国人学者の真意が不明
A日田で出土が事実であるかのような論調
@について
・中国人学者が自分から発信した内容でない
・中国人学者が自分の言葉で述べた内容かどうかも不明
勘ぐれば、佐賀新聞の匿名記者の誘導尋問で、言わされた可能性もある
それどころか、匿名記者の誇張、チェリーピッキング、作文、創作の可能性もある
Aについて
・状況証拠が真っ黒で、日田で出土した可能性がほとんどないことに記事で触れていない
・大手メディアは別の記事で上記の件をきちんと指摘しているが、佐賀新聞は地元贔屓のためかスルー 個人的は
みんなが間違ってるのは伊都国の位置だと思う
糸島ではないよ >>162
伊都国についてはほぼ糸島だと特定されてる。
古くは怡土郡と呼ばれていて、弥生時代の繁栄を示す平原遺跡で知られる。
発掘により(邪馬台国とは別個だが)女王国だったことが判明している。
伊都国は弥生時代末期に一旦滅んだようだが、
古墳時代中期になってから、また古墳(前方後円墳)が作られるようになっている(曽根遺跡群) 自分は、伊都国に相当する位置は
佐賀方面の多久か小城だな。
方向もあってるし、松浦方面からだと
糸島には山越えするか
船じゃないと行けない。
多久、小城から松浦は、ずっと谷があって
行きやすい街道があるんだよ。
古くは秀吉も肥前名護屋城に行くのに
この街道を使ってる。
松浦が肥前国なのはそういう理由があるのだ。 >>163
それ、間違ってると思う
というのが自論 イト国についてなんだけど
実際はほぼ、現在の佐賀に近い当たりだと思う
金立山の近くというか麓というかあのあたりに聖地みたいのがあって
徐福伝説があるあたり?
多分、神功皇后の頃に伊都国が山を越えて糸島に移ったんだと思う
帆船技術が伝わった後あたり 邪馬台国が何処にあったとか意味が無いし、解からなくても良い。
そもそも九州とか、奈良、四国などと言ってる人の殆どがその土地出身!
魏の言葉を誰が話せたのか、翻訳に間違いは無いのか、誰が魏の国に案内した、
魏はどんな言葉と文字を使っていたか等、魏志倭人伝以前に検証するべき事がある。
魏が滅んでから魏の歴史を漢字にまとめた魏志倭人伝、元の物が無いのでは正確ではない。
もし隣の国が渡来人を使って魏に行ったのなら他の国も言ってるはずで、その検証もいる。
そして邪馬台国以前に大陸に行って金印持ち帰った実績があるのに・・・ >>167
邪馬台国は宮崎です
他にはアリえないんです >>166
それって伊都国が弥生時代後期になって現在の糸島に移ってきたってことか?
じゃあ「間違い」ってほどのことではないかと。
「○○から△△に移動してきた」みたいな議論は幾らでも可能なんだけど
糸島が栄えてたのは事実だからね 糸島も栄えてたし
福岡も栄えてた。
佐賀の松浦(唐津)も栄えてたし
佐賀の小城も栄えてた。
北部九州は弥生時代の遺跡でいっぱいだからね。 おそらくは栄えすぎて
農業生産力の限界にあった。
九州から他所に移住する話がいくつかあるが
農地が足りなかったんだと思う。 邪馬台国のあった場所なら岩手県八幡平じゃないの?
鯨先生が詳細な論文を発表してたよ。昔、本屋で買って読んだ。 伊都国が糸島でないと言ってる人は三雲遺跡は何だと思ってる? >>133
正解を導き出すには色んな視点が必要でしょ
通説なんてあくまで通説であって それが正解とは言い切れないんだから >>169
諫早の水路が使えた頃は伊都国は佐賀付近にあったと思う
大村湾や五島列島が栄えてたのはそれまで
諫早の水路が埋まって佐賀のあたりから五島列島は価値が著しく減った
で、伊都国は山を越えて糸島に移った
神功皇后の頃になると帆船の技術も入ったし
わざわざ五島列島まで回って朝鮮半島に行く必要も無くなった >>170
>北部九州は弥生時代の遺跡でいっぱいだからね。
九州北部は弥生時代末期以降は一気に衰退しちゃうんだよな
かわりに物凄い数の前方後円墳が近畿で作られるようになり、
九州や他の地方でも増えていく >>178
衰退というほどではないよ。
例えば鉄器出土数は奈良時代まで
福岡県が一番多かったからね。
鎌倉時代まで、福岡県が
一番多いと言う説もある。
ついでに、銅器の出土も
奈良時代中期まで、福岡県が多い。 >>178
前方後円墳数は、千葉県が一位
福岡県が八位
奈良県が十位。
地元の人にはたくさんあるように
見えるのはわかるけど、
もっと上を行くところもあるんだよ。 鉄器や銅器の出土量から見る限りでは
奈良時代あたりに、北部九州から畿内に
主導権が移っているように見える。
天智天皇が白村江で大敗北して
太宰府から近江大津京に遷都し
平城京を建てる話と一致する。 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
倭國之極南界也はどこまでか? 其國本亦以男子爲王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼
倭奴國が倭國王帥升(107年)のクーデターにより弱体化、その後上手くいかず
食糧等不作もあり倭國亂。卑弥呼が登場
卑弥呼が外国の文献に登場するのは、
新羅本紀第二阿達羅尼師今二十年夏五月 倭女王卑彌乎遣使来聘
173年(新羅)で168年に
http://eclipse-navi.com/ichiran/nendai/1000before/0168.html
あり、その後、治まる。近畿では見る事できない。 「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」
107年に後漢に朝貢したのはヤマト政権のオシヒト大王[孝安天皇]だと言われている。
倭国王「帥升(すいしょう)」だけど、朝貢した大王の「オシヒト」
という名前のアクセントの一番強いところをとって、
もともとは、「師飛(シヒ)」と省略して記録したのを、
史書『後漢書』に書き写した役人が見誤って「帥升(すいしょう)」と記録してしまったらしい。
(※シナ人は和人の名前を省略して短く書く習慣があった。) >>184
記紀を編集した人たちは、大王自ら後漢に朝貢したことを恥じだと思い、
そのことは、隠されることになったらしい。 >>181
国防意識しての統合で移動。
大和政権と武力衝突(磐井の乱以外)なく併合。
北史、旧唐書みると、武力による統合には思えない。 >>185
なんでも、天皇と結びつけるのに
疑問があるが?
記紀原理主義にならない範囲で
モデルとなったケースかな? 倭国滅亡の因は白村江での唐と戦って敗戦の憂き目を見た事
奈良は唐と内通し参戦していない
奈良に倭を倒す戦力は無かった
敗戦後唐のカクムソウが占領軍として大宰府へきた
火事場の泥棒が奈良政権
天武はカクムソウに取り入り天智の息子2名を殺し奈良を掌握した 壬申の乱
其れ迄の奈良の建築は掘立式 倭国では礎石 ここで技術の遅れが奈良にある 陳寿はなんで伊都国は伊「都」国で代々の王がいるが今は女王国に属しいてると書いたんだろう。
蛮族に「都」て使うのかな。そして他の国に王はいなかったのかな。
光武帝に入貢したのは誰だったんだろう。 >>191
磐井の乱で奈良側のひきめもあったかもね。 実際の名前は「しまいち国」
原文に「邪馬壹国」とあるのにどう読んでも「やまたい」にはならん。
これを「大和国だ」て言ったやつ、バカじゃないの? >>179
>例えば鉄器出土数は奈良時代まで
>福岡県が一番多かったからね。
その書き込みよく見かけるが、ソース出したのを一度も見たことがない
ほんとにソースあるの? >>195
広島大学の先生が研究されてるから
広島大学、鉄器、で論文が出るよ。
というより、鉄の話をするなら
必ず見ておいたほうがいい。 鉄器出土数は奈良時代まで福岡県が一番多かったなんていうデータはないよ
嘘ついてるんだよ
論文というワードを出せば本当っぽく聞こえるだけ
寺澤氏の説明では3世紀後葉には畿内が上回るとあった
鉄も畿内が独占に近い状態になる 政治的な連合というより流通的な連合だったんじゃね。
九州ー(四国)ー奈良ー東海ルートが組織化されていて、
九州のお家騒動に四国奈良が介入して卑弥呼が共立された。
奈良が九州を完全に傘下に収めたのは磐井の乱の後だと思う。 >>197
時系列で考えると
当然、大和政権の台頭と重なるからね。
それ以前は、纒向遺跡見ればわかる。
大陸との交易は乏しかった
大和政権の台頭は、
伊勢・東海・吉備と関係するかもね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています