◎●○三島由紀夫の名言・格言○●◎
男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで
考へられてゐる男とは、何か青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。
男らしさを企図する人間には、必ずファリック・ナルシシズムがある。
「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が
必要なのである。
真に独創的な英雄といふものは存在しない。
あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。
三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より
私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した
童話集なのかもしれない。目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは
大人の童話だからだ。
三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より 文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、
この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。
古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読みなくなる危険がある。
三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」
古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけ
マイナスになつてゐるか。又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、
今日、日ましに明らかになりつつある事実である。
三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より
文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。
文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ
引きずりこむだけの力を備へてゐるかどうかによつて測られる。
三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より 旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、
ほぼ百分の一、千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。
私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、
人間は抽象化される要素を持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて
私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を
拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、
私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。
小説の制作の過程では、細部が、それまで眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、
それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、構成を最初に立てることは、
一種の気休めにすぎない。
三島由紀夫「わが創作方法」より 人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための
親切な入門書と思つて読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。
作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、無知、増上慢、などに対する
限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。
三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より
自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。
三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より
いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから二流品である。
われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、それから
受ける快楽を保つ方法を知らないのである。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より 大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には
親しみを抱く傾きがある。
三島由紀夫「明治と官僚」より
日本人は、改革の情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。
三島由紀夫「幸せな革命」より
小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも
偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる。
三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より
日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが
最高無上の価値だ」といふ、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。
小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。
三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」(昭和38年)より 猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、
人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが
あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、
われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、
生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、
ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない
猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。
三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より
若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、
日本人しか、真に味はふことのできぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。
三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より この世は巨大な火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、
現代はどうもそればかりではないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げて
しまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風ばかりである。
幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の
有難味がわかる一方、生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さも
わかるのである。
健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の
運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と
神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる傲慢、……これらのものは、ヒロポンも
阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない奇怪な症状である。
三島由紀夫「最近の川端さん」より ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの
四角の空間に、一つの集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつも
こんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。世界を、こんがらかつた複雑怪奇な
場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の行動家が登場する。
そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、
疑ひやうのない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な
人間とは本来かういふものではないか、と思はせるだけの輝きがある。
三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より
狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が
狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。
三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より 僕は空を飛ぶのに、思想と肉体と両方で飛びたかつたんだ。
足さへ折らなけりや、今ごろは派手な海軍将校さ。……自爆さ……ドドーン、キュウ……
特攻精神の権化になつてるよ、今ごろは。特攻隊といふもの、あれがわれわれの唯一の
青春なんだからな。……今の時代でいちばんアルトハイデルベルヒ的な青春は特攻隊にしか
ないんだからな。……これはまあ、俺も承認する事実だよ。時代の宿命みたいなものだもの。
どうして飛行機を作るより、飛行機に乗りたいとばかり思ふんだらう。弾丸の中をくぐる生活、
それしか安全な生活はないやうな気が僕はするんだ。かうしてただ何かを待つてゐるほど、
危険なことはないやうな気がするんだ。
動いてゐない人間の顔つて、何て醜いんだらう。動いてゐない水のおもてとおんなじなんだ。
頑固で、貧しくて、固くて。
人間、憎しみといふ感情を忘れてゐるときほど、素直になれることはない。
三島由紀夫「魔神礼拝」より 共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。
君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。
理想に殉ずるといふことは美しいことだ。
人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。
がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫「魔神礼拝」より 一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、
失礼な話だ。
芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。
われわれ小説家の著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小に
かかはらず、われわれの本は、われわれの仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に
流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめてわれわれの仕事も実を
結ぶのである。
芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。
三島由紀夫「私がハッスルする時――『喜びの琴』上演に感じる責任」より
芝居はとにかく芝居なのであつて、それ以下のものでも、それ以上のものでもない。
芝居を「しばや」と発音するほどの年齢の人にも、楽しんでもらへるのが芝居といふものだ。
三島由紀夫「三島さんと『喜びの琴』」より 旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。
旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、
観念的な準備が要るのであつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、
はじめて風景は完全になる。
ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。
苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。
観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒に
してしまふ大都市の周辺は、私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。
いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、それがみな食料品に隙間なく
たかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。
三島由紀夫「熊野路――新日本名所案内」より 「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1221494175/ 東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で
星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々に
おくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に
映る星の光など見てくれません。たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんで
くれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの
思ひを、あきらめて棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を
云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が
云へる境地に、一体達することができるかしら、とたへず不安に見舞はれます。
――たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より 「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される
文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――
小説のなかで存分に演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、
さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に僕は耐へられません。僕にはわづかながら
遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。僕の文学は、腹を狼に
喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その少年の
莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は
生命を賭けます。僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければ
ならなかつた喜劇俳優が、その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。逃避でせうか。自嘲でせうか。
僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。彼は
悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねば
ならなかつたのです。
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。
「戯作」と云つても同じことでございませう。
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
三島由紀夫
昭和22年11月26日、林房雄への書簡より 「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。
人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ
生れるわけではない。行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。
三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より
異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、
世界文学の中にも、二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、
さういふ文学は普遍的な名声を得ることはできないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ
愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。
学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか
備はつてゐないことが多い。
正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。
三島由紀夫「夢と人生」より 日本人は何と言つても和服を着た姿が、一等立派で一等美しい。女も男もさうである。
三島由紀夫「『恋の帆影』について」より
現在は死灰に化してゐる。「希望は過去にしかない」のである。
三島由紀夫「あとがき(『三熊野詣』)」より
男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の
女性化とは、男性の自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようと
することを意味します。
三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より
不感症は、戦後の性知識の過度の普及に対する、皮肉な反撃のやうに思はれる。
不感症は凝つた性的技巧などで癒されるものではなく、何か「自然の発露」といふやうな形で、
人間のもつとも柔軟な心の再発見といふやうな形で、癒されてゐる。
三島由紀夫「真実の教訓――選評」より 相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。
それがわかつて幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた
気持は残る。
三島由紀夫「愛(エロス)のすがた――愛を語る」より
憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、
といふのは、言葉の矛盾のやうに思はれる。
三島由紀夫「わが青春の書――ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より
フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人は
ドイツに対する愛好心を貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に
精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が生き永らへてゐて、彼の親独主義は、
別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。
三島由紀夫「ジークフリート管見――ジロオドウの世界」より 万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこの
スピードと快さと自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、
詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で人間を見てゐるのである。
三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より
時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。
三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より
本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的
タブーを犯さぬのであつて、サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。
これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・
ランボオ唯一人だが、われわれが言語を一つの影像として定着するときに、われわれは
すでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。
三島由紀夫「現代文学の三方向」より ものごとの表面ほど、多く語るものはない。
不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。
三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より
美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す
不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、
子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて
育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。
三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より 僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。
幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫「灯台」より
太七:船軍で攻められては
源五:たちまち雑魚の佃煮で
弥三:茶漬にして喰はるるまで
岩次:胃の腑の地獄の三丁目
玉市:鱗で涙が
一同:拭かれうか。
人は最期の一念によつて生(しやう)を引く。ふたたび波の越えざる隙に、とくとく
追ひつき奉らん。
三島由紀夫「椿説弓張月」より 緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の
緊張の連続であつて、豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活で
あることは言ふまでもない。
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
三島由紀夫「秋冬随筆」より 若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。
デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。
喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。
人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。
日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。きんたまの
ない男をインテリといふんだよ。きんたまがあつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫「若人よ蘇れ」より ・東京オリンピックの開会式は昭和39年10月10日
日本中が沸き立った民族の祭 典だった。中国はこれをボイコットし
その開会式の6日後に中国初の原爆実験を行った
・中国は昔から日本女子バレーの練習場にコンクリのコートをあてがっていた
・ 北京オリンピックでバドミントンの小椋久美子、潮田玲子組が中国ペアと
対戦した際、中国選手がスマッシュを打つたびに、会場全体で
「シャーッ!「殺せ!」という掛け声を浴びせられた。
潮田は帰り際に内容を聞いて
「怖いです。怖いです」と何度も口にして震えていた。
平和の祭典の筈なのに、一糸乱れぬ殺せコール。 ある中国人によると
支那の公開銃殺で見物人が「殺!殺!」と騒ぐ、あのノリと全く同じだったらしい。
・北京オリンピック女子サッカーなでしこジャパン対アメリカ戦
すでに中国戦は終わっているはずなのにわざわざ会場を中国人が埋め尽くし
アメリカが日本に同点に追いつくと、スタジアムは大歓声
映像にはアメリカ人の周囲の中国人観客も喜んでいるシーンが何度も流された。
一方日本の選手がアメリカゴールへ突進すると
スタジアム内がまるで地鳴りのような猛烈なブーイング。
・北京オリンピック男子400メートルリレー、始まる前は
ジャーヨ!ジャーヨ!(加油、ガンバレ)の大合唱
レースが終わり銅メダルを獲得した日本の選手が
トラックで日の丸を羽織ったとたんに
シャーゴ!シャーゴ!(犬を殺せ、日本人を殺せ)の大合唱が始まった。
学校とか2chでも
タヒタヒいわれてんねんけど?
別に他国じゃないですお?orz 人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけでは
すぐ枯渇してしまふ、ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅を
もたらす危険を内包してゐる。
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり
文化財となる。それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら
焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げて
しまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な
傑作になる機会を逸してしまふといふことである。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より 愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては
「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛に
お株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な
目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしば
あるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を
逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、
日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた
考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より ひとりひとりの胸にそんなにまで切ない憧れをのこして行つたかなしみは、その哀しみのゆゑに
はるかな、たとしへもなく美しい悔いを悼歌のやうにかなでた。だれが悔いる責を負ふ人で
あつたらう。さうした悔いのなかには、ねぎごとに似たふしぎな美しさが聳えだしたと、
そんな風に人はだれにむかつて云はう――。
三島由紀夫「世々に残さん」より
年齢はいつも橋であると同時にそれの架る谷間でもある。昔の彼は谷底を見ずに飛越す。
今のエスガイは飛越さうとする時に谷底を見る。しかし可能性の限局ではないのだ。
エスガイは可能性の輪のなかへ入つたのだ。はじめて彼は可能性を己が所有とした。
昔の彼であつたなら、それを彼が、可能性の虜になつてゐる。としか信ぜぬやうな仕方で、
エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないのか。
三島由紀夫「エスガイの狩」より 接吻をしようと決心した男が、恋文ひとつ書く勇気もないといふことほど滑稽な矛盾が
あらうかしら。事実僕は、小説を読んでも、一人の蕩児が手れん手くだを用ひて遂に女を
ものにする筋より、夢のやうな衝動に襲われた女が見も知らぬ男の頸にすがりつくやうな
場面の方に惹かれがちな年頃であつた。
小説の主人公は一度はかならずさういふ女にめぐりあつて仮の契を結ぶ。しかし実際の
人生で、男がまづめぐりあふ女は、そんな女であることは滅多にないのだ。若い女は
自分の清純をこそねがへ、相手の男の清純をそれほどねがひはしない。これは当然でもあり、
矛盾でもある。
三島由紀夫「恋と別離と」より
お嬢さん方、詩人とお附き合ひなさい。何故つて詩人ほど安全な人種はありませんから。
三島由紀夫「接吻」より
「彼女の死を選択したことは、よく考へてみると、俺自身の死を選択したことでもあつたのだ。
人生よ、さらば!」
――つまりこれが失恋自殺といふ奴である。
三島由紀夫「哲学」より 抑々(そもそも)人間性の底には或るどうにもならない清純さが存在するのであります。
古代人がこれについて深く思ひを致したならば恐らく神性と名付けるでありませう。
かゝる清純さは、本能的なもの無意志的なものと固く結びついてをるのでありまして、
或る時は社会的拘束の凡て、――就中(なかんづく)道徳的準縄の凡てをも、やすやすと
超越し逸脱し得るやうに考へらるゝのであります。さればこそそれは恒常の人間生活の
評価の前に立つ時、殆んど清純と反対の評語――邪悪、破廉恥、厚顔、淫乱、等の汚名をば
浴びせらるゝことを寡(すくな)しとしませぬ。
実に純粋とは、青春の苦役でもあるのであります。
三島由紀夫「贋ドン・ファン記」より われらが一ト度幸福のなかへ入ると、何をしようと幸福の方でわれらを捕へて放さぬやうに
みえる。しかしわれらの意識せぬ別の力が、いつのまにかわれらを幸福から放逐して
くれるのである。
花には心がある。万象の心の中でも人の心に最も触れやすい心は之である。人が花を
愛づる時、花がなぜその愛に応へ得ぬことがあらう。花の愛は人に愛の誠を教へた。
女には婦徳を、男には平和を。光源氏が世にありし頃、女はなほ花と分ちがたい名を
持ち心を持つてゐた。恋歌は花をうたふ風体の上乗なるものであつた。しかも四時の花は
天候や季節に左右されることなく、極寒の梅も手に触るればあたゝかに、大暑の百合も
人の心に涼風を通はす。
三島由紀夫「菖蒲前」より 否、所謂(いはゆる)花の心は花にもなく人にもない。花を見、且つは触れ、且つは
そを愛でて歌詠む時、人の魂はあくがれ出で花のなかへはひつてゆく。花へはひつた人の心は
水に映れる月のやうに、漣が来れば砕けるが月が傾けば影も傾く。その間に目に見えぬ
糸があり、月と潮の満干のやうな黙契があると思ふのは、誤ち抱いた妄想にすぎぬ。
人の心が人の心のまゝになることに何の不思議があらう。鏡の影が像の儘(まま)に
動くとてなど怪しむことやある。花の心は人の心の分身である。人の心が立去るとき
花にも心は失はれる。
苦しみをはじめて得た人はなほその苦しみを味方に引入れて共に住むことを知らない。
その敵たらんと好んで力(つと)め、苦しみは益々耐へがたいものになる。
三島由紀夫「菖蒲前」より 占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。
しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で淫蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。
伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。
神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より 私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。
日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。
僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」 エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫「女は占領されない」より
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。
自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より 過ちといふものは、美しいものが期待に反して犯す醜行のことである。
美貌といふものは、停車場や博物館と同様に共有物であり公的な存在なのである。それを
私することは公的の福祉に反することであり、停車場を買ひ占めようとするやうなものである。
各界の名士といふ人種が一堂に会する眺めは、一種奇怪である。彼らは要するに、
カメラマンに「自然な姿態」をとられるのに馴れた人種であるから、その言はうやうない
「自然な」態度には、どうすれば見物人から餌をもらへるかをよく知つてゐる動物園の
熊に似た超然ぶりが見られるのである。見物人を意識してゐない動物が、一匹でも動物園に
ゐたらお目にかかりたい。
名士は大抵「殿下」とか「閣下」とか「先生」とかいふ源氏名のついた娼婦であつて、
莫迦に忙しい口ぶりの男は二流であり、莫迦にゆつくりした喋り方をする男は一流である。
彼らは日常の多忙のために生理的な速度に変調を来して、道を歩くやうな歩度の喋り方は
出来なくなつてゐるので、彼らのお喋りは、自動車に乗つてゐるか、それとも興に乗つて
ゐるかどちらかであつた。
三島由紀夫「家庭裁判」より 美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。
良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。
三島由紀夫「家庭裁判」より
久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。
三島由紀夫「鴛鴦」より
不道徳も清潔な限り美しいものである。
三島由紀夫「修学旅行」より よその女の美貌に同意する義務は、どこの奥さんにだつてない筈だ。
コンパスで描いたやうに丸い。口があどけなくて、目は清らかである。悪いことを何にも
知らないやうなかういふ顔ほど、男の目から見て神秘的に見えるものはない。
三島由紀夫「金魚と奥様」より
一度男の目が決して自分を見ないと決めてしまつてから、人生はどんなに生き易くなつた
ことだらう! 彼女は男の教授にでも、づけづけとものを言ふ。相手に彼女の「性」を
感じさせないのをむしろエチケットと思つてゐるからで、世間が考へるやうに、老嬢は
必ずしもわれしらず中性化してゐるのではない。
三島由紀夫「二人の老嬢」より この世界には何かが欠けてゐる。たとしへなく大きなもので、しかも目に見えないものが
欠けてゐる。根本的な条件が欠けてゐるのだ。
銹(さ)びた鉄の水呑場は大そう高く、小さな男の児は母親に体をもちあげてもらつて、
足を宙に浮かして水を呑まねばならない。小さなとんがらかした唇が、不安定な様子で、
小まめに吹き出てゐる水に近づく。水は外れて、鼻孔に入つてしまつた。男の児は泣き出した。
こんな重大な蹉跌には、誰だつて泣くだけの値打がある。
自動車博覧会の雑沓の只中に、誰の才覚でこんな硝子の小さな箱が設けられたのだらう。
誰の才覚で、その硝子の内側に水が注がれ、金魚が放り込まれたのだらう、無意識の善意とか、
無意識の悪意とかいふものは本当にある。さういふものが考へつくのは、いつもかうしたことだ。
三島由紀夫「博覧会」より 私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より 【眼前百事】核議論を!三島由紀夫と村田良平の遺言
http://www.youtube.com/watch?v=t-BSyjcc2no
国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかで
あるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より 左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫「反革命宣言」より 感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に
感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには
悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
三島由紀夫「アポロの杯」より 「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。
一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな
阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに
足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに
思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての
苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。
この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。
その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。
一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。
三島由紀夫「アポロの杯」より 或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。
美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは
本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。
時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな
ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。
時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、
破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも
一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には
意識せざるをえないのと同じである。
三島由紀夫「アポロの杯」より (竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。
芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。
芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の
予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、
破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである
場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を
信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、
いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を
暗示してゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「アポロの杯」より 希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、
人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。
真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず
不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、
これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた
ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。
彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が
われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、
われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から
はじめることができる。
三島由紀夫「アポロの杯」より 日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは
天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。
ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、
沖を見ていたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが
変わり者だという評判がたちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、
本当に。景色を見るやつは、もうすでにアウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。
世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。
現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が
全然ないだろう。威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。
伝達することによって、何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、
統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるよりほかないじゃあないですか。
明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、
工業化が進展して、社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことが
おこってそして巨大な力で動かされているんだけれども、各人がバラバラになって、
伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを統合するには空白のもの
しかない。絶対に断絶しかない。
…祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって
動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より ディズニークリスマスソング
あたちは↑の方が魂が目覚めりゅ†;;† 昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、
時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に
携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれの
とるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に
抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、
支持を表明する者である。
われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、
ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、
すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。
三島由紀夫「文化大革命に関する声明」昭和42年3月1日
(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房) ぼくが否応なしに中国問題というものにとらわれたのは、文学座なんかにいたからですね。
中国に行ったりする俳優がいてね、中国を天国のように言う。そして、それを人に強制する。
その人たちは現実に何を通して中国を知ったかというと、自分たちを接待してくれた人、
そして案内してくれた人を通じてなんですね。それがこういう状態になると、自分が
世話になった文化関係の人がひどい目にあってもこんどは知らん顔。わたしのほうは
毛派だからという顔をする。それが腹が立ってたまらないということがあるわけです。
いまひとつの問題は、この五、六年、それを考えてきたんですが、もしもう一度戦時中の
言論統制の時代がきたらどうするかということなんです。(中略)そういう事態にどう
対処するかということですね。やっぱり文学はお国の役に立たないんだということを
はっきりさせておかなきゃ非常に危険だと思うんです。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より 政治家には、腹を切るつもりなんか毛頭ない。そして芸術家のほうは、半分、実みたいな
気持になっちゃった。戦後はことにそうです。
それと、例の言論統制がきた場合にどうするか。ぼく自身の覚悟をいえば、ぼくは虚の
芸術家である。虚をもって、河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つ
わけはないし、ぼくがたとい自発的(スポンティニアス)に国粋主義的な小説を書いたって、
それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが自然にわき起って書いているんだから
人がどう思おうと知ったこっちゃない。
しかし、それは虚にすぎない。それじゃ、虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。
それはぼくはインターナショナリストじゃないから、どこにも亡命できると思わないし、
日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒にぼくは死ねるか
ということを考え出したんですね。ぼくは死ぬためには虚でありたくないんですよ。
どうしても、死ぬためには実でありたいんです。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より ぼくはひょっとすると芸術至上主義者なのかもしれないと思うのは、どうしても虚を
信じたいから、実のほうに頭がいっちゃうんですよ。何とかして虚を信じたいと思えば
思うほど、虚をしっかり把握するためにはどうしても実がほしい。そうすると剣ということに
なっちゃう。いま石川さんのおっしゃった、わたしは言葉を信じない、文学を信じないと
おっしゃった気持は、ぼくは痛切にわかるな。
…つまり虚を信じないということが、虚に生きる唯一の道かもしれないんですよ。
(中略)
文字を墨で書く場合、紙に墨がぽとっと一滴落ちた瞬間に、文学表現が成り立つでしょう。
それが十部刷ろうが百部刷ろうが、別の問題ですね。だけど、文学というものは、その一滴の
墨のあとから、千部刷る、一万部刷るということになっちゃったらもうおしまいだと思うんです。
…言語というのは言霊だよ。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より 空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より 創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。
三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より
そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。
三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より 作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。
三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より
私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。
三島由紀夫「黛氏のこと」より
あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。
死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。
三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より
芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。
人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。
三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より 一体文学的生活とは、伝統的に、孤独と閑暇の産物である。孤独も閑暇もないところに文学的交遊がある筈もなく、
いはゆる文学バアにおける文士の交歓なども、今ではビジネスマンのくつろぎと大差ない。
仕事の時間は要するに厳密に仕事をする時間であり「文学的」でも何でもない。これはいはば、パリの流行の
服を着るアメリカの金持女性が「流行的」であるのと、その流行を作るパリのデザイナー自身は、かくべつ
流行的でないのとの関係に似たものだ。私に終局的に必要なのは文学であつて「文学的」な事柄ではない。
三島由紀夫「わが非文学的生活」より たえず自己から遁走しようとする傾向は、少年のものだ。自分といふものを密室の中へとぢこめておいて、
そこから不断に遁走しようとする傾向は少年のものだ。青年は自分と一緒に放浪するものである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より 現代少年は、ただ抽象的な青春の論理によつて傷つき、滅亡するといふ悲劇しか知らず、かくて自分の内在的な
論理に飽きるときには、外からの具体的な滅亡の力を夢みる。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より 戦争中の少年たちが「聖戦」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出したやうに、現代の少年たちは、これと逆な
操作を辿つて、「悪」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出す。悪とは、青春そのものの構造の、どうのがれ
やうもない退屈な論理性から、少年たちを解放する力なのである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より 俺が嫌いなのは三島ではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきの三島に託し、三島が頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない
復興には時間がかかる。ところが、復興といふ奴が、又日本人の十八番なのである。どうも日本人は、改革の
情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。その点でも私は安心してゐる。
三島由紀夫「幸せな革命」より 浮世は「幻の栖(すみか)」にすぎず、自分の肉体は過客にすぎぬ。
三島由紀夫「久保田万太郎氏を悼む」より スライド動画 青黒い格言
「青黒いとはガキの青さと大人の黒さを足して2で割ったようなどっちつかずな微妙な色あいのこと」
http://www.youtube.com/watch?v=_r0LKZQaYbo
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
相談者『(憤然として)読んでますよ』
美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
相談者『秋元康とか』
美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
相談者『?』
いくらお金を費つても費つても、貧しい気分にしかならないたいへんな時代が、現代といふものである。
三島由紀夫「鳳凰台上鳳凰遊ぶ」より
武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死を
よけたときには、もはや武士ではなくなるのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的といふ思想もあれば、又、一番たちのわるいのに、まじめで
非良心的といふ思想もある。
三島由紀夫「あとがき(『行動学入門』)」より @kaneda_daiki
金田大貴
高岡は三島由紀夫が好きなようだが、切腹して死んだホモの右翼作家に心酔するのはバカのすることだ。
女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。
三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を…なんでしたっけ?
誰か知ってる人 >>784
つ>>527
腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。
三島由紀夫「卵」より >>782
ゴミ未満の歴史文化社会しか作れなかった何の取り柄もない屑民族と友好を結びたがるのよりは遙かにましだろう。 青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。
三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。
三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれを殺すところに発展がある。
三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より 義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。
三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より サン・サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして
有名になりたいものだと思つてゐる。
三島由紀夫「『人斬り』出演の記」より ばあちゃんの予言分析スレ40
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/occult/1314831059/524
524 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 22:28:16.44 ID:o6ONNNyR0
>>505
防衛戦争だったんだよね
そして強制連行じゃ無く不法入国された被害者は日本人
今現在も在特で韓国人から金巻き上げられてる
韓国人は世界で嫌われてるし嘘つきですぐ被害者ズラするけど
お人よしの日本人は一番騙されやすいんだよね
日本人は韓国人中国人に対しては情を捨てて対応するのがベストだ
ある人物と決定的な出会をして、それから終生離れられなくなるずつと以前に、むかうもこちらに気づかず、
こちらもほとんど無意識な状態で、その大切な人物にどこかでちらと出会つてゐることがあるものだ。私と太陽との
出会もさうであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より そのために我々の総監を傷つけたのはどういうわけだ・・・・・・・・・・・抵抗したからだ・・・・・・・・抵抗とは何だ 男一匹が命を賭けて諸君に訴えてるんだぞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・