【邪馬台国九州説】は「99・9%」福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎
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■『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』、日本神話、考古学資料などを、総合的に統計学的手法で分析すれば、99.9%の確率で、邪馬台国は福岡県にあったことが言える。
■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」
白鳥庫吉(1865〜1942年)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を代表する東洋史学者であった。白鳥は1910年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。
白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で大きく発展させたのは、東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889〜1960年)であった。和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかに見える。「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」になったとする説である。
和辻哲郎氏(1889−1960年)
和辻哲郎や、その説を受け継ぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。
(1) 卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神である。
(2) 九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
和辻哲郎は述べる。『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3) 九州から大和へ移動した時期は、3世紀の後半から、西暦300年前後にかけてのころであろう。
■年代論的根拠
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」にはその後、年代的根拠がさらに詳しく与えられるようになってきている。
(中略)
■天照大御神のいた場所
「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。
『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。
いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。
その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。
http://tawayama.net/wp-content/uploads/7f0beb52698951740bca688fe0647a4c.jpg
■「平塚川添遺跡」の出現
『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。
九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。
筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。
https://ironna.jp/article/4548?p=1
続く)
朝鮮半島を領土に治め、
北海道まで遠征して領土にしていた時代に、
なんで 邪馬台国の卑弥呼 みたいな
ヘンな勢力の原始人が日本にいたのだ!!!!
まったく 日本には、あてはまってないね!!!!
魏 とかいう中国の小国からの嫌がらせ
でなかったら、 台湾・沖縄・フィリピン が正しい。
それってマジでフィリピン でないの、
シャーマニズムのシャーマン卑弥呼だとか、とても土人ぽいけど
記述自体、南方へ相当な距離行っているからな
けっして西方のヤマトへ、でもない
朝鮮半島を領土に治め、
北海道まで遠征して領土にして、
広さで世界最大といわれる超巨大な古墳群を建造していた時代に
なんで シャーマニズム土人の邪馬台国のシャーマン卑弥呼 みたいな
ヘンな勢力の原始人が 日本にいたのだ!!!!
まったく 日本には、あてはまってないね!!!!
魏 とかいう中国の小国からの嫌がらせ
でなかったら、 台湾・沖縄・フィリピン が正しい。
それってマジでフィリピン でないの、
シャーマニズムのシャーマン卑弥呼だとか、とても土人ぽいけど
記述自体、南方へ相当な距離行っているからな
けっして東方の大和へ、でもない
海人族が入り込み各地の交易を担ったと考えると見えてくるものがある
巻向遺跡を初めとして出雲や守山伊勢遺跡、唐古鍵遺跡に見られる「神々の集いの跡」というのは連合祭祀とは別の側面として、海人族がもたらす交易の成果を分配するための集まりであったのではないかということ
その利益はもちろん各地に分配されるから、この土地で出土する物品に大したものがないのも納得できる
この権益が莫大な利益を生み、海人族がその土地で大きな権力を得たと考えると征服よりも合点がゆく
朝鮮半島を領土に治め、
北海道まで遠征して領土にして、
広さで世界最大といわれる超巨大な古墳群を建造していた時代に
なんで、 シャーマニズム土人の邪馬台国のシャーマン卑弥呼 みたいな
ヘンな勢力の原始人が 日本にいたのだ!!!!
まったく、 日本には あてはまってないね!!!!
魏 とかいう中国の小国からの嫌がらせ、
でなかったら、 台湾・沖縄・フィリピン が正しい。
それって、マジでフィリピン でないの
シャーマニズムのシャーマン卑弥呼だとか、とても土人ぽいけど。
記述自体、南方へ相当な距離を行っているからな
けっして東方の大和へ、でもない。
>>20
言語学者なら「好古都国」は「岡田国」などというはずがない。
言語学的には只の耄碌ジジイ >>506朝鮮人韓国人テロリスト!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
扇動罪・内乱罪、 公安に通報した
朝鮮半島を領土に治め、
北海道まで遠征して領土にし、
広さで世界最大といわれる超巨大な古墳群を建造していた時代に、
なんで シャーマニズム土人の邪馬台国のシャーマン卑弥呼 みたいな
ヘンな勢力の原始人が 日本にいたのだ!!!!
まったく、 日本には あてはまってないね!!!!
魏 とかいう中国の小国からの嫌がらせ、
でなかったら、 台湾・沖縄・フィリピン が正しい。
それって、マジでフィリピン でないの
シャーマニズムのシャーマン卑弥呼だとか、とても土人ぽいけど。
記述自体、南方へ相当な距離を行っているからな
けっして東方の大和へ、でもない。
>>513
そのアホな後付け。何のフォローにもなってない。
お前の言う様に狗奴国と戦争中で無いなら、時系列にすると
北九州→河内→狗奴国になる。
無茶苦茶だろwww
書いてて恥ずかしくないのか?
IDコロコロ君w >>506
公安に通報wwww
くっそ笑ったwww >>522朝鮮人韓国人テロリスト!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
扇動罪・内乱罪、 公安に通報した
うざい、原始信仰カルトのシャーマン土人!
関係が無いんだけど、朝鮮人系韓国人系の学者は、永久国外追放しろ!
>>490 吉野ケ里に楼観があったという証拠が出土してないのに
吉野ケ里テーマパークに楼観を捏造する北九州クヲリティーwwwww >>480
ヒミカw
なんていう時代考証メチャクチャの読み方をする古田教信者は書き込み禁止w >>110
言語学会の誰が指摘してるんだ
具体的に名前を挙げてもらおうか >>173
九州は製鉄に必要な炭=森林が枯渇したので
森林を求めて東征したんだな
今でも銅鐸文化圏とか銅剣文化圏という分類が言われてるのか知らないけど
九州、出雲は好戦的
銅鐸文化圏の中心大和は平和を愛する宗教的雰囲気が強い。
「大和はクニのまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる ヤマトしうるはし
これは製鉄に必要な樹木が生い茂る今の奈良県を征服した喜びを表わした和歌
つまりシラー作詞ベートベン作曲の所謂第九「歓喜の歌」と似たようなモノだ。
奈良社(こそ)卑弥呼の居た土地だ。 >>1
東スポかよ。
学会で九州説が淘汰されたのは知っていたが、
もはや在野にもまともな研究者はいなくなったか。 ヒミコ 何等確たる読みの証拠はない
ヒミカ 筑後風土記にミカヨリ姫があり 恐らくヒミカのことと思われる Xヒミカ
春秋戦国時代の上古音で統一するなら
○ペミカ
魏晋音なら「ピミコ」または「ピミク」
「日」は万葉語で「PI」と発音
80年、90年の軍隊用語で「1日」はイッピと発音。
こういうふうに「イチ」と「日ニチ」が一つの単語として発音されると
原型の支那語により近い形で発音される。
播磨風土記で「日岡」の命名譚で景行天皇が狩りをしてた時鹿が「比比=ピーピー」と啼いていたとある。
鹿の啼き声は現代でも「ピー」だ。
「比」をhiと発音するようになったのは大体17世紀後半〜18世紀の江戸時代。
10世紀〜17世紀安土桃山時代の「ひ」はイェズス会発行の日葡辞書によるとfi、現代仮名遣いでフィ。
天草本「平家物語」はFeiqe no monogatariと綴られている。
8世紀以前の「ひ」はpi。
毘沙門bisyamonの「毘」を清音化するとhiとなることは現代のグローバル・スタンダードの音声学では説明不可能。
すなわち日本限定独特のガラパゴス音声学的屁理屈wwwwwwwww この数年間、日本の古代史学界は「邪馬台国」問題から“目をそむけて”きつづけたように見える。けれども、学問そのものは一歩も停滞しなかった。
それどころか、研究史上、一つの画期をなす論文が出現した。谷本茂氏の「中国最古の天文算術書『周髀算経しゅうひさんけい』之事」(「数理科学」一九七八年三月)がこれである。
『周髀算経』は、周代に生れ、後漢末(二〇六〜二二〇)に成立した本だ。冒頭は周公と商高(殷人)との対話にはじまる。このようなスタイルは、通例(後代の啓蒙主義史観からは
)“周公に仮託した後代の偽作”と見なされることが多い。ところが、
そこに語られた星の運行は、まさに紀元前一一二二(前後一〇〇)年頃のものであることが判明したのである
(能田忠亮『周髀算経の研究』)。文字通り殷末・周初の、周公の頃だ。さらに、後に増拡された記事の部分には、春秋末から戦国初にかけて出現した、星の運行が記されている。すなわち、
この記事の、この時期に成立したことが認められるのである(同右)。
以上によって、この『周髀算経』が周初から周の中・後期にかけて“生育”していった、という性格の内容をもつことが明らかとなった。そして同時に、注記を加えて編成された時期もまた、
これを確定できるのである。なぜなら、編者たる趙君卿(漢)によって付せられた注は、
もっとも新しいものとして「二〇六」成立の引用書をふくんでいる。従ってこれ以後の成立だ。また編者は「漢」の人物であるから、「二二〇(漢の滅亡)」と以前に属する。すなわち上限「二〇六」、
下限「二二〇」の間、十四年間のうちに、この書は編成されたのである。この後漢末十四年間は、まさに『三国志』の第一巻の時期、つまり曹操の活躍していた、そのさ中である。
さて、若き自然科学研究者、谷本氏の発見は、この『周髀算経』の中で用いられている里単位が計算によって確認できる、という一点にあった。それは「一里=約七六〜七メートル」だった。
これはわたしがかつて『「邪馬台国」はなかった』でしめした魏晋(西晋)朝短里(一里=約七五メートル。精しくは「七五〜九〇メートル」の間で、七五メートルに近い、とした)と驚くべき一致をしめしたのである。
氏はこの両者の一致を「単なる偶然の一致」としてすませることは出来ない」と結ばれた。
思えば、わたしにとって氏との邂逅(かいこう)は、楽しき思い出にみたされている。当時京大の工学部の学生であった氏は、わたしに一葉の書便をもたらされた。
その中で、わたしの本に着目したのは、一に「学問としての方法」にあることを、懇切にのべておられたのである。
爾来、氏はわたしの家にしばしば訪れられ、わたしもこの若き探究者に最近の発見を告げることを楽しみとするようになった。そのある目(一九七五年)、
氏は“『周髀算経』が「短里」で書かれている”という、自己の発見を告げられたのであった。わたしの家の夕食の席でしめされた一片の計算用紙、それが今もわたしの手もとになつかしく保存されている。 ヒミカは正しい読み
日本列島では古代より人々が住んでおり 当然言語があった
其の言語音と漢字が結合した
当然日本語の読みに漢字をあわせる
逆にチャイナ語にあわせるわけではない
江戸時代にモトオリが当時のチャイナ人に魏史を読ませたがこれは真実には結びつかない手段
日本語は古代より連綿と続いており現在の読みで正解
533こそ半可通の屁理屈にすぎない ではヒミコの読みを立証してみればよい 恐らくできない >>535
オマ屁は「邪馬臺」を何と読むんだ
日本人が文字を持たなかった時代、古代の支那人が自分たちの漢字で書き留めた「邪馬臺」。
日本語の「はひふけほ」は最古の「ぱぴぷぺぽ」が「ふぁふぃふふぇふぉ」を経て
江戸時代に「はひふへほ」に変化したという客観的な証拠がある。
「臺」を「タイ」と読むのは江戸時代の支那の発音だが
古代の日本語には「アイ」や「タイ」という母音連続(=二重母音)も無かった。
二重母音は漢字の発音を支那人のように発音しようと訓練した結果だ。
「海津かいづ」をケーヅという風に単母音化、長母音化しているのは関東東北方言だ。
春秋戦国時代の発音はdɯːでmがひっくり返った形の発音記号「ɯ」は
関東〜福島弁の唇を丸くしないで横に引いたウの発音によく似てる。
即ち「邪馬臺」はヤマドゥだ。 >>446
>国家ができる前に、しかも文字もないのに誰が暦を管理してた?
暦を管理しなくても、年数を数えることはできる
春秋年(二倍年暦でもいいけど)で、大王の宝算や在位年数の記録だけがあったというのが
だいたいの見方 記紀で垂仁天皇の命令で常世の国に行った田道間守が、
ミカンの木を持って帰ってきたって話あるけど、それって親魏倭王の印と黄幢だと思う
●木→旗 ●実→印鑑
隠喩してると思うんだな。 >>454
この安本美典氏の99.9%ネタでベイズ統計に知らん顔でビッグデータがーっていってる人は
ニワカのチェリーピッカーなんだよww >>472他の皇統を朝鮮人にしたがるのも、半島系九州説の特徴ww >>500
楼観が有ったという証拠が出土してない場所は邪馬臺國の候補地から除外しないと遺憾な >>489
>畿内に海がないのに淡路島で漁具を作っていたのは海に縁がある九州の海人の設備だったからだよ
???
淡路「島」の周りは海ではないと申されるのかの?
島で漁具を作っているから九州の海人とか、苦し紛れに過ぎるなww >>535
>ヒミカは正しい読み
古田史学の会の中ではなww >>534
周髀算経は蓋天説という天と地が平行平面でその間の距離が8万里という
間違った世界観を前提としたもの
蓋天説は漢代に既に誤りであることが認定済みで、渾天説の世界観が正しいとされている
周髀算経は蓋天説を前提として机上の計算をしただけのもの
一寸千里を短里があるという人は金科玉条のように持ち出すが、
蓋天説では冬至の影長でも一寸千里が成りたつことになる
魏の時代には蓋天説も周髀算経も大間違いなのは周知のことだから、
一寸千里で距離を測ることはないし短里も存在しないww >>507
おまえ、そればっかりな
なんでも、九州から運んだ
馬鹿じゃないの 1里は75m 実際の間隔を理で表記してあり 例えば1000里(対馬〜壱岐)とあれば75kmとは馬鹿でもわかること 二倍年暦の痕跡
年二回の盆と正月休み
年二回のボーナス >>536
馬鹿が魏史を読んで後書け 邪馬臺と何処に記載しているのか ていのう 「邪馬台国が九州にあった」ということと「邪馬台国が福岡にあった」というのは
まったく別の主張なんだけど、これを一緒くたにして非論理的な主張をする
馬鹿チョンが多いんだよなww 二倍年暦はないだろう
台与が6歳半で女王になったことになってしまう
紀年銘鏡が入ってきたときに年数の数え方の違いに気づくだろう
1年の数え方の概念は同じだが、日本には元号に相当するものがなかったため
年数の蓄積ができなかったと考えた方が無理がない 魏志倭人伝の記述を読め。
「南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌、副官は彌彌那利である。推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。」
投馬国に至るまでの奴国とか不弥国とかがすべて北部九州にある地名だと
わかっているのに、そこから水行20日以上もかかる場所が北部九州のわけがないだろうww
俺は「投馬国」というのは薩摩のことだと考えている。
おそらく薩摩から南ではなく東に「水行10日と陸行1月」で邪馬台国に到着するんだろう。
つまり、常識的に考えて畿内と考えるのが妥当。 石器時代には黒曜石の産地が富の集積地となる
1万5千年前には世界初の土器生産地が富の集積地となる
当然ながら社会や支配者が存在した
銅や鉄の普及が其れを加速させた
年号は無くとも年数の経過は把握していた >>552
邪馬台と何処に記載してるの? 読んでないようだね 話が反れるけど
卑弥呼女王は超高齢だったようです
そして結婚はしなかったけれど
数人と交わったようです
子供がいたかんだっけ
住まいは誰も近ずくことができない
堅い守りで見張がたくさん周囲を囲んでいた
その住居の奥まったところで
毎日祈祷や占いを行っている
国の采配はその占いにより行われ
弟が総てを指揮 >>471
https://ncode.syosetu.com/n7163ee/
>佐藤氏は一部の日本から半島への
>稲の伝播について触れただけで、
>半島からの水田稲作の伝播を否定したわけじゃない。
>何故日本から半島に伝わったと言えないかと言うと
>考古学的に確信できる発掘が無いから。
>ちなみに日本の方が稲作の歴史は古い。
>ただ弥生時代の進んだ稲作とは違う。
>そういった韓国側でた遺跡より
>日本が進んでいたと言う遺跡は出てない。
>焼畑栽培、湿地帯での栽培、未熟な水田など、
>ごちゃごちゃになってて情報が錯綜してて
>まともに分かるのは、本格的な水田については
>日本の方が後れていたって発掘しか出ていない。
>もちろん未知ものが発見されたら変わるのだろうが、
>現時点では、日本から半島へ稲作が伝播したと言うのは、
>稲の伝播と混同した右がたかった思想の人達の
>日本万歳の宣伝しかない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 漢委奴国王は福岡の筑紫国
親魏倭王は熊本、佐賀の肥国 .邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 邪馬台国の邪も
卑弥呼の卑も
中国は周辺諸国に別称の意味を含めた漢字を使うから >>547
>1里は75m 実際の間隔を理で表記してあり 例えば1000里(対馬〜壱岐)とあれば75kmとは馬鹿でもわかること
壱岐と、末盧国の間は?ww
海上の渡海距離を測る手段は3世紀にはないよ
そして比定地がほぼ確定の九州上陸後の陸行距離で見ると
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
どちらも、75メートルとは程遠いし、4倍も単位長さが変わっている
短里なんてないんだよ
司馬懿の功績を顕彰するために、倭国を遠くに見せかける目的で盛った誇張された距離が書いてあるだけw >>549
>馬鹿が魏史を読んで後書け 邪馬臺と何処に記載しているのか ていのう
古田史学の会の信者さんですか?
後漢書その他、魏志から引用された史書が軒並み邪馬臺と書いてる
現存の三国志は12世紀の伝本が最古
12世紀までに三国志の伝書で誤記があったと見るのが大勢
だから、臺の代用文字の邪馬台国と表記するのが基本となっている
魏志倭人伝原理主義以外の人は「邪馬壹國が正しい」とかいうバカなことは言わない 魏の使者が訪れた場所なら九州だろうな。
しかしその頃すでに畿内に後の天皇家につながるヤマト王権があったのもおそらく事実だろう。
案外、魏の使者が畿内にいた卑弥呼に会ってない可能性もあるんじゃないかと思ってる。
倭人伝は途中から伝聞っぽくなってるから魏の使者は九州まで行って畿内の邪馬台国の情報を集めて帰った可能性を考えても面白い。
>>558
馬鹿どもよ、
漢委奴国王 :
いうのは、常識的に考えて朝鮮半島の諸部族(原始土人の部族)のことだな。
ようするに、漢 と ヤマト と 両方の奴隷土人(原始人)部族のことだよ
朝鮮半島は、中国だけでなく ヤマト=倭(中国はかってに倭と呼んだ) にも、
朝貢 をしていたからな
まあ重要な朝貢品が、俘囚と呼ばれた平和時の戦争捕虜すなわち、奴隷だよ。
牛馬と同じに縄や鎖で拘束して使い捨てに出来るので使い勝ってが良かったよ
>>557
>557ニュースソース検討中@自治議論スレ2019/01/06(日) 16:15:09.06ID:klUGuKjd
>大宰府でいいんじゃね
土人!
馬鹿どもよ :
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地域となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて、部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か領事館のような砦のあったところでは、
原始人部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民の族長だったということだ。
わかったか、
>>564
魏の使者は警戒されたため本国まで入れず伊都国どまりなのか
使者は邪馬台国に行ってるが行程を記した人が伊都国まででその先は倭人から聞いた話、
どちらが正解? 邪馬台国を滅ぼしたのは
最初に渡来してきた(出雲族)
倭国大乱は 出雲から仕掛けてきたんだろうね、
そこから 延々と戦国が続いている。
徐福も 夕月君も神武も み〜〜んな
邪馬台国の敵だった。
侵略者側だから。
日本の一番偉い神様は
閉じ込められている「閻魔大王」
邪馬台国の大倭王でしょう?
本気で怒ったら 怖いと思うよ? 邪馬台国を滅ぼしたのは
最初に渡来してきた(出雲族)
倭国大乱は 出雲から仕掛けてきたんだろうね、
そこから 延々と戦国が続いている。
徐福も 夕月君も神武も み〜〜んな
邪馬台国の敵だった。
侵略者側だから。
日本の一番偉い神様は
閉じ込められている「閻魔大王」だと思う。
邪馬台国の大倭王でしょう?
本気で怒ったら 怖いと思うよ?
閻魔大王を解放してきちんと祀らないと
善も正義も取り戻せない。 高天原は久高島や琉球だろうね。神話も残ってる。となると邪馬台国は九州辺りだと
考えるのが自然かな 邪馬台国は吉備と瀬戸内海一帯。
出雲は そこは避けて
日本海沿いに足場を固めて行った。
ぞろぞろやって来る侵略者たちも
吉備国だけは避けて、
ぐるりと 邪馬台国包囲網を築いた。
そんなところでしょうね、
もう歴史の嘘は聞き飽きたから
さっさと 真実を出してもらいたい。 ちょっと邪推が入るけれど、朝鮮儒教の道徳観で歴史の真実とは関わりなく
九州説だと声高に主張する工作員レベルの書き込みをする人が多いからだよ エビデンスがないから、ダッチロールだな、、考古学は(笑) >>573
現実には畿内説で決着してるけど、世の中にはそれを認めたくない人が一定数いる
オカルト全開のストーリーを力説するやつ、神話と絡めたりするやつもいる
東遷説や九州王朝説といった九州説の中でも異端に属する説の信者は相当やっかい
文献の曲解や歪曲、データの恣意的抽出など不正行為に等しいことでも平気でやる
この99.9%がその典型例 卑弥呼は九州にいたということか。
AIが出した結論なら妥当だな。
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地域となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて、部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か領事館のような砦のあったところでは、
原始人部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民の族長だったということだ。
わかったか、
>>549
>馬鹿が魏史を読んで後書け 邪馬臺と何処に記載しているのか ていのう
先ず自分で読んでみよう 簡単な漢字だから君でも見えるが 意味が解らないかも なんか頭のくるったのがいるね
九州倭国をつくったのはニンポー台湾琉球などの南方系人種
奈良を侵略した神武は其の分流 しかし 継体以降エベンキ朝鮮人の政権となった フジワラも然り
ヤマイチ国は倭国の本流であり ヒミカも然り
朝鮮半島とは無関係だ
継体エベンキ以降現天皇までが半島と大いに関係がある 故郷だ 549と581は同一人物だろう
ヒミカなんて読み方をするやつが2人もいるか?
漢字で書くべきところをカタカナで書いたり、句読点の代わりにスペースだったり
特殊な文体、癖が同じ >>563を再掲
後漢書その他、魏志から引用された史書が軒並み邪馬臺と書いてる
現存の三国志は12世紀の伝本が最古
12世紀までに三国志の伝書で誤記があったと見るのが大勢
だから、臺の代用文字の邪馬台国と表記するのが基本となっている
魏志倭人伝原理主義以外の人は「邪馬壹國が正しい」とかいうバカなことは言わない
ヤマイチ国とか言ってる人はトンデモ信者 邪馬台国は宇佐やろ
そろそろこれを認めんとあかんで
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて、部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始人部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>>1
素直に読めば沖縄か台湾あたりの国なのだが、、、 魏志倭人伝の時代の邪馬台国なら、九州なのは確定でしょうね。
7世紀頃はさすがに畿内だと思うけど、卑弥呼の時代じゃないね。 どっちでもいいから、確たる結果が出たら教えてくれ。 >>591
>どっちでもいいから、確たる結果が出たら教えてくれ。
確たる結果なら出てるよ
畿内大和でもう確定してる
それを認めたくないニダーって言ってる人がいるだけ >>592
3世紀前半の鉄の先進性では圧倒的に北部九州。畿内説は鉄の出土状況だけでも簡単にぐらついてる。 >>585
君は愚か過ぎる 魏史から引用の証左は? 魏史と後漢書は別物 君は書き込みはしないほうがよいのでは >>593
纒向遺跡を見ると鉄だけでなく、人が住んでいた形跡も希薄なんだよ。
ストーンサークルを発掘してそこを大都市だった、のように妄想してる畿内派は頭おかしいよね。 >>55
>山たい
時代錯誤の九州馬鹿wwwww
長さ40cmの夜用超吸収生理ナプキンでも充てがってろwwwww >>593
その鉄貧乏の奈良から政権が誕生して、全国統一されたのが日本の歴史だよ
だから鉄の出土量は国の首都とは関係ないというのが結論 >>593
畿内を全部掘り返したわけでも無いのに結露んを急ぐ馬鹿
慌てる乞食と吸収説派は貰いが少ないぞwwwww 10年後には違うと言うだろうな こいつら
10年後にも違うと言うだろうな こいつら
歴史学者ほど無駄飯喰らいはおらんな 99.9%なんて言ってるのは歴史学者でない、古代史マニアの素人だよ
歴史学者は否定している >>585
日本語ではヤマイチと読むけど
中国語ではイチの最後尾の母音部分は無い
英語のitとほぼ同じ発音。
古代日本語には朝鮮語や中国語のような閉音節、即ち
音節の最後のPやT、K、S、Nなど唇や舌で口、喉の気流をさえぎって終わる言葉は無かった。
だから漢代や魏晋時代に倭人の発音を聴いて
「壱、壹=it」という閉音節の漢字で当て字することは有り得ない。
古田武彦は『東日流外三郡誌』などの和田家文書に騙された古代史トンデモ教教祖w また鉄の話してんの。
鉄の確保においては、それこそ紀元前とかだったら圧倒的に北九州だっただろうが、
それ以外の日本海側(山陰〜越)地域も、時代が下るにつれて、韓半島からの鉄材を確保するようになり、
3世紀には、鉄素材の確保という点においては、むしろ北九州エリアの専有性が崩れていたと思われる。
ただし、加工技術においては、たぶん九州エリアがまだまだ強かったと思われる。
青谷上寺地では、鉄器を使って、木彫り細工をしている。
奈具岡では、やはり鉄器を使って、玉類を作る工房が誕生している。
鉄以外でも、奈良では、九州勢が大陸に頼っていた丹が大量に採れた。
各地の特産品が発生し、また専業者集団が工芸品を作ったりして、各自の得意分野を活かしながら、活発に交易をしていたことが伺える。
鉄は、重要な素材ではあるが、玉、器、丹などと交換される交易品のひとつと考えるのが自然。
鉄だけで全てを語るのは無理があるよ。 みんな当たり前のように大和朝廷と邪馬台国が繋がってる様に考えてるのが不思議過ぎる
邪馬台国なんて何百も存在する集落の一つがたまたま魏志倭人伝に載ってるだけだろ >>605
考古学が進歩して、九州説だと魏志倭人伝の記述に合わないことが判明してしまったからね 畿内説が有力だといソースをメディアにバラまかないと予算が下りないからね。
学会内の力関係がそのまま反映しているだけ。
結論が出せないのを解っているから、発掘調査予算の分捕り合いに終始するだけなんだよね。 >>604
いや、倭人伝を考察するならば鉄や大陸製品の流通は重要
倭人伝に記載されているのは主に大陸との接点の北部九州である
つまり、北部九州との関連が一番重要なのだよ
交流があり、さらに北部九州を押さえている地域ならば、鉄や大陸製品は流通して当たり前と思うが
ヤマト政権の成り立ちの考察ならば必要ないが、倭人伝時代の考察ならば必要不可欠だよ >>605
ヤマト王権の成立が4世紀後半とか5世紀ならば、別集団もおおいにありうるけど、最近の調査では3世紀後半に成立している可能性が高まったから、邪馬台国とヤマトの関連性がより注目されている。
4世紀前半には、鳥取で殺戮の跡が見つかってるけど、この時期、平和裏に周濠が埋められて戦いの世が終わったように見える集落も多い。
邪馬台国がそのままヤマトになるかはともかく、少なくとも構成要素の一部分である可能性は高い。 >>608
>つまり、北部九州との関連が一番重要なのだよ
その北部九州の状況が判明してきたから畿内説で決着したんだよ 古代インドでは 日本のことを
「やま」と呼んでいた。
そして インドでは黄泉の国を治める王を
「山王」と呼ぶ。
つまり 大倭王(閻魔大王)の名は
インドにまで知れ渡っていた。
えんま=やま
ただしそのインドも
二千年前にアーリア人が大量に入ってきて
様変わりしたと・・・
大倭王は インドあたりまで
治めていたのかな、
黄金の国だものね。
侵略されて ばらばらになり
邪馬台国と呼ばれたのを最後に
歴史から消されてしまった、黄金ゆえに。 伊都国から奴国や不彌国まで100里と書いてあるのだから北九州以外考えられない
世界四大文明からして大河との関わりを考えると筑後川沿いが一番可能性が高い 九州説の人って
何が取り憑いてるん?
畿内説もだけど
お祓い行った方がいいよ〜〜
薬で治るん? 邪馬台国は畿内で決定しました。以後、この手の議論は全面禁止とする。 >>604
>奈具岡では、やはり鉄器を使って、玉類を作る工房が誕生している。
ソース文献を出せ。
ナイフの刃 モース硬度 5.5
紅玉 モース硬度 9.0
碧玉 モース硬度 7.0 SiO2
硬玉 モース硬度 6.5 〜7 NaAlSi2O6
軟玉 モース硬度 6 - 6.5 Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2
モース硬度とは?お互いを擦り合わせて傷が付くかどうかと言うやり方で硬さの順番を決めた物。
硬度が0.1低くなるだけで相手に傷が付けられない。
金槌でモース硬度10.0のダイヤモンドを叩いて割ることは出来ても削るなどの加工は無理。
ナイフの刃で玉類を加工することは不可能だ。
後期旧石器時代から鏃に使われた黒曜石のモース硬度は 5。 鉄なんてどうでもいい
そもそも邪馬台国と鉄の関連性なんて皆無。ただのこじつけ
うどんの消費が多いところが首都って勝手に定義して香川県が首都だって主張してるようなもん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています