◎●○三島由紀夫の名言・格言○●◎
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、
老年の智恵に青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の
置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に直面して、そこから
何ものかを掘り出して来ること以外にはない。
青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかない。
三島由紀夫「空白の役割」
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄や
お茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、
それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。
そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より 女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より 一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より (「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。
人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より 男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。
私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より 左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは
世間一般の言葉に飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と
切り離せぬ関係を持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもない
ニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。
暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で
売られてゐる雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかに
いたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに
興じたりしてゐるかがわかるだらう。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より 文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬ
ヨタ話を書きちらし、一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的
社会観を養つて、日本再建をマイナスすることばかり狂奔してゐる。
若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語が
あるものか)だの、「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしい
お題目は、私にいはせれば悉く文士の不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。
三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、
わざとらしくなりがちだ。
三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、
人の心を苛むものがどこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を
とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、
ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。
それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より
その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より 私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を
大きらひだといふ奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、
だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
三島由紀夫「私の顔」
恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。
三島由紀夫「『恥』」より
映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を
持つてゐる。それが無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、
大人の中にもあり子供の中にもある冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な
環境がなければならない。
私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あのホーム・ドラマといふ代物である。
三島由紀夫「荒唐無稽」より 役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。
美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。
三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より
怒りを知らなかつたといふことは、言ひかへれば、無力感にとらはれなかつた、といふ
ことでもある。
動機のない犯罪にだけ、本当の宿命的な動機がある。
三島由紀夫「大谷崎」より
氏は人生に対して強烈な否定的な思想のうちに生きたことがないとつねに語つてゐる。
もしそれを信じれば、強烈な肯定的な思想のうちにも生きたことのない筈の氏である。
三島由紀夫「川端康成――百人百説」より われわれが、お互ひにどんなに共感し共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、
われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに没してしまつて、あたかも存在しないかの
やうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と主張してゐる不公平な
ものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、
目に見えるままの素面を信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、
そこにしかないからだ。
三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より 道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。
しつかりした共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ
共通の判断で、あれを善い、これを悪い、あれは正しい、これは正しくない、といふ。
それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を与へるから「美しい」行為と
いはれるものは、直ちに善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャのやうな
至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と道徳的感覚は一つものになるであらう。
日本も敗戦によつて古い神をうしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、
覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、神が支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふ
そのことではないのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。
かういふ方法で政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきた
ことを意味する。我々は今日、自分のモラルの感覚を云々することはたやすいが、
どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、明言することは
だれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に
従ひがちになるのである。
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて
来てをり、もしモラルの感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に
抗して、芸術家が己れの感覚の誠実をうしなはないことが大切になるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。
しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。
決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、
個々人の死の分量は同じなのである。
自分の死の分量を明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。
まづ個人が復活しなければならないのだ。
三島由紀夫「死の分量」より
ガスを引き、タイル張りのガス風呂を置けば、思想の一角は崩れ、あらゆる妥協が、
精神生活をも犯さずにはゐないといふことを、われわれは忘れてゐる。
…電気洗濯機を置いた禅寺とは、もはや禅寺ではないのだ。
すべての禅寺に電気洗濯機をそなへるやうになれば、禅といふものは死滅する。
三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より 大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない
反感を感じたおぼえがある。たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、
反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、戦死した彼らのかたはらには、
ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンがあつた。
甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、
祖国のために死んだはうが論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死を
ジャスティファイする権利をもつてゐる。
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、
死んでゆける人間は、稀に見る聖人にちがひない。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より 知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。
芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。
ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より 立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて
組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を
積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ
満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は
芸術家ぢやないと思はれる。
最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の
木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな
積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。
三島由紀夫「わが魅せられたるも」より 日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは
後退的であると思ひ込んでゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。
又、進歩主義者の民族主義が、目前の政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を
与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この民族主義は東南アジアでは
怖るべき力になる。
資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、
必ず政策の成功があり、政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。
三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より
今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。
どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、
美を作り、その美が多くの眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。
幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に
背致したものが生れる。
三島由紀夫「美に逆らふもの」より
男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。
動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。
三島由紀夫「篠山紀信論」より 風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。
三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より
