◎●○三島由紀夫の名言・格言○●◎
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
三島由紀夫「天人五衰」より 人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。
三島由紀夫「天人五衰」より 目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。
しかし自分の意志にかかはりなく、夢の中で自分を強いるもの、超歴史的な、あるひは
無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにゐるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。
三島由紀夫「天人五衰」より 美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。
人間の肉体にそれが宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。
三島由紀夫「天人五衰」より 意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。
もちろん賤しいのは意志のはうだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より ……詩もなく、至福もなしに!これがもつとも大切だ。
生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知つてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より 日本で『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけの
ことなんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。
日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
三島由紀夫「天人五衰」より この世には実に千差万別な卑俗があつた。
気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、
媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、
斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。
そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より 何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。
三島由紀夫「天人五衰」より この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ
三島由紀夫「天人五衰」より 人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。
三島由紀夫「天人五衰」より この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、
さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
三島由紀夫「天人五衰」より 老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の病だといふことは、
人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な病ではなくて、
われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。
肉体の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、
滅びの証明に使はれてゐるこに他ならなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より 生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた。
三島由紀夫「天人五衰」より 僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。
僕らの肯定は諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。
――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。
なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。
一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。僕らは止められてゐる。
僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。
僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らは
たえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。
決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は
永遠である。
三島由紀夫「わが世代の革命」より 新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。
発見は「既存」の革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の
現象的相対的変化に他ならない。既存の革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。
三島由紀夫「わが世代の革命」より 我々の最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりで
その存在の可能性のみを信仰してゐることに存する
三島由紀夫「わが世代の革命」より 新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。
神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。
彼等と共に矜り高くその道を歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
三島由紀夫「わが世代の革命」より 五十歳の美女は二十歳の美女には絶対にかなはない。
美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。
三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より 手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。
三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より 個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より 私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。
それが「生きてゐる」といふことだからです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より 感傷といふものが女性的な特質のやうに考へられてゐるのは明らかに誤解である。
感傷的といふことは男性的といふことなのだ。
三島由紀夫「青の時代」より
われわれは、なかなかそれと気がつかないが、自分といちばん良く似てゐる人間なるがゆゑに、
父親を憎たらしく思ふのである。
三島由紀夫「青の時代」より 男性は本質を愛し、女性は習慣を愛する
三島由紀夫「青の時代」より
凡ゆる愛国心にはナルシスがひそんでゐるので、凡ゆる愛国心は美しい制服を必要とする
三島由紀夫「青の時代」より 戦争といふ奴は、人間の背丈を伸ばしもしなけりやあ縮めもしない
三島由紀夫「青の時代」より
男が金をほしがるのはつまり女が金をほしがるからだといふのは真理だな。
三島由紀夫「青の時代」より 近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」といふやつはもつとも人間的な幻影だ。
人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。
原始人のやうに健康に欲望を追求し、原始人のやうに生き、動き、愛し、眠るのは、
近代においては「社会」なのである。新聞の三面記事が争つて読まれるのは、
この原始人の朝な朝なの生態と消息を知らうとする欲望である。
三島由紀夫「青の時代」より 過度の軽蔑はほとんど恐怖とかはりがない。
三島由紀夫「青の時代」より
小金をもつてゐれば誰でも社長や専務になれ、女は毛皮の外套さへもつてゐればみんな
上流の奥様でとほり、世間はかうした仮装に容易に欺されることを以て一種の仮想の秩序を維持して来たのであつた。
だから演技による瞞著(まんちやく)は今の社会に対する礼法(エチケット)である。
三島由紀夫「青の時代」より 人助けは実に気持のよいものであり、殊に利潤の上る人助けと来たらたまらない。
三島由紀夫「青の時代」より
人間、正道を歩むのは却つて不安なものだ。
三島由紀夫「青の時代」より すべての人の上に厚意が落ちかゝる日があるやうに、すべての人の上に悪意が落ちかゝる日があるものだ。
三島由紀夫「青の時代」より
人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だといふ考へに達するためには、
年をとらなければならない。
三島由紀夫「青の時代」より 人間の存在の意味には、存在の意識によつて存在を亡ぼし、存在の無意識あるひは
無意味によつて存在の使命を果す一種の摂理が働らいてゐるにちがひない。
三島由紀夫「青の時代」より 高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より
苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より 不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。
三島由紀夫「道成寺」より 「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。
生れながらのけだかい白い肌の言はせる言葉だ。
三島由紀夫「朝の躑躅」より 世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。
みんなして、それがこぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より 都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に
媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。
「御人柄」などと云つて世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より 第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、
もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。
しかし弱点をそのまま強味へもつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。(中略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や
規則的な生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より 私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々
この鎖帷子が自分の肌を傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。
君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようと
してゐるところかもしれないのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より 恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。さてどつちが早く汚れるでせう。
三島由紀夫「綾の鼓」より
今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫「綾の鼓」より 悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんか要らないんです。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。
この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。
愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうがずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
三島由紀夫「鹿鳴館」より 花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。
絵描きとか文士とか、芸術といふものはみんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた
大輪の菊なのさ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
お嬢さん、教へてあげませう。
武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な道具なんですよ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より 幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる
力を持つてゐる。
三島由紀夫「スタア」より 恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに耐へてゆけますのも恋ゆゑでございます
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より 鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。
が、血の流れたときは、悲劇は終つてしまつたあとなのである。
三島由紀夫「金閣寺」より
私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。
三島由紀夫「金閣寺」より 物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。
三島由紀夫「金閣寺」より
美といふことだけを思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらず
ぶつかるのである。人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。
三島由紀夫「金閣寺」より 肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。
三島由紀夫「金閣寺」より 隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできやう。
美の立場からしても、私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、
一方の手の指で人生に触れることは不可能である。
三島由紀夫「金閣寺」より
禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち
見性だといはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の
魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。
形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほど
ありありと見、ありありと知ることができやう。
三島由紀夫「金閣寺」より
音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
三島由紀夫「金閣寺」より 形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、
この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
金閣を焼かなければならぬ。
三島由紀夫「金閣寺」より
どんな事柄も、終末の側から眺めれば、許しうるものになる。
「金閣寺」より 世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない。
世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。
三島由紀夫「金閣寺」より
認識にとつて美は決して慰藉(いしや)ではない。女であり、妻でもあるだらうが、
慰藉ではない。しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは
何ものかが生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。
世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。
三島由紀夫「金閣寺」より
美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ。
三島由紀夫「金閣寺」より 人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。
生れて来て何を最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて
不幸を幸福だと思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
…幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より 一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気が
あたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を
止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より 恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。
五なら五、六なら六だけ生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、
函数なんです。
三島由紀夫「夜の向日葵」より あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より もしあたくしが豚だつたら、真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。
でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしぢゆう思つてゐることは、豚が時たま
自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より 正しい狂気といふものがあるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より 青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい
三島由紀夫「青年像」より 巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ
三島由紀夫「原田・メデル戦」より こんなにがんばって考えて考えていた
三島由紀夫氏は
どうして切腹?ハラキリィーをしたんだお
全然意味不わかんないお;; いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、
これこそ、ジャーナリズムのいはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より 私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を
調味料で除去すれば、うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、
さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉はうまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を
固めたのである。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より 極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、
現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。
三島由紀夫「盗賊」より
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。
と同時に真の偽善者も亦、女の中にこれを見出だすのはむつかしい。
女は自分以外のものにはなれないのである。といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。
宗教が女性を収攬しやすい理由は茲(ここ)にある。
三島由紀夫「盗賊」より 女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である
三島由紀夫「盗賊」より
嫉妬こそ生きる力だ。
だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて嫉妬することを
知らない人が往々ある。
彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、もつと微妙で高尚な、それだけ、
はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。
三島由紀夫「盗賊」より 死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。
三島由紀夫「盗賊」より
たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された行為であつても、
それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、自殺とは錬金術のやうに、
生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)なのぞみであらうか。
かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。われわれの科学は
まだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすこともできないわけだ。
生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて三週間醗酵させれば
鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。
三島由紀夫「盗賊」より 人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。
生を選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。
三島由紀夫「盗賊」より
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。
――生きてゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。
三島由紀夫「盗賊」より 死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。
三島由紀夫「盗賊」より
何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。
三島由紀夫「盗賊」より 決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。
生への媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。
丁度眠りをとらぬこと七日に及べば死が訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と
生の意識とは早晩人を死へ送り込まずには措かぬものだらうか。
三島由紀夫「盗賊」より
莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。
三島由紀夫「盗賊」より 私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは
縁の切れない、さういふ中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の
若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、
おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。
三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より 日本人本来の精神構造の中においては、エロース(愛)とアガペー(神の愛)は一直線に
つながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、
それは主君に対する忠と何ら変はりない。
三島由紀夫「葉隠入門」より
男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。
武士道の世界は、一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な
人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。
三島由紀夫「葉隠入門」より 忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら
湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、
人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。
三島由紀夫「葉隠入門」より
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。
三島由紀夫「葉隠入門」より 長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、
時期はかならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。
そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために
準備することではあるまいか。
三島由紀夫「葉隠入門」より
「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。
三島由紀夫「葉隠入門」より エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。
自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、人の言行などはもはや
問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。
そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。
三島由紀夫「葉隠入門」より
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない
わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より 今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐる
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
不退転の決意とは何か?すなはち、国民自らが一朝あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を
守る決意であり、自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より 妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。
時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になつて、
今日まで規則正しくつづいてゐる。
三島由紀夫「朝顔」より われらの死後も朝な朝な東方から日が昇つて、われらの知悉してゐる世界を照らすといふ確信は、
幸福な確信である。しかしそれを確実だと信じる理由がわれわれにあるのか?
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
認識の中にぬくぬくと坐つてゐる人たちは、いつも認識によつて世界を所有し、世界を
確信してゐる。しかし芸術家は見なければならぬ。認識する代りに、ただ、見なければならぬ。
一度見てしまつたが最後、存在の不確かさは彼を囲繞(いによう)するのだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より 僕は生れてからただの一度も退屈したことがないんだ。それだけが僕の猛烈な幸運なんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
自分の名前は他人の所有物だ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より 言葉によつて表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものぢやない。
僕はその瞬間に、他人とその思想を共有してゐるんだからね。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
個性といふものは決して存在しないんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より 肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を節約したんだ。
自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの玩具さ。
……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕(おどろ)かせたのは、
肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た
希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる
僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より 生命は指で触れるもんぢやない。生命は生命で触れるものだ。
丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出とよく似てゐる。
事前の欲望を辿ることはもうできない代りに、その欲望は微妙に変質してまた目前にあるので、
思ひ出の行為があたかも遡りうるやうな錯覚を与へる。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで
ゐるべきなのだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より 戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。
他人らしい清潔な表情をしてゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より 何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。それがなくては、人は明日のはうへ
生き延びることができない。明日にのこつてゐる繕ひものとか、明日立つことになつてゐる
旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎ののこりの僅かな酒とか、さういふものを
人は明日のために喜捨する。そして夜明けを迎へることを許される。
三島由紀夫「愛の渇き」より われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事ができるものではない。
三島由紀夫「愛の渇き」より 生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて
軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。
それは背中から刺された匕首(あいくち)だ。
三島由紀夫「愛の渇き」より 人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしない
といふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。
三島由紀夫「愛の渇き」より
この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される。
三島由紀夫「愛の渇き」より ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。
人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平。
三島由紀夫「愛の渇き」より 生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。
わたしたちが生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を
人並に容易にするために役立つてゐる能力なのだ。なぜといつて、この能力がなかつたら、
わたしたちにとつての生は、困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない
真空の球になつてしまふ。
この能力は生がさう見られることを遮(さまた)げる能力であり、生が決してそんな風に
見えては来ない容易な人種の、あづかり知らぬ能力であるとはいへ、それは何ら格別な
能力ではなく、ただの日常必需品にすぎないのだ。
人生の秤をごまかして、必要以上に重く見せた人は、地獄で罰を受ける。
そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに意識されない重みであつて、
外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より 下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間に
おそらく人は普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度
忘却の底に横たはつたのちも、折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき
豊饒さを、再びわれわれに向つて暗示するのである。
三島由紀夫「愛の渇き」より あまりに永い苦悩は人を愚かにする。
苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を疑ふことができない。
三島由紀夫「愛の渇き」より
嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に
近づくのである。
三島由紀夫「愛の渇き」より 衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが
この世にあらうか。
三島由紀夫「愛の渇き」より 女といふものは、自分を莫迦だと知る瞬間に、それがわかるくらい自分は利巧な女だといふ
循環論法に陥るのですね。
三島由紀夫「魔群の通過」より
下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを好むものである。
三島由紀夫「魔群の通過」より