【歴史】[ヴィトン] 日本初かばん購入者は板垣退助 本店照会で判明[06/29] [無断転載禁止]©2ch.net
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毎日新聞 2017年6月29日 19時15分(最終更新 6月29日 19時21分)
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板垣退助が購入したルイ・ヴィトンのトランク=高知市立自由民権記念館提供
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板垣退助が購入したルイ・ヴィトンのトランクについていたタグ=高知市立自由民権記念館提供
https://mainichi.jp/articles/20170630/k00/00m/040/046000c
仏高級ブランド「ルイ・ヴィトン」のかばんを日本で初めて購入したのは誰か−−。この謎に高知県はこれまで、土佐藩士の後藤象二郎と紹介してきたが、さらに3週間早く自由民権運動の指導者、
板垣退助が購入していたことが分かった。板垣を顕彰する「板垣会」の公文豪・副理事長(68)がルイ・ヴィトンジャパン(東京都)を通じてパリ本店に照会して判明した。
ともに土佐藩士だった板垣と後藤は1882(明治15)年、横浜からフランスの郵船に乗り、香港などを経てパリに到着。その後もロンドンなどを外遊し、翌83年に帰国した。
公文副理事長によると、ルイ・ヴィトンジャパンの初代社長、秦郷次郎氏が著書の中で、後藤の顧客カードを、写真と共に紹介。これがもとで「後藤が日本人初の顧客だった」との説が広まった。
しかし、昨年、東京都内であったルイ・ヴィトンの展覧会を機に、公文副理事長が同社を通じて購入記録を照会。記録によると、1883年1月9日に「Itagaki」という人物が、シリアルナンバー「7720」のトランクを購入していることが判明し、
名前とナンバーが、板垣の子孫が保管していたトランクと一致した。この3週間後の同月30日、後藤が二つのトランクを購入した記録があるが、現物が確認されておらず、後藤はこれより前にパリを出発していたという。
公文副理事長らによると、板垣や後藤よりも8年早い75年、元薩摩藩士でフランス公使の「鮫島尚信」とみられる購入記録もあるが、現物が未発見で、実物で裏付けられる最初の購入者は板垣とみられる。
板垣のトランクは現在、高知市立自由民権記念館に寄託されている。公文副理事長は「板垣の洋行に関わる第一級の資料だ」と指摘。県観光政策課は「あくまで通説の一つとして『後藤が最初』と説明してきた。新事実をきっかけに幕末や明治維新への関心が高まればいい」としている。【松原由佳】 今じゃ底辺DQんの汚いアクセサリーだもんな・・・
バーゲンでババアが取り合ってんのを見てもため息しか出ないわ かばんちゃんのかばんはヴィトンだった?
すっごーい! かばんちゃんを買ったのか……
た、食べないでくださーい! これで払った?
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=100%E5%86%86%E6%9C%AD+%E6%9D%BF%E5%9E%A3#mode%3Ddetail%26index%3D5%26st%3D251 >>22
>>23
じゃあ、米だったら何キロ分だよww >>2
だから、ここがその話のスタートだけどまずいって。
触っちゃいかんよ。 ドンキで売られていて
中高生が財布使っているイメージ 「鮫島尚信」の購入記録があるんだったら、「鮫島尚信」が最初でいいんじゃないの?
カバンなんて壊れたらみんな捨てるよね? 高知市内にヴィトンの店があったね。
何でこんなところに、って感じで、忽然とあるのが不思議だった。 男はつらいよのフーテンの寅さんシリーズ全集VHSの箱と似ている 現物つってもな
歴史上の重要人物でもなければ、現代まで遺品残しておくとか
普通はねーだろ 100年、200年後に、
エログッズを日本で最初に買った人物は◯◯とか公開されちまうんか? 夜な夜な新星を発見して思いをはせるロマンチスト仙人かと思いきやブランド好きの俗物おじさんでもあったのか失望した >>54
何が嘘なんだよ。記録と一致する現物があるのに 大山巌も愛用していたと聞くが、初購入ではないのか… ルイ・ヴィトンが所有する19世紀後半の顧客名簿の中には、
十数人の日本人らしい名前 が見出されます。
フランス特命全権大使であった鮫島尚信(1878年、80年/注文購入した年)
大山巌(1882年)、後藤象二郎(1883年)、小倉久(1884年)、
西園寺公望(1886年、88年)、 岩倉具視(1900年)らが
ルイ・ヴィトンの製品を買い求めています。
>>60
現物が残っているかどうか、じゃないかな? >>61
なるほど。
大谷巌は奥さんとフランス語ではなしをしていたらしい。まあ大谷巌が薩摩弁で奥さんは幼少期から留学したために日本語が不自由だったかららしいけど。 だから【天文】じゃなくて【板垣】だと何度言えば・・・あれ? >>65
当時の知識人なんて皆西洋かぶれだろ
いや今でもかw >>67
板垣死すとも、レシート残らず(買った時のね) 世界中の女性の憧れ「ティファニー」は創業時、文房具と装飾品を売っていた雑貨屋でした。
「ティファニー」が宝石事業に進出できたのは1848年にフランスで起きた2月革命がきっかけで、
フランスの貴族達から由緒のある宝石類を買い取ることが出来たからです。
そして「ティファニー」が宝飾品の世界で今の地位を築けたのは「ティファニーのシルバー」
と呼ばれる純度の高い銀を扱い、新しい宝飾品として銀の売り出しに成功したからでもあります。
しかし、実はこの「ティファニー」の成功と方向性の転換の裏には日本と日本の高度な
工芸技術が大きく関与しておりました。
1837年9月18日、「ティファニー」の創業者チャールズ・ルイス・ティファニーはジョン・B・ヤングと
共にニューヨーク・ブロードウェイで文房具と装飾品の店を始めますが、初日の売り上げはわずかに4ドル98セントでした。
なかなか業績の上がらない商売に頭を痛めていたチャールズは、あるときボストンの港で船から陸揚げ
されたばかりの荷を見て回っていると今までに見たことも無い美しいものを見つけました。
それは日本の工芸品でした。
中国の物産にはすでになじんでいたチャールズでしたが、初めて見る象眼、螺鈿、美しい装飾を施した
精巧な日本の家具に彼は魅了され、感激してしまいます。
値段を聞くととても手の届かない高額な値段でしたが彼は親族中を回って借金をし、まさに命運をかけた買い付けをします。
チャールズは後にこう回想しています。「あれは私の最初の大博打だった。
店に置くと大評判で、すぐに売れてしまった」と。
彼はこの人気に驚き、ショーウィンドーに日本の扇や金襴を飾ったりしますが、彼は人々の興味を引き
付ける良いものを店に置く重要さに気が付き、後に宝飾品を扱うきっかけともなったといいます。 ジョン・C・ムアーの息子、エドワード・C・ムーアが1868年にティファニー社の筆頭デザイナーに
就任するとティファニーのデザインが変化していきます。
エドワードが初めて日本の工芸品に触れたのは先のパリ万博の時。
フランスやイタリア、中近東とも違う日本の独特の美と高度な技巧・技術に魅了されたエドワードは
日本の職人をアメリカに招くように提案したそうです。
テッサ・ポールの書には「(エドワード・ムーアは)日本美術とその巧みな金属細工の技術に傾倒した。
彼は日本の金属細工師の一団をニューヨークに招請した。
ティファニー商会の工房では彼らの指導のもとであらゆる種類の色調が銀と組み合わされ、
エナメル細工の実験が行われた」と書かれています。
現代とあんまり変わりませんね。日本の町工場がアイフォンやハイテク機器を下支えしていく。
アメリカが世界をひっぱっていく流れ。
上記の銀製品が発売されるとデザインの斬新さから各地で絶賛されます。
またアメリカの造形が初めてヨーロッパの束縛から解放された作品として高く評価されました。
しかし上記の銀の花瓶の様に、浮き彫りで模様を施す技法はあくまで西洋の伝統に倣っているに
過ぎません。西洋(ヨーロッパ)では金や銀は貨幣と等価でしたので金や銀に他の金属を混ぜ合わせる
合金は禁忌されていた為、その伝統の上にあったティファニー社には金製品・銀製品を別々に作る技術
しか持っていませんでした。
一方、日本では金工象嵌に限らず、漆地に薄く削ったアワビの貝殻を嵌めこむ螺鈿細工などの象嵌も広く行われていました。
ティファニー社はこの技法を日本の金属細工師から学び、1870年代後半になると銀地に金や銅などの違
う金属を載せる製品を次々と発表していきます。
そして1878年、ティファニーはパリ万国博覧会・銀器部門でついにグランプリを得ます。 ティファニーが率先して受け入れた「ジャポニズム」は日本文化に対する最初の世界的ブームを
表す言葉です。(ガウン代わりに着物でくつろぎ、庭に提灯を灯したりした)
現在「クール・ジャパン」と呼ばれている現象は第3次日本文化ブームです
ティファニーが日本に感化され、作られた、現存する当時の製品の多くは今や美術品として
扱われております。
またティファニーの社史には日本から受けた影響について言及されておりませんが、、、、
ティファニーの日本趣味は現在でも確実に受け継がれていると言われています。
ティファニーのオープンハートも日本美術の影響を受けたとされています
それでは、次は、
ルイヴィトンのモノグラムについて。
ルイヴィトンを日本でいちはやく愛用したといわれているのが薩摩藩主・島津斉彬です。
ルイヴィトンは1854年、世界初のトランク専門店としてフランス・パリに創業しました。
このころのトランクは現在よく知られているダミエラインやモノグラムではなく、
平凡な灰色のキャンバス地で覆ったものだったそうです。
1867年、徳川家とともにパリ万国博覧会に参加した薩摩藩は、出品した12代沈寿官の白薩摩が世界の
絶賛を浴びました。そのときに島津家の家紋を目にした当時のルイヴィトンの関係者らが、
それにヒントを得てモノグラムの図案ができたのだそうです。
斉彬が最初の愛用者とされる一方、最初の購入者とされているのは土佐藩士・後藤象二郎です。
彼は1883年にフランス・パリで開催された万国博覧会に参加し、その際に総革張りの110cmの大
型トランクを購入したといわれています。このとき購入されたトランクも現在のような模様では
なく、ベージュと赤のストライプ柄でした。 >>34
ありきたりだが警察は事前には動かない。
今じゃどこの家庭もSECOMが当たり前の時代なんだから
襲われるのが嫌なら隣にボディーガードを付けとけばいいんだよ。
格安ボディガードのガードドッグなんか時給2500円で付いてくれるから相手が確実に来るときに付けとくだけでもかなりの抑止効果になるよ。 科学が何か分からなかったらせめて板の雰囲気を読んでスレ立てろボケ 初じゃないじゃん
板垣より先に買った人の記録もあるんでしょ
現物が未発見だからっておかいいだろ
本社の公式の文書ってその程度のもんなのか?
馬鹿にしすぎじゃないの スレタイがおかしいだけだ
日本初かばん購入者なんて本文では言ってない 板垣退助「ヴィトンを落としたよボットンとね(笑)」 高知はルイ・ヴィトンが撤退した建屋ですぐに711が開業したよくわからない土地だからなあ フェイスニュース
男がカバンなんかに興味を持つもんかよw 板垣死すとも自由は死せず
死せずはゾンビ
ゾンビは怖い
恐いは幽霊
幽霊は消える
消えるは電球
電球は光る >1883年1月9日に「Itagaki」という人物が
キサマ等の持つブランド品は既に――板垣が134年前に通過したブームだッッッ!! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています