・邪馬台国の発音に近い地名
 ⇒ ヤマト国そのもの

・戸数7万戸
 ⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
   戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
   四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる

・30近くの国々の盟主
 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 
   広い範囲からの人が集まっている証拠  
 ⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
   それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
   この墓制の共通化を主導した盟主と認められる

・宮室、楼観、城柵
 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
   それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
 ⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している

・卑弥呼の墓径百歩
 ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
   それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
   どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
   いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い

・徇葬百人
 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
   家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
   誤解した可能性がある

畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる