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◆三島由紀夫の遺訓◆
0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/01/30(日) 11:16:29ID:b7Fw0OZ3
三島由紀夫(本名、平岡公威)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
http://image.rakuten.co.jp/auc-artis/cabinet/s-2540.jpg
http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51PADZ21PEL.jpg
http://image.blog.livedoor.jp/maccy1977/imgs/8/e/8e3b520d.jpg
大正14年(1925年)1月14日、東京都四谷区(新宿区)永住町2に
父・平岡梓(元農林省水産局長)、母・倭文重の長男として誕生。
0257名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/07(月) 11:44:01.63ID:Fr6MGjUQ
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0258名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/07(月) 15:30:18.27ID:Fr6MGjUQ
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0259名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/07(月) 15:30:38.43ID:Fr6MGjUQ
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0260名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/07(月) 15:30:59.68ID:Fr6MGjUQ
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0261言い男
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2011/03/07(月) 18:26:47.93ID:JfY6N6OI

 個人
0262名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 10:34:44.88ID:u5UNyE6e
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0263名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 10:35:06.27ID:u5UNyE6e
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0264名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 10:35:37.36ID:u5UNyE6e
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0265名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 10:35:55.50ID:u5UNyE6e
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
0266名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 19:45:58.19ID:u5UNyE6e
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
0267名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 19:48:35.61ID:u5UNyE6e
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で
行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の
勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
0268名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/08(火) 19:50:34.62ID:u5UNyE6e
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに見て
わらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど
考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ
基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのではないかと
疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、自分一人しかゐない、
自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
0269名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/08(火) 19:52:49.62ID:u5UNyE6e
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさ
なければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、さういつた
絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。かりにも世間を
甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにもならないところまで
来てゐることを自覚して欲しい。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
0270名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/09(水) 11:41:20.00ID:IiXacfSS
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。これを
おし進めると、抵抗を否定することになる。従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのでは
ないか、と思ふのだが……。
三島:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は楽しいもの
であるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。
抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが
非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。
内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。共産党を内部批判すると
英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。
こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
0271名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 12:00:10.43ID:IiXacfSS
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は文化や
伝統が規定すると思ふんです。(中略)
Q――「個人的なフラストレーションと公的な憤りを混同するな」といふことを書いてをられる。現代の抵抗には、
確かに、そんなのが多い。
三島:そろは抵抗側の政治組織の問題です。つまり個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。
さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
なくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には何も
いへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
0272名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 12:06:07.72ID:IiXacfSS
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。石原君だけでなく、日本人の多くが、いまさうですね。会社の
帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、
あんなもの私的なもので、上役とのいさかひはその場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
0273名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 12:09:09.09ID:IiXacfSS
Q――士道とは何か。
三島:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかりいつてゐる
わけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、かへつて
よはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるのかも
わからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。ストイックなのは
損だと、だれもが考へてゐる。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
0274名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 12:13:25.95ID:IiXacfSS
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。みんなが「士道」を実践してゐないのに、
一人だけサムラヒになつても効果がないんぢやないか。
三島:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人がさうで
あればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
0275名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 12:17:12.03ID:IiXacfSS
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴の
しづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。「士道」といふ
ものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、心のなかに
持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、士道に反してゐるのだ
と考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。
士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
0276名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/10(木) 11:57:56.96ID:oaucq5SW
私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。
鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分の
シニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
0277名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/10(木) 12:00:14.93ID:oaucq5SW
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとつては、
排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど
愚かになれるわけではない。
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
思想的節操を保つたたために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、
思想的に変節しないといふことは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明には
ならぬであらう。つきつめてみれば、「男の意地」といふことを多く出ないのである。それはそれでいいと内心
思つてはゐるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
0278名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/10(木) 12:02:38.69ID:oaucq5SW
否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を
果たすわけではないが、政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ
果たしてゐないといふ思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、
といふ考へが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代
二十五年間を、否定しながらそこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷に
なつてゐる。
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的妄信を
根底から破壊してやらうと思つて来たのである。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
0279名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/10(木) 12:04:31.79ID:oaucq5SW
肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強ひの
結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかつたことであり、
もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいへば、「死刑囚たり且つ
死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を
発見したときに、近代がはじまつたのではなからうか。私のこの「近代」といふ意味は、古代についても
妥当するのであり、万葉集でいへば大伴家持、ギリシア悲劇でいへばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を
代表してゐるのである。
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失つた。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚といふ徳が
欠けてをり、果ては上田秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
0280名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/10(木) 12:07:03.25ID:oaucq5SW
自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」といふ境地になれないものか、
われとわが心を疑つてゐる。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦つてゐるのが、一体、人生を
愛するといふことであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのでは
ないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、
私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
0281名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/12(土) 15:02:45.92ID:ajd7BZpY
Q――現代のビジネスマンに要望することは?
三島:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。あれは商人の
お祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね、武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところ
ですよね(笑)。武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の
意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。
ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。今の商人といふのはさういふ気持が
ないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
0282名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/12(土) 15:03:58.21ID:ajd7BZpY
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。どんな国の、いかにも民族資本でもね、
インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、
日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。自分らが企業体の中で活躍するとき、
いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、さういふものによつてをかされていくといふのは、
青年として耐へがたいだらうと思ふ。それでボクは武士は武士として一人でぐわんばつてゐる。ところがボクもね、
扶持をくれないから浪人なんですよ。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
0283名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/12(土) 15:05:28.48ID:ajd7BZpY
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、
今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、
何をする、さういふことをしない人もゐますがね、当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、
公私混同みたいなところが。
とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。
戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して
ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、
かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
0284名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/12(土) 15:08:28.74ID:ajd7BZpY
Q――先生の小説、たとへば「奔馬」なんかにも自己犠牲といふことが強く出されてゐますね。
三島:さうですね。「奔馬」は自己犠牲を非常に強く出してゐる。このごろ外人記者なんかに会ひますとね、
日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。これは実はまちがひだつていふんです。(中略)
といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを
外人に説明するとき、三つあるといふんです。
それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。
第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。そしてね、
軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility はあるかもしれない。
Self-sacrifice は欠けてゐると。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
0285名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/12(土) 15:12:27.89ID:ajd7BZpY
かうなつたらアウシュビッツの収容所長だつてさうなんで、自尊心はもつてゐた、責任観念はもつてゐた、ただね
Self-sacrifice といふものは外国にはないから、だからさういふことになるといふふうに説明するんですよ。
ですから本当に日本人が武士道にめざめれば、あなたがたが心配することは何もない。身を殺して仁をなすことが
武士道の極意だと説明するんです。その場合、欠けてゐるものは武士道のみならず、ことに商人に欠けてゐる。
そして、とにかく口では国家の再建をとなへ、日本精神をとなへ、自分の金は一文も出すのはいやだ。十円の
金も惜しい、全部会社の伝票、そんな精神ぢやだめなんだといふことですね。(中略)
常に自主防衛といふと核装備なんだかんだといふけれども、自主防衛といふのは自分が苦しい思ひをするといふ
ことがだれもわかつてない、まづ自分が犠牲をはらふといふことがまづない。
それは私の「楯の会」の根本理念である、まづ自分が苦しい思ひをしないで何で自主防衛ができるかといふことを
青年にわからせたいですね。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
0286名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/12(土) 15:17:05.42ID:ajd7BZpY
Q――「楯の会」も誤解されてゐる?
三島:ええ、「楯の会」を誤解するやつに限つて自分の金が惜しい人ですよ。つまり自分の身を犠牲にするのが
惜しい人なんだ。そんな連中に限つてつらいことをひとつもしたくないんですね。

Q――行動の美学といふことが先生の基本テーマだと思ひますが、その本質は?
三島:やつぱり、行動の美学の本質といふのは、日本に武士道といふのがあるんだから、武士として生きる
といふ以外にないですね、男としてはね。女にはまた別のがあるでせうけど。どうやつて生きるかといふのは
むづかしいことです。
女性といふのは生き方なんか教へる必要ないんです。女性はね、戦後の体制といふものを女性が代表してゐるんです。
この戦後のあらゆる困つたことは、みんな婦人参政権のせゐです。憲法改正ができないのも婦人参政権のおかげが
一つある。
そしてこの平和ムードの奥底にあるのもこの女性的なものです。どんなに会社でバリバリした男でもうちに帰ると
女房にガッチリおさへられてゐると、その女房はですね、すでに解放された女で、男の理念にしたがはず、女の
独特の理念をもつてゐるわけでせう。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
0287名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/14(月) 13:30:36.29ID:1PNsvqJm
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。

三島由紀夫「わが同志観」より
0288名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/14(月) 13:32:42.32ID:1PNsvqJm
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、神と
個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。

三島由紀夫「わが同志観」より
0289名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/14(月) 13:34:21.92ID:1PNsvqJm
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。

三島由紀夫「わが同志観」より
0292名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/15(火) 12:01:49.32ID:K6RTQObd
私は戦時下のあの時代を、一面的に見られることの腹立ちを、いつも抑へることができない。又、あの時代に
不適格者であつたことを誇りにする人の気持が知れない。あの時代に永い病床にあつて、つひに病死した青年は、
自分の心の傷とも闘はねばならなかつた。しかし文学は、克己的な青年にとつては、嘆きぶしでも愚痴の捨て場
でもなく、精神の或る明るい平静な矜持を保つための方法だつたのである。
なるほど繊細鋭敏な感受性は、戦争には何の役にも立たない。だが、さういふ感受性の受難の運命は、戦時中だらうと
平時だらうと同じことだと悟り、若くして自若とした心を獲得することは、いづれにしろ一つの勝利だつた。
東氏は自分の非運を、誰のせゐにもしなかつた。

三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
0293名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/15(火) 12:03:48.22ID:K6RTQObd
私は今の若い読者が、自分と同年配の青年が戦時中いかに生きいかに死んだかに、興味を寄せてゐることを
知つてゐる。そこには多くの壮烈なヒロイズムの例証があつた。同時に、もつと静かな、もつと苦痛に充ちた、
もつと目立たないヒロイズムもあつたことを知つてもらはねばならない。
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、
人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。ただ耐へること、
しかも矜持を以て耐へること、それも亦、ヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な
兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の
青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り出す機縁になることを、私は信ずる。

三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
0294名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/20(日) 16:53:08.48ID:1FWdzH1F
現下の日本のもつとも重要な問題は、国家理念の確立と、青年に「大義とは何か」を体得せしめることであります。
多くの青年が、日本が犯される時は銃を執つて戦ふ覚悟を、口でこそ示しますが、その方途も、真の敵の所在も
明確につかんでゐないのが実情であります。
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
しかしこのやうな自覚も、強い思想的バック・ボーンなしには、たちまち足元から崩れ去るのが、今後の複雑な
政治状況であり、又、そのためには団体生活の訓練と、一定の基礎的な肉体訓練が必須であります。

三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
0295名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/20(日) 16:53:28.85ID:1FWdzH1F
このやうな青年によつてこそ、日本の安全保障と自主防衛の精神は、将来へ向つて輝やかしく保持され、国の安全こそ
企業の安全につながることが、国民全体によつて理解される糸口がひらけるのであります。
企業防衛イコール国土防衛の精神を確立するために、われわれは陸上自衛隊の協力を得て、従来の体験入隊より
一歩前進した、比較的長期間の組織的体験のプランを作製し、各企業体経営者各位の賛同を得て、J・N・Gの
横の組織を創り出したいと念ずるものであります。

 仮 案
一、中卒あるひは高校卒の青少年を、一定期間(十日乃至一ヶ月)当組織へお預りし、体験入隊をお世話し、
必要に応じて年一回、あるひは春秋二回といふ風に継続し、J・N・G隊員として、溌剌たる挺身的な模範社員を
各職場へお返しします。企業防衛を国土防衛の基盤として理解する、信念ある中堅社員育成のために、資する
ところ大なるものがあると信じます。(後略)

三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
0296名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:48:18.62ID:traQknmC
戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を
叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に耽る者、勉学にはいそしむが
政治的無関心の殻にとぢこもる者、「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、
ほぼ三種類に分けられるにいたりました。(中略)
われわれは一九六〇年以後、言論活動による国の尊厳の回復の準備を進めて参ると共に、一九六五年にいたつて、
国防精神を国民自らの真剣な努力によつて振起する方法の研究に着手しました。(中略)…核兵器の進歩は
却つて通常兵器による局地戦(いはゆる代理戦争)の頻繁か発生を促し、これを戦ふ者も正規軍のみでなく、
ベトナム戦に見る如く人民戦争の様相を呈して来た以上、必ずしも高度に技術化された軍隊でなくとも、
通常兵器を以て国防に参与できる余地のあることが常識化されるにいたりました。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0297名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:48:55.23ID:traQknmC
そもそもわが自衛隊は、安保体制下集団安全保障の一翼を担つて、国防の任務に就いてをりますが、この任務のうち、
純然たる自主防衛の領域は、新安保条約によれば、
一、間接侵略に対する治安出勤
二、非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
の二領域であります。この二つのケースにおいては、自衛隊は、いかなる外国軍隊の力をも借りず自らの手で
国防を引受けるといふ重大な任務を負うてゐるのであります。(中略)
「間接侵略」の形態も亦、一様ではありません。革命の客観的条件の成熟と向うが認めた時点が何時であり、
そこへ向つて、いかなる一連の動きによつて「間接侵略」といふ内戦段階へ移行するかは予断を許さぬのみならず、
現に今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐると考へて
いいのです。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0298名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:49:16.92ID:traQknmC
これに応戦する立場も、単に自衛隊の武力ばかりでなく、千変万化の共産戦術に応じて、あるひは言論、あるひは
行動により、千変万化の対応の仕方を準備するのが賢明であります。そのための最後の拠り処は、外敵の
思想的侵略を受け容れぬ鞏固な国民精神であると共に、民族主義の仮面を巧妙にかぶつたインターナショナリズムに
だまされない知的見識であり、又、有事即応の不退転の決意でなければなりません。このやうな決意を持たぬ思想は、
怯懦に陥つて、いつか敵の術策に陥ることをなしとしないのであります。
不退転の決意とは何か? すなはち、国民自らが一朝事あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を守る決意であり、
自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
しかし、気魄だけでは実際の役に立たないので、武器の取扱にも周到な教育を要し、指揮統率の能力も、
又これに応ずる能力も、一定の訓練体験なしには、つひに画に描いた餅にすぎません。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0299名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:49:41.47ID:traQknmC
又、別方面から考へれば、何事も感覚的にしか理解しえない無関心層の青年に、国防精神を植ゑつけるには、
単なる思想指導や言論による教育では不十分で、実際に彼らに執銃体験を与へることによつて、彼らが
武器といふものの持つ意義も危険も知り、感覚を土台にして、より高い国防精神に覚醒する端緒をつかむといふ
ことも十分考へられるのであります。
ここに思ひ到つたわれわれは、諸外国の民兵制度を研究し、左記のやうな各種の資料を得ました。
(中略)
以上のやうに、民兵制度なるものを種々検討してみたわれわれは、平和憲法下の日本で、われわれ国民が
市民としての立場で国防に参与する方途は、ここにあると確信するにいたりました。民主国家国民としてあらゆる
自由と権利を享楽してきた日本人は、戦後、義務の観念を喪失したと云はれますが、実はまだ使つてゐない権利が
一つ残つてゐるのではないか、民主国家の国民としてのもつとも基本的な権利である、「国防に参与する権利」
だけは、まだ手つかずのままではないか、といふのがわれわれの発想のもとであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0300名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:50:11.42ID:traQknmC
民兵といふ言葉はみすぼらしく、魅力的でないので、われわれは祖国防衛隊といふ言葉を使ひます。(中略)
専門家の概算によると、長大な海岸線を持つわが国の国土防衛のためには、三五万から百万の陸上兵力を
必要としますが、(中略)…のこりの十七万は何とか国民の自主的な努力により確保せねばならぬのであります。
従つて祖国防衛隊は、大都市においては都市防衛、海浜地域においては沿岸警備、山間地域においては
対ゲリラ防衛を任務とすることになるでせう。又、出勤した正規軍師団の後方警備要員としても有効適切であります。
ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。
正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に
関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を
発見してゆかなければなりません。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0301名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:53:19.72ID:traQknmC
現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも
一兵卒として召集し、無理な一本化を急いで弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は
市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。
正規軍の増強と精鋭を望む議論としては正論でありますが、日本の現状から見るとき、徴兵制度の弊害の記憶が
ありありと残つてゐる国民感情から見ても、又、もし将来徴兵制度復活が実現されても、そのときはもはや
国論統一が成し遂げられた時点であり、国論統一が成就するや否やわからぬ過渡期の危機を収拾するには間に合はず、
前途のとほり、間接侵略の複雑微妙な進行過程において、徴兵制を強行すれば、軍自体の赤化の危険さへ
懸念されるのであります。その点からも、「思想堅固な者にのみ、武器をとらせる」方式を別途に考へなければ、
間接侵略に真に対処することは不可能なのであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0302名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:53:39.54ID:traQknmC
これらの考察ののち、われわれは一九六六年秋にいたつて、祖国防衛隊のもつとも基本的な原案を作製しました。
(中略)
概ね、右のとほりでありますが、無給である以上、隊員には強い国防意識と栄誉と自恃の念の養成が必要とされます。
又、まだ法制化を急ぐ段階ではありませんから、純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他はなく、
一方、一般公募にいたる準備段階に数年をかけ、少くとも百人の中核体を一種の民間将校団として暗々裡に
養成することが先決問題と考へられたのであります。(中略)
われわれはかくて自衛隊内部にも知己を得て、国防問題について真剣に論じ合ひました。われわれの知りたいことは、
市民軍の指導者たる幹部要員の教育に、必要最低限度、どれだけ訓練が必要とされるか、現行法制下でそれが
可能か、といふことでありました。そしてつひに、それが可能であるといふ成果を得たのであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0303名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/22(火) 11:54:01.45ID:traQknmC
祖国防衛隊基本綱領(案)
祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を
守らんとする市民による戦士共同体である。
われら祖国防衛隊は、われらの矜りと名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を
破壊する一切の武力的脅威に対しては、剣を執つて立ち上がることを以て、その任務とする。

 隊 歌
強く正しく剛(たけ)くあれ
文武の道にいそしみて
正大の気の凝るところ
万朶(ばんだ)の花と咲き競ふ
日本男子の朝ぼらけ
われらは祖国防衛隊

若く凛々しく勇ましく
高根の雪に恥づるなき
市民の鑑(かがみ)武士の裔(すゑ)
祖国を犯す者あらば
かへりみはせじ楯の身を
われらは祖国防衛隊

清く明るく晴れやかに
憂憤深き夜は明けて
正気光りを発すれば
歩武堂々の靴跡に
敵影(てきえい)霜と消え失せん
われらは祖国防衛隊

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
0304名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/23(水) 13:57:01.47ID:Dmee37i8
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞がこの
青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。かういふヒステリー症状は、
ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうと
したのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
0305名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/23(水) 13:57:23.09ID:Dmee37i8
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
0306名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/23(水) 13:57:42.99ID:Dmee37i8
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、
敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
0307名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/23(水) 13:58:05.39ID:Dmee37i8
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
0308名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/23(水) 14:02:51.28ID:Dmee37i8
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
0309名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/23(水) 14:03:09.53ID:Dmee37i8
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
0310名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/25(金) 21:34:17.64ID:2DgtJoOF
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら
威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を
日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。私がお茶漬ナショナリストと
いふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、どうにも
否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、一方では
文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きく
しないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言つたらどうだらうか?
比較を一切やめたらどうだらうか?

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
0311名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/25(金) 21:35:35.43ID:2DgtJoOF
(中略)
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮であつても
少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、衰亡して
しまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を名目にした
家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
0312名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/25(金) 21:36:23.68ID:2DgtJoOF
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の
国際会議か何かで、三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューに
ひるがへつた。これは実に晴れがましい印象だつた。自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、
一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
0313名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/25(金) 21:37:52.77ID:2DgtJoOF
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の
感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を
鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、さういふ
中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつき
ながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
0314名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/26(土) 17:42:54.14ID:Uvh+42QR
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッと
するやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から
感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、
できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に
置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

三島由紀夫「愛国心」より
0315名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/26(土) 17:43:16.75ID:Uvh+42QR
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で
十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。もしキリスト教的な愛で
あるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、
「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、
理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。

三島由紀夫「愛国心」より
0316名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/26(土) 17:43:40.19ID:Uvh+42QR
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては変りがない、
といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の感情に
基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と日本人の
愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、この種の
陥穽を含んでゐる。
(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。

三島由紀夫「愛国心」より
0317名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/26(土) 17:43:59.25ID:Uvh+42QR
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。国は
まづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。

三島由紀夫「愛国心」より
0318名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/26(土) 17:44:24.05ID:Uvh+42QR
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。一つだけたしかなことは、
今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分を
いつはつた考へだと言へるであらう。

三島由紀夫「愛国心」より
0319名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 12:32:34.44ID:nzoObMbZ
われわれ楯の会は自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に
報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の
柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知った。ここで
流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには
一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の
場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。
たとへ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

三島由紀夫「檄」より
0320名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 12:34:36.83ID:nzoObMbZ
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。しかも法理論的には
自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、
軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。もつとも
名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。

三島由紀夫「檄」より
0321名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 12:37:49.88ID:nzoObMbZ
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは
戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。自衛隊が自ら
目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の
本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、
と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに
自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正が
もはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて
命を捨て、国軍の礎石たらんとした。

三島由紀夫「檄」より
0322名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 12:47:02.58ID:nzoObMbZ
国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて
軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは
「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を
正すといふ使命のため、われわれは少数乍(なが)ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な
警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に
何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、
敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。

三島由紀夫「檄」より
0323名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 12:51:15.56ID:nzoObMbZ
政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して
頬つかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて
実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家に
とつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。
そこで、ふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来
二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は
政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を
晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は
「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

三島由紀夫「檄」より
0324名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 12:55:09.10ID:nzoObMbZ
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が
残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、
決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも
「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、
自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれた
カナリヤのやうに黙つたままだつた。

三島由紀夫「檄」より
0325名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 13:00:20.40ID:nzoObMbZ
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に
与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の
本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。
日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。
武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当たつては
自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての
五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、
自衛隊からは出なかつた。

三島由紀夫「檄」より
0326名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/02(土) 13:03:12.93ID:nzoObMbZ
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に、戻して
そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは
生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの
愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、
今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを
熱望するあまり、この挙に出たのである。

三島由紀夫「檄」より
0327名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/07(木) 10:44:39.88ID:ImUhGjfI
Q――生、虚構(フィクション)、事実(ファクト)について。
三島:あらゆるものがニセモノ。政治も芸術も、どこかで有効性にすがりついてゐる限りフィクションだ。
事実は死だけ。存在証明の最終的なものは死だ。焼身自殺などは事実の最高。かうした日常性=フィクションに
対して、一人の芸術家が抵抗しようとする時、死しかない。事実としての死。主義(イデオロギー)なんか
問題ぢやない。

Q――現代について。
三島:(中略)知識人が守りたがつてゐたものは何か? 守るためには何かしなきやならない、ことがわかつてきた。
“守る行為”を今まで何と思つてきたか? 暴力が平和を、平和が暴力を守る時もある。暴力の等価性、それが
紛争状態で証明された。デモクラシーは、他の国へ入つて他の国の人を殺すこともできるものだ。ベトナム戦で
はじめて現実を知つたんぢやおそいのだ。日本人は絶対性を好む。相対的、簡易主義に立脚してゐるデモクラシーを
絶対化したところに誤りがある。

三島由紀夫「壮麗なる“虚構”の展開」より
0328名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/08(金) 20:18:14.98ID:7bgK+PRV
ものを書くことと農耕とは、いかによく似てゐることであらう。嵐にも霜にも、精神は一刻の油断もゆるさず、
たえず畑を見張り、詩と夢想の果てしない耕作のあげくに、どんな豊饒がもたらされるか、自ら占ふことができない。
書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ。どれだけ
烈しい夜、どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、もしその記憶が累積されてゐたら、気が狂ふに
ちがひない。……しかし、今日も亦、次の一行、次の一行と書き進めてゆくほかに、生きる道はないのだ。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 書物の河)」より


にせものの血が流れる絢爛たる舞台は、もしかすると、人生の経験よりも強い深い経験で、人々を動かし富ます
かもしれない。音楽や建築に似た戯曲といふものの抽象的論理的構造の美しさは、やはり私の心の奥底にある
「芸術の理想」の雛型であることをやめないのだ。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 舞台の河)」より
0329名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/08(金) 20:19:15.33ID:7bgK+PRV
私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのさまざまなドライヴへ私を誘ひ、今まで
見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、衰亡といふ宿命がある。私は
この宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもつとも危険な道を歩かされて
ゐるのである。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 肉体の河)」より


この河と書物の河とは正面衝突する。いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、
死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を
介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。
この河は農耕のための灌漑のやさしさも持たない。富も平和ももたらさない。安息も与へない。……ただ、
男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである。

三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 行動の河)」より
0330名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/14(木) 12:34:10.53ID:81ES1X5G
思想的立場からこの著者に偏見をもち、かういふ本をことさら避けてとほる人たちが居れば、さういふ人たちは
私には狭量に思はれる。何はあれ、宮崎氏は、道徳的善悪を離れて、自分の感じ方に忠実なのである。
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンが
あつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。日本人が
ボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的であり、
人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。

三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
0331名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/14(木) 12:37:34.04ID:81ES1X5G
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の
書くものも、一般人を納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、
動物学者の書いた狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に
映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。
私は何も礼を失して、宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に
貴重なのである。
(中略)
氏は決して異常でもなければ特殊でもない。(中略)軍隊そのものも、決して日本および日本人にとつて、
突然変異的な発生物ではなかつた。その社会的必然、経済学的必然は自明であり、兵隊のもつてゐた平均的情緒、
平均的悲哀は、日本人の内に深く根ざし、今日おもてむき軍隊をもたない日本にも、この種の感性は、依然
普遍的に潜在してゐる。

三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
0332名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/15(金) 20:14:58.36ID:xXm0o1Kd
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。だれでもみづから美徳の
代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も負はずに社会的正義の代表者たり
うるはずがないからである。
また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、
事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。

三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
0333名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/19(火) 16:49:07.43ID:g/qmgT6y
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
0334名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/19(火) 16:49:38.64ID:g/qmgT6y
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
0335名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/19(火) 16:50:04.22ID:g/qmgT6y
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生たちと論争したが、かれらは誇張した
言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では
インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、
しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。
日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、
感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、
左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、
左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。
次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
0336名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/19(火) 16:53:28.12ID:g/qmgT6y
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
0337名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/23(土) 19:03:04.83ID:VMTj4RHR
宝田明は美味そうだ。
0338名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/26(火) 14:46:24.35ID:RO7IWUD6
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、
あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。日本の政治家は少なくとも正義、
真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかったのに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に
味方をした。あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、
イギリス的な教養が彼にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。
いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。 ところが吉田茂は、
そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。

三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
0339名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/26(火) 14:47:55.07ID:RO7IWUD6
あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家が
どんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代は
もうこないでしょう。今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民はだれもが味方をしていない。あなたも、そして
僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。

三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
0340名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/26(火) 15:02:46.78ID:RO7IWUD6
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。
しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に
対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。
なぜ日本刀だけで、負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやると
いうのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたが
どっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。

三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
0341名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/26(火) 15:13:27.35ID:RO7IWUD6
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の
事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。(中略)
あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは
足りない何かが出てくる。そのときはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければ
ならなくなってくる。


言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。腕力があり、剣があって、
初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に
立たないと思う。やっぱりそのときには剣がものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、
言葉で考えてる人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。

三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
0342名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/27(水) 11:50:44.93ID:576oCG8+
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を料理するものだという考えが
抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは
抜けないね。ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうがかえって強く
持っている考えであるかもしれない。ほんとうの意味のつめたい客観性というものは持てないですよ。


日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に対する日本人独特の
感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、日本人は無意識にそれを形式的に
キャッチしようと思う。(中略)小林秀雄がフォルム、フォルムとしきりに言うけど、日本人の直感的なものだね。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
0343名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/27(水) 12:00:47.47ID:576oCG8+
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言っているわけです。
場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければならないでしょうね。天皇制の
本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党が
やっていたのは共産党がバカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。あそこで陛下の帽子を
ふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか、それをやらなかったからこそいまこういう目に
あっている。


彼らは天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持まで
できれば成功していたし、第一党になっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。
しかしもう遅い。

三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
0344名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/27(水) 12:04:14.09ID:576oCG8+
安保賛成、新憲法賛成というのは福祉の原理だよ。つまり家にテレビ置いて、マイカー置いて、ピクニックやって
安心したいという。安保反対、新憲法反対というのは民族自立の原理だ、ロジックとしては。どうしてそういう風に
ならないであんな風(安保反対、新憲法守れ)になっているのかということにを言っているのだけど、(中略)
守れ、守れだけじゃダメなんだ。一番汚らしいと思うね。大江健三郎は守れの犠牲になっていますよ。戦後を守れ、
民主主義を守れを文学でやるのは方法がまちがっている。なぜなら守るというのは剣の使命であって、言葉の
使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。(中略)
大江君も今度の「万延元年のフットボール」でも、右翼の劇団に属して渡米し、帰って来てマーケットを襲う弟に
憧れと愛情をつよく持っていますよ。大変なアフェクションだ。これは矛盾していますね。

三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より
0345名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/28(木) 04:45:46.91ID:ElPLsMZQ
宝田明が天皇陛下ならよかったなあ
0346名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/30(土) 11:02:51.57ID:I/SlWehr
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと別れるときの、あの辛さ、
ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。
しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。


市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものはそれをどうしても
やらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。


色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思いますが……。あまりあり過ぎると、女蕩(たら)しになる。
生活者になってしまうと思う。生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気の
あり方、そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
0347名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/30(土) 11:04:57.04ID:I/SlWehr
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり
市民は電気冷蔵庫のデザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、というのが市民の
修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない最後の一線でしょう。


幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。


大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。そのためには一億くらいの
条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションにならないんだ。これはある意味で幸福だな。
第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
0348名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/23(月) 10:48:42.62ID:txEd4IWA
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0349名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/23(月) 10:49:43.09ID:txEd4IWA
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0350名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/23(月) 10:50:59.21ID:txEd4IWA
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ギリギリに
しぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、必然性と
不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、ロマンティックな
構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に
向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0351名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/23(月) 10:51:44.12ID:txEd4IWA
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0352名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/23(月) 10:52:45.75ID:txEd4IWA
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。

「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0353名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/23(月) 10:55:35.86ID:txEd4IWA
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、告白も、
かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0354名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/26(木) 11:41:54.00ID:rDnBMpUn
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0355名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/26(木) 11:42:32.39ID:rDnBMpUn
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、――ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0356名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/26(木) 11:43:11.04ID:rDnBMpUn
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
0357名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/26(木) 11:45:38.95ID:rDnBMpUn
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、ほんとの能力というのは
あったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、
もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。
みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
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