母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。
三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より
現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり
家にだつてラジオの一台は必要だといふことはありうる。
三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より
日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮
できないものであらうか。ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。
三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、
喜劇の部類に入らぬ。
三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より
怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、
早く印象が薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。
三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より 作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ。
一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示であるならば、
それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは
文体とはいへない。
三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」より
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。
三島由紀夫「文字通り“欣快”」より
画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら
外国の一流の作家の模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作が
ズラリと並んでゐてほしい。
運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、
少なくとも初歩的な段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものに
ならないのである。
三島由紀夫「学習院大学の文学」より 芸術とは物言はぬものをして物言はしめる腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは
比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はしておけばよい。
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を
知ることはまた一瞬の裡にその女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』」より
神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。
それを越えうるものは信仰だけである。
三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より
芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、
その生活までも芸術に引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。
三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。
三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より 歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。
そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。
三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より
オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに
詩と死は同じ仮名である。
三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より
恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも
恋は青春の感情と考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。
三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の
心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら
似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より 清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい
負ひ目として現はれるのでなければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが
私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人といふものには、私は頭から信用が
置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、そのために
苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。
古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。
かれらは人間生活をよりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのでは
なかつた。死に関する知識、暗黒の血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来
地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、一定の智者がそれを
統括して、管理してゐなければならなかつた。
三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より (神輿の)リズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、
ふしぎなことに、それはむしろ後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を
行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、一そう盲目である。神輿の逆説は
そこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、秩序に
近いものほど意識からは遠いのである。
神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声の
リズムとの間の違和感を感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合されなければ、
生命は出現しないのである。そして結合は必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。
懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの陶酔を保証するのだ。
肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。
三島由紀夫「陶酔について」より 人を脅かして、人のおどろく顔を見るといふたのしみは、たのしみの極致を行くものである。
小説家は厳密に言ふと、認識者ではなく表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。
認識にとつて歓喜ほど始末に負へぬ敵はない。
人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。
行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、
宿命のそそのかしによるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。
人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは役にも立たない。
三島由紀夫「裸体と衣装」より 批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、
いつまでもつきまとふことは避けられない。この世には理想主義的知性などといふものは
ないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。
そして批評的知性には、本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないものであるが、
批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、営々孜々として破壊作業に従事するか、
それとも対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。
言葉の本質がディオニュソス的なら、文章の本質はアポロン的、といふ具合に、言葉は
私にとつてはひどく肉体的な、血や精液に充ちたものだ。
三島由紀夫「裸体と衣装」より 詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものと
あまりに似てゐないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の
衣装にすぎないが、同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされた
われわれは、衣装と本体とを同一視するのである。
トチリとか失敗とかは正に神秘的なもので、人間の努力の及ぶところではない。
外人がわれわれの国の踊りなり芝居なり美術品なりのイカモノに感心しようとしてゐるとき、
「あれはニセモノだよ」と冷水を浴びせてやるくらゐ愉快なことはない。
三島由紀夫「裸体と衣装」より 子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この子供たちこそ世界を所有してゐるので、
世界旅行は世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも人生をなしくづしに
喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。
君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも決まつて恐怖の顔で
あるといふことは、何といふ不幸であらう。
ニヒリズムといふ精神状況は、本質的にエモーショナルなものを含んでゐる。
三島由紀夫「裸体と衣装」より
よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、
「薇」といふ字はその葉つぱみたいに見えるではないか。
三島由紀夫「薔薇と海賊について」より 花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の
着物がはやりだすと戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。…かうした慣習や迷信は、
女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、
洋服の形の変遷も馬鹿にはできない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いて
ゐるかもしれないのである。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会」より
知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し
肉化する力を失ふのである。
三島由紀夫「ボクシングと小説」より
知己は意外なところに居るものであります。
三島由紀夫「私の商売道具」より
退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より 若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の
証左にされるのは、少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ
誠実さの証拠にはなる。といふのは、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、
生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、青春といふ肉体的状態にとつては
不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。
三島由紀夫「心中論」より
女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は
微妙に侮蔑と結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものは
ないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、
婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。エロスの
言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より 世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て
歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、
これを逆に申しますと「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。
他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に
若々しくさせるものはありません。
三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より 絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より 事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか?
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より 切腹する前に刀をしっかり滅菌しておけ
三島由紀夫「裸体と衣装」より
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。
三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より
プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な
人間の演ずる人間劇と考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの
人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、歴史を動かし、歴史をつくり上げる。
三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する
反乱といふ言葉は、何だか妙で、ひつかかる。
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに
潜行して反乱軍に参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は
弱い者に味方しようといふ気概を失つてしまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと
思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。
三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。(中略)
強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが
民主主義の政治家として本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。
三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より
思想といふものは、古からうが、新らしからうが、所詮は人間の持物で、その思想に
ふさはしい器となる人物は、とにかく魅力を持ちつづける。
三島由紀夫「憂楽帳 思想の容器」より 一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命に
なつてしまふといふのは、薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして
一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマを
いつも演じてゐる。今まで数千年つづいて来たやうに、(略)…人間のこのドラマが
つづくことだけは確実であらう。ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり
自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに決つてゐる。
結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではない。
子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より 現実といふものは、いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露
かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。
夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり一部であるのだ。
古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものに
してゐた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、
感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。
三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より 教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないで
どうするのだ。秋成の雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、
カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、
美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。
みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。
現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びて
しまふ古典なら、さつさと滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、
漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい
脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつて
もらひたいものである。
三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみの
かもし出すものではないと信ずる。有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストは
なほさら哄笑する。
三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より
だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げても
ゐられない。古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたら
ジタバタして、若い者に追従を言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆく
ことがのぞましい。
しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。
オールドミスが「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、
やはり黙つて、堂々と、新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。
三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より
自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より サドの文学はヒューマニズムで擁護される性質のものではない。また、芸術的見地から
弁護される性質のものではない。サドはこの世のあらゆる芸術の極北に位し、芸術による
芸術の克服であり、その筆はとつくに文学の領域を踏み越えてしまつてゐた。時代を経て
徐々にその毒素を失ふのが、あらゆる芸術作品の通例だが、サドほど、何百年を経ても
その毒素を失はない作家はなからう。それはあらゆる政治形態にとつての敵であり、
サドを容認する政府は、人間性を全的に容認する政府であつて、そんなものは政府の
埒外に在るから、政府は一日も存続しまい。つまりサドは芸術のみならず、政治に対しても、
政治による政治の克服、政治が政治を踏み越えることを要求せずにゐないのだ。
三島由紀夫「受難のサド」より
胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いて
ゐれば、存在を意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべき
ものではない。政治家がちやんと政治をしてゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に
専念してゐられるのである。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より 主知主義の能力の限界は、人間が生の非連続性に耐へ得る能力の限界である。この限界を
究めようとする実験は、主知主義の側から、しばしば、且つ大規模に試みられたが、
ゆきつくところは、個人的な倫理の確立といふところに落ちつかざるをえない。
三島由紀夫「『エロチシズム』――ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」より
実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家は
この世の現実のほかのもう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり
少年時代の甘美な「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力な
ものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした
靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねばならない。「人生は夢で
織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。
その夢の原料は、やはり少年時代に、
つまりはあの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。
三島由紀夫「夢の原料」より 作家の思想は哲学者の思想とちがつて、皮膚の下、肉の裡、血液の流れの中に流れなければ
ならない。
あるとき野球部に入つてゐる友だちが、肺浸潤の診断をうけて学校を休みだす直前、
かへりの電車の中で、突然私にかうきいた。
「君は sterben(死)する覚悟はあるかい?」
私は目の前が暗くなるやうな気がし、人生がひとつもはじまつてゐないのに、今死ぬのは
たまらない、といふ感じが痛切にした。
それから半年ほどのちその友だちは死んだ。(中略)
「君は sterben する覚悟はあるかい?」
といふ死んだ友人の言葉が又ひびいて来る。さうまともにきかれると、覚悟はないと
答へる他はないが、死の観念はやはり私の仕事のもつとも甘美な母である。
三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画」より 簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。
三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より
私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと
興がわかない。見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に
許容しないところのものが、芸術でありスポーツであるが故に許される、といふのが
私の興味の焦点だ。
三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より
犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。
ぼくら小説家は、いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。
映画俳優は極度にオブジェである。
映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。
三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ
女の心を永久に惹きつけるものだ。
三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より 作家あるひは詩人は、現代的状況について、それを分析するよりも、一つの象徴的構図の下に
理解することが多い。それは多少夢の体験にも似てゐる。ところで犯罪者もこれに似て、
かれらも作家に似た象徴的構図を心に抱き、あるひはそのオブセッションに悩まされてゐる。
ただ作家とちがふところは、かれらは、ある日突然、自分の中の象徴的構図を、何らの
媒体なしに、現実の裡に実現してしまふのである。自分でもその意味を知ることなしに。
三島由紀夫「魔――現代的状況の象徴的構図」より
決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。
目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは
厭味なものだ。
三島由紀夫「友情と考証」より
作家にとつて、栄光といふものは、奇妙な疥癬(かいせん)みたいなもので、その痒みは
一種の快感であり、それをかくことは一種の快楽にほかならないが、それは仕方なしに
くつついて来たものにすぎない。
三島由紀夫「川端康成氏と文化勲章」より
処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。
三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より 人間は、自分のこととなれば、自分が実在するかどうかは大問題であつて、もし実在しない
といふ結論が出れば大変なことになるが、他人のこととなると、他人の実在如何は大して
気にかけないといふ性質がある。
われわれはめつたに会つたことのない遠い親戚なんかよりも、好きな小説の主人公のはうに
はるかに実在感を持つてゐる。
三島由紀夫「映画『潮騒』の想ひ出」より
青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。
三島由紀夫「堀江青年について」より
日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。
三島由紀夫「現代女優論――越路吹雪」より
一度自分の味はつた陶酔を人に伝へようとする努力は、奇妙に生理に逆行する。意気沮喪
するやうな努力である。
三島由紀夫「『花影』と『恋人たちの森』」より 処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを
書いたあとの感想は、人生的感想によく似て来るのです。
三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より
どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、
自然に対する畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を
呪伏するための極端な様式化になつて現はれてゐたりする。
三島由紀夫「危機の舞踊」より
青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、
典型的な青春はあるまい。またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかも
そのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に是認すること。……これは佐藤氏より
小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。
三島由紀夫「青春の荒廃――中村光夫『佐藤春夫論』」より
近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか。
三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より マインドコントロールなければ割腹自殺などできるものではない。
三島由紀夫「危機の舞踊」より 嘘八百の裏側にきらめく真実もある。
三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より
二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。
三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』――わが愛する女性像」より
人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。
三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」より
お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス
(古典から前衛にいたる)の鉄則だらう。
三島由紀夫「Four Rooms」より
顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に
持つてゐる。一般人もある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、
彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは職業の差などといふよりは、人間の
在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の代表的存在が、
俳優と文士といふものだらうと思はれる。
本当の芸の境地は、競争や戦ひの向うにある。
三島由紀夫「若尾文子讃」より 男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで
考へられてゐる男とは、何か青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。
男らしさを企図する人間には、必ずファリック・ナルシシズムがある。
「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が
必要なのである。
真に独創的な英雄といふものは存在しない。
あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。
三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より
私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した
童話集なのかもしれない。目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは
大人の童話だからだ。
三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より 文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、
この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。
古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読みなくなる危険がある。
三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」
古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけ
マイナスになつてゐるか。又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、
今日、日ましに明らかになりつつある事実である。
三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より
文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。
文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ
引きずりこむだけの力を備へてゐるかどうかによつて測られる。
三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より 旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、
ほぼ百分の一、千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。
私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、
人間は抽象化される要素を持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて
私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を
拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、
私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。
小説の制作の過程では、細部が、それまで眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、
それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、構成を最初に立てることは、
一種の気休めにすぎない。
三島由紀夫「わが創作方法」より 人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための
親切な入門書と思つて読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。
作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、無知、増上慢、などに対する
限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。
三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より
自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。
三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より
いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから二流品である。
われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、それから
受ける快楽を保つ方法を知らないのである。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より 大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には
親しみを抱く傾きがある。
三島由紀夫「明治と官僚」より
日本人は、改革の情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。
三島由紀夫「幸せな革命」より
小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも
偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる。
三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より
日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが
最高無上の価値だ」といふ、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。
小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。
三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」(昭和38年)より 猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、
人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが
あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、
われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、
生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、
ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない
猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。
三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より
若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、
日本人しか、真に味はふことのできぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。
三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より この世は巨大な火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、
現代はどうもそればかりではないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げて
しまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風ばかりである。
幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の
有難味がわかる一方、生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さも
わかるのである。
健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の
運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と
神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる傲慢、……これらのものは、ヒロポンも
阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない奇怪な症状である。
三島由紀夫「最近の川端さん」より ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの
四角の空間に、一つの集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつも
こんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。世界を、こんがらかつた複雑怪奇な
場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の行動家が登場する。
そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、
疑ひやうのない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な
人間とは本来かういふものではないか、と思はせるだけの輝きがある。
三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より
狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が
狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。
三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より 僕は空を飛ぶのに、思想と肉体と両方で飛びたかつたんだ。
足さへ折らなけりや、今ごろは派手な海軍将校さ。……自爆さ……ドドーン、キュウ……
特攻精神の権化になつてるよ、今ごろは。特攻隊といふもの、あれがわれわれの唯一の
青春なんだからな。……今の時代でいちばんアルトハイデルベルヒ的な青春は特攻隊にしか
ないんだからな。……これはまあ、俺も承認する事実だよ。時代の宿命みたいなものだもの。
どうして飛行機を作るより、飛行機に乗りたいとばかり思ふんだらう。弾丸の中をくぐる生活、
それしか安全な生活はないやうな気が僕はするんだ。かうしてただ何かを待つてゐるほど、
危険なことはないやうな気がするんだ。
動いてゐない人間の顔つて、何て醜いんだらう。動いてゐない水のおもてとおんなじなんだ。
頑固で、貧しくて、固くて。
人間、憎しみといふ感情を忘れてゐるときほど、素直になれることはない。
三島由紀夫「魔神礼拝」より 共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。
君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。
理想に殉ずるといふことは美しいことだ。
人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。
がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫「魔神礼拝」より 一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、
失礼な話だ。
芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。
われわれ小説家の著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小に
かかはらず、われわれの本は、われわれの仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に
流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめてわれわれの仕事も実を
結ぶのである。
芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。
三島由紀夫「私がハッスルする時――『喜びの琴』上演に感じる責任」より
芝居はとにかく芝居なのであつて、それ以下のものでも、それ以上のものでもない。
芝居を「しばや」と発音するほどの年齢の人にも、楽しんでもらへるのが芝居といふものだ。
三島由紀夫「三島さんと『喜びの琴』」より 旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。
旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、
観念的な準備が要るのであつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、
はじめて風景は完全になる。
ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。
苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。
観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒に
してしまふ大都市の周辺は、私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。
いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、それがみな食料品に隙間なく
たかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。
三島由紀夫「熊野路――新日本名所案内」より 「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1221494175/ 東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で
星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々に
おくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に
映る星の光など見てくれません。たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんで
くれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの
思ひを、あきらめて棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を
云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が
云へる境地に、一体達することができるかしら、とたへず不安に見舞はれます。
――たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より 「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される
文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――
小説のなかで存分に演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、
さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に僕は耐へられません。僕にはわづかながら
遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。僕の文学は、腹を狼に
喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その少年の
莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は
生命を賭けます。僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければ
ならなかつた喜劇俳優が、その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。逃避でせうか。自嘲でせうか。
僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。彼は
悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねば
ならなかつたのです。
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。
「戯作」と云つても同じことでございませう。
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
三島由紀夫
昭和22年11月26日、林房雄への書簡より 「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。
人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ
生れるわけではない。行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。
三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より
異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、
世界文学の中にも、二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、
さういふ文学は普遍的な名声を得ることはできないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ
愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。
学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか
備はつてゐないことが多い。
正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。
三島由紀夫「夢と人生」より 日本人は何と言つても和服を着た姿が、一等立派で一等美しい。女も男もさうである。
三島由紀夫「『恋の帆影』について」より
現在は死灰に化してゐる。「希望は過去にしかない」のである。
三島由紀夫「あとがき(『三熊野詣』)」より
男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の
女性化とは、男性の自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようと
することを意味します。
三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より
不感症は、戦後の性知識の過度の普及に対する、皮肉な反撃のやうに思はれる。
不感症は凝つた性的技巧などで癒されるものではなく、何か「自然の発露」といふやうな形で、
人間のもつとも柔軟な心の再発見といふやうな形で、癒されてゐる。
三島由紀夫「真実の教訓――選評」より 相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。
それがわかつて幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた
気持は残る。
三島由紀夫「愛(エロス)のすがた――愛を語る」より
憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、
といふのは、言葉の矛盾のやうに思はれる。
三島由紀夫「わが青春の書――ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より
フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人は
ドイツに対する愛好心を貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に
精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が生き永らへてゐて、彼の親独主義は、
別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。
三島由紀夫「ジークフリート管見――ジロオドウの世界」より 万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこの
スピードと快さと自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、
詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で人間を見てゐるのである。
三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より
時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。
三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より
本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的
タブーを犯さぬのであつて、サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。
これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・
ランボオ唯一人だが、われわれが言語を一つの影像として定着するときに、われわれは
すでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。
三島由紀夫「現代文学の三方向」より ものごとの表面ほど、多く語るものはない。
不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。
三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より
美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す
不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、
子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて
育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。
三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より 僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。
幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫「灯台」より
太七:船軍で攻められては
源五:たちまち雑魚の佃煮で
弥三:茶漬にして喰はるるまで
岩次:胃の腑の地獄の三丁目
玉市:鱗で涙が
一同:拭かれうか。
人は最期の一念によつて生(しやう)を引く。ふたたび波の越えざる隙に、とくとく
追ひつき奉らん。
三島由紀夫「椿説弓張月」より 緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の
緊張の連続であつて、豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活で
あることは言ふまでもない。
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
三島由紀夫「秋冬随筆」より 若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。
デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。
喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。
人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。
日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。きんたまの
ない男をインテリといふんだよ。きんたまがあつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫「若人よ蘇れ」より ・東京オリンピックの開会式は昭和39年10月10日
日本中が沸き立った民族の祭 典だった。中国はこれをボイコットし
その開会式の6日後に中国初の原爆実験を行った
・中国は昔から日本女子バレーの練習場にコンクリのコートをあてがっていた
・ 北京オリンピックでバドミントンの小椋久美子、潮田玲子組が中国ペアと
対戦した際、中国選手がスマッシュを打つたびに、会場全体で
「シャーッ!「殺せ!」という掛け声を浴びせられた。
潮田は帰り際に内容を聞いて
「怖いです。怖いです」と何度も口にして震えていた。
平和の祭典の筈なのに、一糸乱れぬ殺せコール。 ある中国人によると
支那の公開銃殺で見物人が「殺!殺!」と騒ぐ、あのノリと全く同じだったらしい。
・北京オリンピック女子サッカーなでしこジャパン対アメリカ戦
すでに中国戦は終わっているはずなのにわざわざ会場を中国人が埋め尽くし
アメリカが日本に同点に追いつくと、スタジアムは大歓声
映像にはアメリカ人の周囲の中国人観客も喜んでいるシーンが何度も流された。
一方日本の選手がアメリカゴールへ突進すると
スタジアム内がまるで地鳴りのような猛烈なブーイング。
・北京オリンピック男子400メートルリレー、始まる前は
ジャーヨ!ジャーヨ!(加油、ガンバレ)の大合唱
レースが終わり銅メダルを獲得した日本の選手が
トラックで日の丸を羽織ったとたんに
シャーゴ!シャーゴ!(犬を殺せ、日本人を殺せ)の大合唱が始まった。
学校とか2chでも
タヒタヒいわれてんねんけど?
別に他国じゃないですお?orz 人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけでは
すぐ枯渇してしまふ、ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅を
もたらす危険を内包してゐる。
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり
文化財となる。それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら
焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げて
しまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な
傑作になる機会を逸してしまふといふことである。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より 愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては
「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛に
お株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な
目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしば
あるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を
逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、
日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた
考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より ひとりひとりの胸にそんなにまで切ない憧れをのこして行つたかなしみは、その哀しみのゆゑに
はるかな、たとしへもなく美しい悔いを悼歌のやうにかなでた。だれが悔いる責を負ふ人で
あつたらう。さうした悔いのなかには、ねぎごとに似たふしぎな美しさが聳えだしたと、
そんな風に人はだれにむかつて云はう――。
三島由紀夫「世々に残さん」より
年齢はいつも橋であると同時にそれの架る谷間でもある。昔の彼は谷底を見ずに飛越す。
今のエスガイは飛越さうとする時に谷底を見る。しかし可能性の限局ではないのだ。
エスガイは可能性の輪のなかへ入つたのだ。はじめて彼は可能性を己が所有とした。
昔の彼であつたなら、それを彼が、可能性の虜になつてゐる。としか信ぜぬやうな仕方で、
エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないのか。
三島由紀夫「エスガイの狩」より 接吻をしようと決心した男が、恋文ひとつ書く勇気もないといふことほど滑稽な矛盾が
あらうかしら。事実僕は、小説を読んでも、一人の蕩児が手れん手くだを用ひて遂に女を
ものにする筋より、夢のやうな衝動に襲われた女が見も知らぬ男の頸にすがりつくやうな
場面の方に惹かれがちな年頃であつた。
小説の主人公は一度はかならずさういふ女にめぐりあつて仮の契を結ぶ。しかし実際の
人生で、男がまづめぐりあふ女は、そんな女であることは滅多にないのだ。若い女は
自分の清純をこそねがへ、相手の男の清純をそれほどねがひはしない。これは当然でもあり、
矛盾でもある。
三島由紀夫「恋と別離と」より
お嬢さん方、詩人とお附き合ひなさい。何故つて詩人ほど安全な人種はありませんから。
三島由紀夫「接吻」より
「彼女の死を選択したことは、よく考へてみると、俺自身の死を選択したことでもあつたのだ。
人生よ、さらば!」
――つまりこれが失恋自殺といふ奴である。
三島由紀夫「哲学」より 抑々(そもそも)人間性の底には或るどうにもならない清純さが存在するのであります。
古代人がこれについて深く思ひを致したならば恐らく神性と名付けるでありませう。
かゝる清純さは、本能的なもの無意志的なものと固く結びついてをるのでありまして、
或る時は社会的拘束の凡て、――就中(なかんづく)道徳的準縄の凡てをも、やすやすと
超越し逸脱し得るやうに考へらるゝのであります。さればこそそれは恒常の人間生活の
評価の前に立つ時、殆んど清純と反対の評語――邪悪、破廉恥、厚顔、淫乱、等の汚名をば
浴びせらるゝことを寡(すくな)しとしませぬ。
実に純粋とは、青春の苦役でもあるのであります。
三島由紀夫「贋ドン・ファン記」より われらが一ト度幸福のなかへ入ると、何をしようと幸福の方でわれらを捕へて放さぬやうに
みえる。しかしわれらの意識せぬ別の力が、いつのまにかわれらを幸福から放逐して
くれるのである。
花には心がある。万象の心の中でも人の心に最も触れやすい心は之である。人が花を
愛づる時、花がなぜその愛に応へ得ぬことがあらう。花の愛は人に愛の誠を教へた。
女には婦徳を、男には平和を。光源氏が世にありし頃、女はなほ花と分ちがたい名を
持ち心を持つてゐた。恋歌は花をうたふ風体の上乗なるものであつた。しかも四時の花は
天候や季節に左右されることなく、極寒の梅も手に触るればあたゝかに、大暑の百合も
人の心に涼風を通はす。
三島由紀夫「菖蒲前」より 否、所謂(いはゆる)花の心は花にもなく人にもない。花を見、且つは触れ、且つは
そを愛でて歌詠む時、人の魂はあくがれ出で花のなかへはひつてゆく。花へはひつた人の心は
水に映れる月のやうに、漣が来れば砕けるが月が傾けば影も傾く。その間に目に見えぬ
糸があり、月と潮の満干のやうな黙契があると思ふのは、誤ち抱いた妄想にすぎぬ。
人の心が人の心のまゝになることに何の不思議があらう。鏡の影が像の儘(まま)に
動くとてなど怪しむことやある。花の心は人の心の分身である。人の心が立去るとき
花にも心は失はれる。
苦しみをはじめて得た人はなほその苦しみを味方に引入れて共に住むことを知らない。
その敵たらんと好んで力(つと)め、苦しみは益々耐へがたいものになる。
三島由紀夫「菖蒲前」より 占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。
しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で淫蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。
伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。
神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より 私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。
日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。
僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」 エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫「女は占領されない」より
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。
自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より 過ちといふものは、美しいものが期待に反して犯す醜行のことである。
美貌といふものは、停車場や博物館と同様に共有物であり公的な存在なのである。それを
私することは公的の福祉に反することであり、停車場を買ひ占めようとするやうなものである。
各界の名士といふ人種が一堂に会する眺めは、一種奇怪である。彼らは要するに、
カメラマンに「自然な姿態」をとられるのに馴れた人種であるから、その言はうやうない
「自然な」態度には、どうすれば見物人から餌をもらへるかをよく知つてゐる動物園の
熊に似た超然ぶりが見られるのである。見物人を意識してゐない動物が、一匹でも動物園に
ゐたらお目にかかりたい。
名士は大抵「殿下」とか「閣下」とか「先生」とかいふ源氏名のついた娼婦であつて、
莫迦に忙しい口ぶりの男は二流であり、莫迦にゆつくりした喋り方をする男は一流である。
彼らは日常の多忙のために生理的な速度に変調を来して、道を歩くやうな歩度の喋り方は
出来なくなつてゐるので、彼らのお喋りは、自動車に乗つてゐるか、それとも興に乗つて
ゐるかどちらかであつた。
三島由紀夫「家庭裁判」より 美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。
良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。
三島由紀夫「家庭裁判」より
久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。
三島由紀夫「鴛鴦」より
不道徳も清潔な限り美しいものである。
三島由紀夫「修学旅行」より よその女の美貌に同意する義務は、どこの奥さんにだつてない筈だ。
コンパスで描いたやうに丸い。口があどけなくて、目は清らかである。悪いことを何にも
知らないやうなかういふ顔ほど、男の目から見て神秘的に見えるものはない。
三島由紀夫「金魚と奥様」より
一度男の目が決して自分を見ないと決めてしまつてから、人生はどんなに生き易くなつた
ことだらう! 彼女は男の教授にでも、づけづけとものを言ふ。相手に彼女の「性」を
感じさせないのをむしろエチケットと思つてゐるからで、世間が考へるやうに、老嬢は
必ずしもわれしらず中性化してゐるのではない。
三島由紀夫「二人の老嬢」より この世界には何かが欠けてゐる。たとしへなく大きなもので、しかも目に見えないものが
欠けてゐる。根本的な条件が欠けてゐるのだ。
銹(さ)びた鉄の水呑場は大そう高く、小さな男の児は母親に体をもちあげてもらつて、
足を宙に浮かして水を呑まねばならない。小さなとんがらかした唇が、不安定な様子で、
小まめに吹き出てゐる水に近づく。水は外れて、鼻孔に入つてしまつた。男の児は泣き出した。
こんな重大な蹉跌には、誰だつて泣くだけの値打がある。
自動車博覧会の雑沓の只中に、誰の才覚でこんな硝子の小さな箱が設けられたのだらう。
誰の才覚で、その硝子の内側に水が注がれ、金魚が放り込まれたのだらう、無意識の善意とか、
無意識の悪意とかいふものは本当にある。さういふものが考へつくのは、いつもかうしたことだ。
三島由紀夫「博覧会」より 私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より 【眼前百事】核議論を!三島由紀夫と村田良平の遺言
http://www.youtube.com/watch?v=t-BSyjcc2no
国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかで
あるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より 左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫「反革命宣言」より 感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に
感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには
悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
三島由紀夫「アポロの杯」より 「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。
一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな
阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに
足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに
思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての
苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。
この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。
その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。
一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。
三島由紀夫「アポロの杯」より 或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。
美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは
本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。
時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな
ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。
時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、
破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも
一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には
意識せざるをえないのと同じである。
三島由紀夫「アポロの杯」より (竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。
芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。
芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の
予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、
破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである
場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を
信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、
いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を
暗示してゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「アポロの杯」より 希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、
人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。
真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず
不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、
これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた
ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。
彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が
われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、
われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から
はじめることができる。
三島由紀夫「アポロの杯」より