【邪馬台国九州説】は「99・9%」福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎
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■『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』、日本神話、考古学資料などを、総合的に統計学的手法で分析すれば、99.9%の確率で、邪馬台国は福岡県にあったことが言える。
■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」
白鳥庫吉(1865〜1942年)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を代表する東洋史学者であった。白鳥は1910年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。
白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で大きく発展させたのは、東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889〜1960年)であった。和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかに見える。「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」になったとする説である。
和辻哲郎氏(1889−1960年)
和辻哲郎や、その説を受け継ぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。
(1) 卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神である。
(2) 九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
和辻哲郎は述べる。『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3) 九州から大和へ移動した時期は、3世紀の後半から、西暦300年前後にかけてのころであろう。
■年代論的根拠
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」にはその後、年代的根拠がさらに詳しく与えられるようになってきている。
(中略)
■天照大御神のいた場所
「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。
『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。
いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。
その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。
http://tawayama.net/wp-content/uploads/7f0beb52698951740bca688fe0647a4c.jpg
■「平塚川添遺跡」の出現
『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。
九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。
筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。
https://ironna.jp/article/4548?p=1
続く) 実証可能な考古学資料が少ないから謎なんですよね?
それに対してビックデータ?
味噌も糞もいっしょくたにしてませんか?
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>>646
単純にさ、
対馬→壱岐→九州は南との記載があり、
このラインを南北とみなし30度ほどずらせば、
あら不思議⁉??
という事だと思うなぁ
まぁずらしても南に畿内は無いが >>647
そこからって?どこから?
魏志倭人伝を原文で読んだら、
そうは、思えない >>653
魏使は方角を正しく認識できなかったという主張か?
そのくせ、倭人伝の方角は正しいと言い張る
矛盾の概念がないのだろうか? 景行天皇から神功皇后あたりの九州への入れ込み方とか、のちの大宰府など、九州を重要視しているところ
とか、中国地方、東国など他の地方に比べても、九州への比重が大きい。邪馬台国のころに
九州にあったかどうかはわからないが、九州に源流があるように思えるが・・ >>650
ビッグデータではなく、スモールデータだな >>656
倭人伝記載の"南"の意味を検証しただけですよ
それで説明ができるならば
南を誤認していた可能性も十分にあるでしょうね
木枯し紋次郎の出身の三日月村はうちの村だ、って争ってるようなもんだろw
>>653
ある動画では南に舳先を向けて航行したらまっすぐ進んでるつもりが
対馬海流の影響でやや東に流されるからそうなったと説明されてたな。 >>662
海で目標が視認できなければそうだろうが… 古代人の航海能力を舐めてはいけない 山立てや天測の知識は当然のごとく持っていた
>>664
本当にそれ
2日でいけるところを2ヶ月かけたりしない
日数は正しいとするべき >>1
でもさ、イエスの墓も日本にあるわけだし。
たぶん、卑弥呼はイエスの弟子だったんだと思う。 >>649
>宮崎平野までは二カ月くらいはかかる
宮崎平野なら水行だけで着く
陸行1月はどこへ行った?w >>654
>そこからって?どこから?
>>643の「海から来てたどり着く場所は九州以外にはありえんからな、」を受けてのそこから、なんだから
「海から来てたどり着いた九州」から、に決まってるだろうに
その九州北部から、水行陸行2ヶ月で、出雲、丹波を経て大和に行くんだよ 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
これは帯方郡から邪馬台国までの総日程を書いてるんだよ
文脈をたどればすぐにわかる
邪馬台国の出先機関が伊都国だから福岡・佐賀あたりだろう。
沖縄・奄美・佐賀・福岡・朝鮮南部・愛知・静岡までの海洋族=久米氏らの東テイ国と重なるわ。
南、投馬国に至る。水行二十日
鹿児島から奄美ダイレクトで20日
投馬国=奄美
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
奄美から沖縄ダイレクトで10日
シケや嵐で島伝いでいけば1ヶ月はかかる
邪馬台国=沖縄 常識的に考えると、「99・9%」福岡県に無いと思う。 >>669
>これは帯方郡から邪馬台国までの総日程を書いてるんだよ
>文脈をたどればすぐにわかる
文脈からして、これはありえない
同じ構文の投馬国までは、何の総日程が書いてあるんだ?
逐次・連続式で記載されてきた旅程が、いきなり起点を振り出しに戻すなどありえない
もしそう書きたいなら、その旨明記されていなければ、そんな読み方をする人はいないw 九州説ってさ
今日、山梨に行った。豆腐を食べた
という文を
とうきょうにいった。なしをたべた、やまふ
って読むってことだよね ・大都会奄美
・超都会琉球
とか言い出したら倭全体なら、さぞや恐ろしい大帝国に成るであろうw >>672 南至邪馬壹國
南至と書いてあるな 南を東、そんな読み方をする人はあんたらだけだよw
>>675
>南至と書いてあるな
つまり、倭人伝冒頭の「倭人在帶方『東南』大海之中」と矛盾するから、
水行10日陸行1月は起点が帯方郡からの総日程っていうのは大間違いだなw
>南を東、そんな読み方をする人はあんたらだけだよw
陳寿が、倭国を南北に長い洲島と思ってたんだからしょうがないじゃんw
>>638に具体的に反論してごらん
「方角は間違うはずないじゃん」以外一言も言えてないじゃないかww 涙涙の畿内の証拠なき反論w
想像が現実ですキリッ!
などと言い出す始末w 韓国は国内対立が激化して
ほとんど無政府状態になっている
経済もキリモミ下落中
日本は粛々と制裁を実行しつつ
韓国の断末魔を静観すればいい
国交断絶など韓国から言わせること
ただし韓国内の政情混乱に乗じて
韓国軍が対馬等に侵攻する危険性がある
九州説真理教の徒はメンタルは朝鮮人と変わらない国粋的ファンタジストにしか看えないw >逐次・連続式で記載されてきた旅程が、いきなり起点を振り出しに戻すなどありえない。
対馬経由の奴国との交流は57年からの歴史があるが、邪馬台国への訪問は239年以降。
この間の情報の蓄積を考えれば、ありえないは言い過ぎのような気もする。
傍国と女王国以北の国との情報の差も、そこら辺の事情を感じさせはしないだろうか。 >>1
魏志倭人伝は、日本の古事記をもとにした創作という説もあって
魏志倭人伝を絶対視して無理に結論出すのはバカすぎるだろ タイムトラベラーが何世紀も時間遡行して「東夷伝倭人条」を作成したとw
記紀ファンタジーなんてクルアーン程度の歴史しかない新しいラノベ風情なのにw >>682
倭人伝は3世紀末、古事記は8世紀。
これは無理がありすぎるんじゃ 九州説は遺跡もないし、物証もないし、魏志倭人伝にも矛盾だらけ、不一致だらけ
それでは議論に負けてしまうので、魏志倭人伝の記述に忠実だということにしたい
そのためには、筋の通らないこじつけをしたり、黒を白と言い張ったり、空想話を作ったり、捏造したり
屁理屈だろうと詭弁だろうと、魏志倭人伝の通りだと言い張る
・唐津に実際にある遺跡を無視して、遺跡も平野も少ない呼子を末盧国にして、方角が正しいことにする
・国の端っこや無主の地を起点や終点にして、方角は正しいと強弁する
・水行陸行で合計2ヶ月が都合が悪いので、けもの道にしたり、放射読みにしたり、
帯方郡起点にしたり、寄り道したり、わざと遠回りして九州を横断したりする
・短里とかいう架空の距離単位を捏造する
・北部九州に15万戸+旁国21ヶ国(≒100万人相当)が収まることにする
・共同墓地の祇園山を殉葬ということにする
・旧唐書の一部だけを切り取って、倭国と日本が別々にあったことにする
・卑弥呼の宮殿は環濠集落でピッタリということにする
・南国の気候とはかけ離れてる九州を南国ということにする
・丹をベンガラということにする
・伊都国や奴国での出土品を九州説の根拠にする
・倭国一般、倭人一般についての記述を邪馬台国のことにする
・同じ土器が畿内と九州で出土しても、100年の差があったと言い張る
・3世紀の九州は中国鏡を入手できなくなってるが、古い鏡が出土することを口実に大陸製品が多いと言い張る >>687
いつも想像論で九州説を罵倒したがる畿内教信者の典型w 抑々が自由に古墳を発かせない宮内庁が悪いw
大した根拠もなく天皇陵だの皇族陵だのと否定して囲い込んでるのが悪いw
天皇制を打倒して思うが儘に調査させれば畿内説の正しさが幾らでも立証出来る筈w
取り敢えずヒロヒトの墓を発いて頭を切断しようw >>689
これ、畿内説側でも説明できないことが多い気がするなぁ
ちなみに、最後の鏡についてだが、その時代に存在していたか否かは、鏡の形式より、出土した遺跡でしか証明できない。つまりどの時代の遺跡から出土してるのか?が重要。
結論は卑弥呼時代と思われる庄内期の遺跡からの鏡の出土量は北部九州=本州全体ぐらいだよ
後、平原以降、鏡の扱われ方に中国鏡と国産鏡とでは優劣は見当たらないが、鏡の型式での優劣は存在する >>681
残存していないが、呉書にも邪馬台国の記述があったようなんだよ。
国名はともかく女王が余程インパクトあったのか、魏略ではやたら女王国と表記されているが、それは邪馬台国の事で間違いないだろう。 畿内の弥生遺跡からは一枚の銅鏡も出てない これ豆な
ちなみに北部九州の弥生遺跡からは一ヵ所で数十枚の銅鏡とか平気で出てるな
禁足地って宮内庁指定の天皇陵のことかい それって古墳時代ですよね
畿内の古墳時代遺跡からは銅鏡が大量に出ますよ
これが示す意味は弥生末期から古墳時代初期に銅鏡を墓に埋葬する連中が北部九州から畿内に移動したって事だね
つまり東遷が有ったっていう 動かぬ証拠だな 東遷は否定しないが時期が違うw
倭国大乱の過程が東遷に繋がるw
瀬戸内沿岸と近畿が主戦場で北九州は粗々無関係w
其れが高地性集落の分布の変遷に看られるw
投馬国(出雲=吉備)から邪馬台国(近畿)への首都移転w
其の結果として卑弥呼擁立w 近畿において弥生期に皆無だった銅鏡が、古墳時代になって突然・大量に埋葬されるようになったから
東遷は弥生末期から古墳時代初期の狭間で起こったと言ってるのが判らんかいw
ああ、もう一つ
畿内の弥生遺跡で大量に出る銅鐸 これが古墳時代遺跡からパッタリでない
これも動かぬ証拠
因みに、記紀には一言も銅鐸の話が出てこない つまr、天皇族は銅鐸なんぞ知らない って事 >>699
まだある。
祭祀統一で統治していたなどという話も、記紀にはさっぱり出てこないよな。 バカめ 八尺瓊の曲玉、八咫鏡・草薙剣 この三種の神器の話こそ記紀のメインテーマだ
この系譜は戦国時代中国から韓半島錦江エリア、最古の弥生遺跡:博多・吉武高木遺跡を経て
現皇室に引き継がれている最重要の祭祀だよ
邪馬台は古代中国語ではヤマトゥと発音したといわれているのでは。 台与はトヨ つまり台はトと読む となると邪馬台国の読みはヤマト国だよ
ああ、もちろん九州のヤマトだけどね >>691
>鏡の形式より、出土した遺跡でしか証明できない
それいつも言ってるけど、詭弁だよ
1世紀や2世紀に編年される古い鏡が庄内期の遺跡から出土したところで、何の意味がある?
全く無意味
九州勢は1世紀や2世紀に中国と交流があったというだけのこと
3世紀に編年される鏡が九州でほとんど出土しないのは、
九州勢は中国鏡の取引において、中国や帯方郡に相手にされなかったことを意味する
ちなみに大和では庄内期のホケノで画文帯が出土している
博多には畿内系住人も移住していたので接点もある
繰り返しになるが、中国鏡の取引から判明してることは
・3世紀の九州勢は中国や帯方郡に相手にされなかった
・畿内勢の中国や帯方郡との交流は、遅くとも3世紀前半には始まっている
「九州勢が中国や帯方郡に相手にされなかった」という悲惨な状況と
「九州勢が中国や帯方郡と外交をやっていた」という言い分は完全に矛盾する 年号が書かれた鏡は中国本土でも
九州でもほとんど出ないからな。 >>681
>この間の情報の蓄積を考えれば、ありえないは言い過ぎのような気もする。
情報量の問題じゃなくて、普通に読んだらそんな読み方にはならないって話
史書は判じ物でも暗号書でもないんだから、読み込んで解釈しないと読めないような
書き方は最初からしていない
実際、水行10日の起点が帯方郡という読み方を是とする人はごく少数だろ?
多数決で決めるものでもないけれど、自然な読み方ではないのは明らか
自然な読み方でそうは読めないってことは、そんな読み方をする方が悪いってことだ
陳寿はそんなつもりで書いてない >>678
>涙涙の畿内の証拠なき反論w
>>678の書き込みには一切根拠がないねww >>692
>残存していないが、呉書にも邪馬台国の記述があったようなんだよ。
その呉書ってのは何を意味しているつもりだ?
三国志呉書なら全巻揃ってるぞ?
残存していないってのはどれのこと? >>703
>ああ、もちろん九州のヤマトだけどね
九州のどこのヤマトだ?
九州に弥生遺跡がしっかりあるヤマトはどこにもないんだが?ww >>705
詭弁はそちら
鏡は移動できる物
どこでいつ入手し、どう動いたかわからないのだよ
配布した説もあるのだしね
ただ遺跡は動かないのでそれに副葬されれば、その地域のその時期に存在するの証明ができる訳
後、中国で出土鏡は地域によって型式に偏りがある
これはどこの地域と交流があったか?にも関係あるがその考証が抜けている
中国鏡を一まとめにした鏡の型式だけの編年では正直何もわからん
おまけに魏では漢鏡の復古鏡真っ盛り 俺は、安本美典の 邪馬台国東遷説
今後、古墳の調査期待している >>712
>どこでいつ入手し、どう動いたかわからないのだよ
それなら、なぜ九州ではほとんど出土しない?
詭弁だとイチャモンつけるなら、配布元の九州がすっからかんになる合理的な理由を説明してくれ
>ただ遺跡は動かないのでそれに副葬されれば、その地域のその時期に存在するの証明ができる訳
1世紀や2世紀に編年される古い鏡が庄内期の遺跡から出土したところで、何の意味があるか説明してくれ
編年無視は「九州勢が3世紀には中国や帯方郡に相手にされなかった悲惨な状況」を認めたくないための誤魔化しだろ
九州説の否定につながる致命的な証拠は認めないとイチャモンつけてるだけだろ
>後、中国で出土鏡は地域によって型式に偏りがある
>これはどこの地域と交流があったか?にも関係あるがその考証が抜けている
共通してるのは、楽浪郡帯方郡経由だということ
日本に入ってきてる神獣鏡は魏鏡系統
3世紀後半以降は楽浪土器の出土が減るから入手時期は3世紀中頃まで
復古鏡なら青龍三年の方格規矩鏡があるな
これがオリジナルかどうか議論があるが >>714
その楽浪土器の出土の中心地が北部九州でしょ?
つまり、神獣鏡は九州には少ない
中国でも出土の中心地は呉の地域だよ
つまり、神獣鏡は楽浪経由ではない可能性の方が高いのでは?
肝心の楽浪でも神獣鏡は少ないと聞いたが? >>715
すまない、眠たくて文章が変になってしまった
もう寝る… >>715
もちろん、楽浪土器の出土は北部九州で、3世紀には博多湾地域が中心になる
当時は沿岸航行しかできなかったので、東シナ海横断はない
南西諸島は沖縄までは行けたが、台湾には渡れなかった
画文帯神獣鏡も斜縁神獣鏡も楽浪郡で出ている
中国国内での出土も洛陽を含む魏の領域
入手ルートは魏→楽浪郡・帯方郡→博多→博多居住の畿内系住人→畿内
以外にありえない
それから、この質問にもきちんと答えてくれ
>それなら、なぜ九州ではほとんど出土しない?
>詭弁だとイチャモンつけるなら、配布元の九州がすっからかんになる合理的な理由を説明してくれ
>1世紀や2世紀に編年される古い鏡が庄内期の遺跡から出土したところで、何の意味があるか説明してくれ >>674 琉球紬や大島紬の歴史やヤコウ貝、高床式倉庫の神殿でヤマトゥ大帝国となってんだろ。
倭国は1年中野菜が取れ、入れ墨、長命で、酒をよく飲む。
>「古事記」(約712年)によれば、「神武天皇紀」に、「伊波礼彦尊」(後の神武天皇)からの求婚の使者(大久米命記)に「入れ墨」があったため、「伊須気余理比売が驚いた」との記述があります。
伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ)の近畿のあたりは、入墨の風習がなかったのかと。
・女王卑弥呼の孫である伊波礼彦尊イワレヒコ=神武天皇
・求婚の使者(大久米命記)
・久米の 姓 ハヤト系もしくは沖縄 久米家の由来でわかる
・久米氏は神武天皇の護衛、戦闘部隊 氷上姉子神社=熱田神宮の尾張氏につながる
・久米氏と大伴氏がニニギイの東遷説
・天孫降臨の段に登場する「笠沙之御前」笠沙岬は鹿児島の港笠沙
・ニニギイがここでコノハナサクヤヒメと出会い、神武天応の祖父にあたるホヲリを生む
中国の昔の地図からの感覚は南東が近畿や関東の歯黒国 。
投馬国 は奄美
邪馬台国 は琉球
倭国はと奄美・沖縄から南朝鮮、房総まで東鯷国=扶桑国
ユタはじめシャーマン=卑弥呼
伊都国 には邪馬台国の住民もいた出先機関あり 。
東鯷国の久米氏ら徐福部隊の上陸地も伊都国。徐福伝説の佐賀・福岡。
福岡には住吉大社。大阪に住吉神社。愛知に熱田神宮。
斉国の徐福は3,000名引き連れ、沖縄・奄美の久米氏とともに征東し、王になった=天皇。
斉国自体が秦と同じ姜のペルシャ系西アジアの部族。
投馬国、邪馬台国が口語当て字の可能性 大
中国の文章で一番やっかいなのが漢字
始皇帝や斉国と漢字でかかれていると中国人かと思うが、実際ペルシャ系。
中央アジアや日本に対して意味なく口語から当て字をしていることも多い。
始皇帝の父は呂不韋(ロフィー) とも。
琉球・奄美の方言を調べた
ヤマタイ、ヤマト、ヤマチュ、ヤマンチュ アマト、アマンチュ、トゥマ・
・アマンチュ(天人)=130 歳である福人の大主の前にアマンチュー(天人)が現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/wordpress3/wp-content/uploads/2013/05/h2801.pdf
アマミキヨ=アマテラスがペルシャ系徐福伝説につながる。
・沖縄・奄美の方言では ヤ=家 トゥ=港 マ=馬 タイ=松明
・トウマ、港のある国。
・ヤマトマ、港の家国で東鯷国の拠点。
・アマトゥコク 海女の港の国。
・アマンチュ(天人)国 中国からみた秦、斉徐福らの巨人のいる国。
・ヤマタイコク 家が馬のタイマツ の国
女王卑弥呼の孫であるイワレヒコ神武天皇。
神武天皇の祖先は沖縄。沖縄の久米氏らニニギを護衛しながら東へ遠征。
途中鹿児島の港笠沙でコノハナサクヤヒメと合う。
といった流れで東遷説 の大帝国に。 >>711
>山門郡の瀬高町は鍛冶遺跡が多いですね
人の集住を想定させるような遺跡がないよね
それにその鍛冶遺跡弥生終末期じゃないじゃん いまだに東遷説を信じてるやつがいるのか
銅鐸が埋納されたのが弥生時代から古墳時代に移行するときなんて言ってるんだから
古代史同好会のサイトでも見てるんだろうな
銅鐸文明の民族を銅鏡文明の民族が征服したとでも思ってるのかもな
フィクションやラノベの世界の話を歴史研究に持ち込むなよ 文系にも理系にも属せない畿内信者の妄想説ワロタwww >>721
>文系にも理系にも属せない畿内信者の妄想説ワロタwww
妄想は九州説だよ
考古遺物などの物証がないんだものww
ミラーリング乙
