『日本書紀』編纂1300年にあたる本年、国立極地研究所(所長:中村なかむら卓司たくじ)の片岡かたおか 龍峰りゅうほう 准教授と、国文学研究資料館(館長:ロバート キャンベル)の山本やまもと 和明かずあき 教授を中心とする研究グループは、日本最古の天文記録として知られる『日本書紀』推古二十八年(620年)のくだりに記された「赤気」について、近年の古典籍を用いたオーロラ研究で解明されてきた「扇形オーロラ」と整合的であることを明らかにしました。着目したのは「形似雉尾」という表現です。緯度の低い地域で見られる扇形のオーロラを目撃した当時の日本人は、雉がディスプレイ行動や母衣打ちで見せる扇形の尾羽でオーロラを例えたのだろう、という解釈を新たに提唱しました。倭の人々の感性をうかがい知ることに加え、多くの初期の写本に「似碓尾」と書いてあるのは「似雉尾」が誤写されたものであろう、とする明治の研究者・飯田武郷による先行研究を裏付ける、文理融合による研究成果でもあります。

■研究の背景


図1: 国宝岩崎本「日本書紀」
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令和2年で編纂から1300年になる『日本書紀』には、日本最古の天文記録として、推古天皇二十八年(620年)に以下のような記録が残されています。

十二月の庚寅の朔に、天に赤気有り。長さ一丈余なり。形雉尾に似れり。

この記述はオーロラのことか、あるいは彗星か、どちらの説も決め手に欠け、科学的には謎めいた記述として知られてきました。中国の歴史書には、同年620年にオーロラらしき記述や巨大黒点が出た、という記述は見つからず、日中記録によるダブルチェックのような常套手段が通じません。また彗星と解釈しようにも、『日本書紀』では箒星として区別して書かれていること、色味が「赤」からは程遠いことなど、幾つかぬぐえない不安が残ります。また、形状に関する当該箇所は「雉」でなく「碓」と書いてある写本も多く、明治になり、飯田武郷によって「雉」に落ち着いたと考えられていました。

■研究の内容

『日本書紀』では、赤気の形状が「雉の尾」のようであった、と書いてありますが、雉の尾羽の際立った特徴として、ディスプレイ行動(注1)や、母衣打ちで見られる、扇形の形状が知られています。近年、国文学研究資料館と国立極地研究所が中心となって進めて来た文理融合の研究成果では、日本のような中緯度で見られるオーロラは赤く、扇形の構造を示すものである、ということを明らかにしました。

以上の2点を組み合わせることで、『日本書紀』の赤気はオーロラであろう、という新たな根拠を得ることができました。また、飯田武郷の研究により、『日本書紀』の該所は文献学的に「碓」ではなく「雉」に落ち着いたと考えられていますが、それを科学的にも裏付けたことになります。

当時の日本の磁気緯度は現在よりも10度ほど高かったため、大規模な磁気嵐(注3)が起これば、日本でオーロラが見えても不思議はありません。夜の長い新年、新月で月明かりもない真っ暗な夜空という、オーロラ観測の好条件も整っていたのです。特に扇形オーロラは真夜中前に出現し、際立って明るいものであり、就寝前の出来事として目撃されやすく、空に現れた巨大な扇は、深く人々の印象に残るものだったと想像出来ます。それを見て驚いた当時の倭の人々が、天の使いと考えられていた雉の、ときおり魅せる美しい尾羽に例えたことは、十分に納得のいくものと言えるでしょう。ただし、現代の鳥類研究者でも、雉が尾羽を扇形に開く様子を目撃することは多くありません。日本人のルーツとなった倭の人々の、鳥との距離感や観察眼の鋭さを前提とする必要がありそうです。


図2:
左:1770年9月に京都から見えたオーロラを描いた絵図。松阪市所蔵の古典籍『星解』より。三重県松阪市提供。
右:1872年3月1日9時25分という説明が書かれているトルーヴェロの絵画
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