ミラーリングは詭弁使い初級だものねww >>722
畿内で邪馬台国に関する考古遺物だてなんだよ?w
いまさら纒向やら箸墓やら言うなよ?www 魏志倭人伝に倭国の産品とした 蠶桑 とあるんだよな
養蚕、絹だな 弥生時代に銅鏡もそうだが絹布が出てるのは北部九州だけで
畿内からは一切出ていない でるのは古墳時代以降
これも銅鏡と並んで東遷の証拠
畿内の弥生遺跡からは倭人伝で倭国の産品と記されている銅鏡も絹布も一切出てないんだよw 真実の歴史
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した そもそも、邪馬台国の官は4人いて
@いくめ
Aみま城
Bみまくゎし
Cぬなくゎ
…なので、記紀上の誰かは簡単に想像がつくお! >>723
>いまさら纒向やら箸墓やら言うなよ?www
なぜ?
否定する理由がないしだれも否定してないのに? >>55
古代の日本語に二重母音=母音連続は無かった。
兵庫県豊岡市の「出石」 出づ+石=イドゥ+イシ=いどぅし>いずし
さざれ石>さざれし
万葉集 巻14・3400番作者不明の短歌
原文: 信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟
読み:信濃なる、千曲(てぃぐま)の川の、さざれ石(し)も、君し踏みてば、玉と拾はむ
「左射礼思=さざれし」と読んで母音連続を避ける。
【知】は現代中国の福建方言や台湾ホーロー語、シンガポールなど
東南アジアの華人(いわゆる華僑)の方言でティ=tiと発音する。
独仏英語のテー、ティーなどと発音するのは茶葉貿易で福建人が多数を占めたことを表わしている。
//www.sakurano.co.jp/entertainment/kadan/LoveLeaf015.html
>方言めいた部分があります。「さざれいし」(細石)を
>「さざれし」と発音していること。 sazareishi と
>母音が二つ連続しているところを、 sazareshi と母音一個ですませています。
>昔から日本人は母音の連続が苦手で、意識して口を動かさないと上手に発音できません。
>その意識が東日本では西より薄かったようです。今もその傾向があって、
>連続母音の正確な発音に難が生じやすい。「こわい」(kowai)が「こえー」、
>「おまえ」(omae)が「おめー」、「ひどい」(hidoi)が「ひでー」という風な、
>独特の関東訛りがあります。「さざれし」も、日常の発音は「さざれーし」だったような気がします。
>連続母音をすっ飛ばして長音化するこの傾向が千数百年前にすでにあったというのがおもしろい。
「長音化する」というのは我輩の意見とは相容れない。「音引き」=長音化すると
モーラが増えて「さざれーしも」6モーラとなりリズムが崩れる。
国歌「君が代」も「さざれいしの」と歌ってるが「さざれいしの」だと6モーラ≒6音節になって
五七五七七の格式に合わない。 >>718 あんた凄いね。
歴者学者が、触れない海で10日、陸地で1か月を解決した。
確かに中国に海はないから、島の感覚がないのかもしれないね。
斉国やら古代中国大陸が西アジアのモンゴル系かもな。
先祖達が西アジアの血が流れ、チベットと日本人のDNAが、漢民族により地方へ追いやられた。
邪馬台国は沖縄で決定だな。
久米氏の海洋民族で理解できた。
高床倉庫がすべてを物語る。 >>718、>>731
久米島の語源は
「琉球王朝時代、久米島は「球美(クミ)の島」と呼ばれていました。
球美とは、琉球列島の中でもっとも美しい島という意味で、久米島という名前の語源だそうです。」
ということで、久米氏とは本来無関係
関係はだじゃれレベルだな 遺伝子解析によると琉球人はアイヌと同じ縄文系なんだよな
稲作と共に来た弥生渡来系とは違う系列だから邪馬台国が沖縄というのは無いな
文化や技術は、半島を経由して、日本だと、対馬、北九州にまず伝わり、
それがだんだんと山陽山陰地方や九州の南部、そうして今の近畿地方や四国に、
という経路をとるだろう。同じ技術が定着するまでには地域の位置によって
百年程度のずれが生じても当然だと思う。人間(技術者、知識を持った者)が
移動したり、交流したりして伝わって行くので、品物だけが運ばれて行くのに
比べて文化や技術の移転、移動は遅いだろう。 だから土器の装飾の様式をみて、これは西暦何年ぐらいのものだろうという
判断をしていたりするけれども、それは同じ場所地域でなら相対的にどの
土器が古いか新しいかは分かっても、遠く離れた地域の間で同じ紋様や様式の
土器が出たからそれはどちらも西暦XXX年ぐらいのものだということは
言えないはず。その土器が交易でさっさと運ばれてきたものならあるいは
それで正しいかもしれないが、それぞれの土地の工房で焼かれて作られた
ものなら、文化や技術が伝搬する時間差(何十年とか百年ぐらいかもしれない)
だけずれているかもしれないのだが。 文化が半島経由というが 半島に根付いていない文化という事実が 此の説が虚妄と証明している >>727
私がかいたものですが 反論をお待ちしています >>737
>>725の
>倭国(チクシ)と称する
>金印(カンノイトコクオウ)
だけでがっつりトンデモだよ
倭をチクシと読んだ例は古今東西一つもない
ただの妄想か捏造
委奴国の「委」は「倭」と同様ワ行の音で「wi 」あるいは「wei」の音
それに対して伊都国の「伊」はヤ行の音で「yi」であり発音が違う
「奴」は「奴国」の「な」であり、「ど」と読むのはずっと下った隋唐時代の
長安 (現西安) などの西北方言
後漢書表記が「ど」と読まれることはない
この二つのトンデモが>>725の論拠の基礎なんだから、全体も論評の価値のないトンデモだよ
もうこのコピペ貼るなよ >>702
現代の香港や東南アジアで話されてる広東語という方言で
イェマートーィという発音だ。 >>718
>始皇帝の父は呂不韋(ロフィー)
残念ながら支那語の発音はロプゥェイ
FIなんていう発音が支那語に出現したのは
玄宗皇帝、楊貴妃、安史の乱よりも後の時代。
土器の編年もいいけど、シナ語の発音の編年も勉強しないとなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アイヌは普通に縄文系(先住民)と言えるw
これを否定出来る根拠は存在しないw 邪馬台国の遷移なら40年近く前に星野之宣がヤマタイカで描いてたわ。 邪馬台国が はぐらかされている唯一の理由。
「天皇の金塊」が 実は邪馬台国のものだから。
近畿だ九州だと強弁している人は
全員共犯者。
残念ながら この国の9割の人間が共犯者。
これが弥生からの 日本の歴史、ごくろうさん >>36
卑弥呼が鏡100枚もらって
それを全部自分のものにして所有してたってか。
さすがに多過ぎるんじゃねえの。
その他の贈り物は、中国の皇帝が偉大であることを民に知らせよ
といっているので、配りはしただろう。鏡もある程度はくばったとみるべき >>718
ググって確認してみた。
『古事記』の神武天皇段に、神武天皇から三輪の大物主神の娘・伊須気余理比売への求婚の使者としてやって来た大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に入墨を施した鋭い目)を見て、伊須気余理比売が奇妙に感じた、と記されています。 割られて埋葬された破鏡だが、
これってわざわざ割られたのではなく
中国から輸入された銅素材用だった。
各地で見つかる貨泉なども、
岩ユル銅スクラップ素材に
混じっていたものである。 >>738
君の単なる妄念では説得力は皆無
倭 チクシ とは金印表示の倭 このとき チクシと呼ばれていた事実 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています