昭和な事 Part.4
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>>631
分かったか。よしよし
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以後気をつけるように 「お父さんのお古を借りてきました」とトプコンとかペトリとかミランダとかを持ってくる新入生
「女子なんだ。やさしくしとけ。」と言われたので持ってきたのがC35EFでも姫扱い
ミノルタ・αを買ったヤツをなぜか変態扱い(一部地域限定か)
AFの使い方は230−AFで学ぶ
写真部の顧問より生物部の顧問のほうがニコンの最新機種を早く手に入れる
「F戦争」を繰り広げるニコン・キヤノンユーザーに負けてたまるか、となぜか645購入
気が付くと6×7のパンフレットとバイト情報誌を常に携帯している
それなのに夏休み明け、机の上にはなぜかマミヤCがある 森永パックンチョのCMを見て
『ジャンケンしようぜ、
せーの、パックンチョ!』 日曜大工の合間に「油膜のギラギラキケンです♪」やチルチルミチル100円ライター
のCMが流れていたイメージ
ど根性ガエルなどのCMで流れるマルシンハンバーグを見て生唾を飲む ボイラーの音が超うるさい。わかる人はわかるとおもう。 アルミの弁当箱
森永ハイソフト
ハイシーオレンジ
バナナ 校庭の端にあるトーテムポールを校長先生の長い話を聞き流しながら眺めていた 教室でも体育館でも真冬は石油ストーブ。 寒くて勉強や運動に身が入らなかった。 休み時間に用務員のおじさんがストーブに石炭を入れに来る >>658
大きな網を持った野犬狩りのおじさんが追い掛け回す 横断歩道に押しボタンが設置されて、物珍しさに皆で押しまくる
横断歩道にあった婦人警官と少年の旗入れは劣化するとホラーになる 田舎だとみんな通ったソロバン塾。 今考えたら習い事すんなら普通に公文とかやった方が得。 3人とか4人に8000万とか1億とかかけたら盛大にコケた >>667
電卓のない時代があったからねえ。電卓が流行ったのは昭和の後半だな。
最後の方はPC-98でMS-DOSでロータス123とかの表計算だけどな。(WindowsでExcelは平成に入ってから) ヤン坊ニン坊トン坊の末娘(サル)のトン坊(黒柳)が実年齢では一番上だったって
令和になって初めて知った 東京12チャンネル→テレビ東京をフジテレビやTBSが強烈に皮肉る 赤とんぼのような農薬散布のヘリコプターが遠くの空で旋回し、けたたましい音を
響かせながら接近してくるときの軽い恐怖 年末は米屋が温かい「つきたてのし餅」を配達していた >>598
それを利用したのがオウム真理教だな。
アンカレッジ経由でアメリカやヨーロッパに行く。
1ドルは360円 ラーメン屋で1ドルラーメンというのをやっていて360円だったが、やがてドルが変動相場制になってしまい下がって儲からなくなって止めた。 ケースに入ったフランス人形と戸棚の中のこけしがこちらを見ている 修学旅行で買った「根性」と書かれたどっかの、何かの、邪魔なだけの置物。 TVが今の薄型と違って、いわゆる箱型
だからTVの上にちょっとした飾りものが置ける。
旅先にいった夫婦とかは、「これ、TVの上に良くない?」 バスの車内ビデオは「釣りバカ日誌」か
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」 裏ビデオのBGMといえばレイモン・ルフェーブル
でも、俺が初めて見たヤツはずーーーーーーっとブッカー・T&MGsのグリーン・オニオン
が流れてたソフトSMモノでした タイヤのホイールが顔の看板の前を見かけなくなってきたオート3輪が通過する デパートの屋上は小さい遊園地になっており、10円入れると前後に動く子供用の乗り物などがある。 クイズ番組の賞品がハワイ旅行、ダイヤのネックレスor指環 >>710
ウチの所はよしもと新喜劇ギャグ100連発だった 週刊少年ジャンプを毎週定期購読の様に読む奴がクラスに多かった。 >>734
そもそもセクハラ、パワハラといった概念がなく、その状態を当たり前の普通の状態と認識している。また学校等での体罰は否定されず、むしろ肯定されている。 覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか? のCM >>739
空気を吸うみたいに当たり前でしたやね。 >>747
女の子はスカート捲られても、「キャーエッチー!!」などと口では言いながら、結構、満更でもない様子で、男も勿論、その反応を見て喜ぶ。そう言ったコミュニケーションがごく日常にありふれた良い時代だった。 対向車のパッシングは、この先ネズミ捕りの合図だった スパイクタイヤの食いつき
ケチってFF車の前輪だけ履かせたら暴れ馬になった思い出 ゲームセンター多数
しまむら以外のファッションセンター多数 用務員のおじさんが時間になると廊下に出て鐘を鳴らす 秋葉原へ行くと(日本で使うと違法になる)アメリカ輸出向けCB無線機が大量に売られておりトラックの運ちゃんは必ず車にセットして他の運転手との交信に使っている。
もちろんそのままでは出力が足りなくて電波があまり飛ばないのでブースターを付けて100Wとかの大出力にして使っており、電波を出しながら家の横を通過すると音声がテレビに入ったりする。
(それだけならまだ良いがストーブの電源が入ってしまって火事になった事件も確かあった)。 パプリカやブロッコリーがスーパーや八百屋に無かった。 田舎へ行くと舗装されてない小石の砂利道がほとんど。
大通りすらそうだった。 戦隊ヒーローものや人気アニメの絵柄の自転車が流行った
人気アイドルもので覚えるのはドレミまりちゃん号 写真は現像するまで中味を確認できない
しかも消して撮り直したりできない 鮒やカエルの解剖で女子怯える、男子強がる
下校途中で田んぼ付近から蛇(ヤマカガシっぽい記憶)を捕まえて女子に見せたり
小川からヒルを捕まえてくる奴 学校のトイレでうんこしたら、あだ名がうんこになる。 >>771
それを回避するために緊急事態のときは
自分の教室から離れたトイレを使ったものだ 道路が舗装されていなくて砂利があるが凸凹。
道路の両サイドにはドブがあるが蓋がされていない。
よく見るとボウフラが浮いたり沈んだりしている。 >>774
うちの地元は仮面ライダーのやつに異常な価値があった >>773
「教職員専用トイレ」を使うってやり方もあった。
(学校によってはダメなところもあるのかな?) シートベルトが腰の部分だけの二点式
助手席のダッシュボードに額を打ちつけたときは痛かった。 エンジンをかける前にチョークを引きアクセルを2回パタパタと踏んだ で、洗剤がよく落ちない状態で食べると、奇形児が生まれる場合があると聞いて恐れおののく・・ ただよし、野菜をちゃんととらにゃあ、いかんぞ(野菜ジュースのCM) 日曜日の夜は「燃へる男のぉ〜あ〜か〜いトラクタぁ〜」のイメージ 冬に鍋は、野菜や魚介類、少し豚肉入れた寄せ鍋一択しかなく
味ぽんで食べていた。 チューブ入りになったのに、未だに「歯磨き粉(こ)」っていう年寄り
えっ、若いのも?
ライオンの紙袋に濡れた歯ブラシ突っ込んでビショビショにしたっけ >>796
練り歯磨きという言葉もあまり聞かないね >>796
焼いてないカップ焼きそばみたいなもんだ 図工の時間でチューブのりを絞り出す
先生の卓上には貸し出し用のタンク型ののり ♪ボーリング それボーリング ここで一発ストライク 負けてたまるかなるものか・・
という、ボーリングの唄 >>800
カップ焼きそば作ったやつは天才だと思う。凡人は「焼きそば」の名前に惑わされてしまい焼かずに作ろうなんていう発想には中々行けないと思うんだ。
常識の壁というかなんというか。そういう常識を打ち破った点が素晴らしい。 ジュースの自動販売機は、ジュースが噴水になって出ていた。 ソックタッチは工作の糊のように跡が残ったような記憶 自転車で豆腐を売りに来ていた (パックに入っていないので自前の鍋や器に入れる)
豆腐も金の受け渡しも素手でそのまま 今思えば不衛生 夜の11時くらいに平気でAV女優が自分の出演ビデオを宣伝しに来る深夜番組が地上波で流れていた。 ヌードの撮影風景も
堂々と流していた。 古谷一行のサスぺンスドラマで温泉街が舞台だと
おっぱい丸出しの姉ちゃん達が高確率で出演 食堂などのテーブルには100円入れる卓上おみくじ器が置いてあった 上から降ってくる砂糖をハサミでカットする、シュガーカットのダイレクトなCM
昭和は直球な商品CMが多かった。 玄関にはNHKシールが貼ってあった。しかもカラーと白黒で図案が違う。 >>824
熱海の喫茶店にはまだあるかも。2011年に行った時にあった。 パスタをスパゲティと言っていた。
シェフはコックさんだった。 >>829
白黒のブラウン管の上に透明で色付きのプラスチックの板を入れてカラーに見せかける。 最近になって思い出したけど線路(ホーム)のレールや枕木にちり紙の砕けたようなものが
張り付いていたり茶色く変色していた。
当時はそれほど気に留めなかったが、アレだったのか… >>834
そう。食事中の時間だったので控えましたw 通販番組なんて
二光テレホンショッピングだけだった 君の飲むお茶君野園 僕の飲むお茶僕の園 きーみーのーえーんのCM 昭和の通販CMは日本直販と二光と日本文化センターと第一家電ぐらい その通販で買った商品も宅配が無いから鉄道で駅留めなんて扱いだった 風呂上がりに弱、中、強だけのボタンしかない扇風機の前で「あーッ」って声をだして震えるのを楽しんだ思い出 デパートにお出かけや七五三などで強制的にタイツを履かされた デパートへ行く時はスーツを着ていく。
うちの親父はそういう親父でした。 >>852
うちも百貨店へ行くとき、家族は変なテンションで緊張していました 百貨店の天井の大きな扇風機が涼しくて買うものもないのに行ってた 横浜はビルが立ち並ぶようにはなったが所々にいきなり空き地があるような場所だった。
もっと昔は砂利置き場でほとんど何もない所だったらしいが俺はそれは知らない。
なお、横浜駅の工事は行くたびにどこかしらで必ずやっており完成する日はいつだかわからない。
多分100年経っても駅は完成しないと思う。 百貨店で慰問袋に入れるものを集めた催しを盛んにやっていた
原節子のブロマイド、歌集、キャラメルなどが人気だった 商店などで製造年月日(賞味期限表示が無かった)から1年過ぎたようなスナック菓子や
カビが生える寸前の菓子パンが売られていた。 小学生でもパチンコ屋に普通に通ってた
(18禁のない古き良き時代) 赤線地帯 親から近寄ってはダメだと言われていた場所があった 妙に記憶に残る昭和のCM
くさい匂いは元から絶たなきゃダメ!
シッダンシッダン シッダン♪(痔4)
花壇花壇花壇、お花を大切に♪ >親から近寄ってはダメだと言われていた場所があった
うちは駅裏のドヤ街には近づくなと言われていたよ
今は再開発されて面影もないけど 学生は入れないと言われてたミルクホールだったけど皆行ってたな
確認もかなりいい加減 電気製品にやたらと「ファジー」あれはなんだったんだろう 祝日はいろんな公共の場所で日の丸国旗が掲げてあった
各家庭もこぞって国旗を掲揚した 森永ハイソフトに似たツートンカラーのラジオで全国歌謡ベストテンを
聴きながら釣りをしていた。 ボンボン時計は、深夜でもお構いなしに甲高い音で時報を鳴らしていた。
(深夜鳴らないのもあった?少なくとも小生は見た事がない)
今だと直ぐに苦情が来そうだが、当時はそれで文句言う人を見た事がない。 電気時計が主流になってゼンマイを巻かなくてよくなったが、
トランジスタ式は今のような滑らかな連続秒針ではなく、
コチコチ音が五月蝿かった。
目覚まし時計もこれだった。 ロイ・ジェームス 日石チューンナップジョッキーはよかった。
土居まさるの放送がうるさかった へい、ジェームス。お前さきの彼女とはどうなった?何?もう別れたのか。愛情が足りないよ。女も料理も愛情だぜぇ。(と言いながらステージでオムレツを焼く) 青島幸男と天知総子 青島・フーコの天下のジョッキー >>895>>896
どちらもピンクレディーがCMしてたよな懐かしい
神州一のはサウスポーだったと記憶してる 即席と言えばオリエンタル・マースカレー
最近名前をとんと耳にしなくなった。 兼高かおる世界の旅
海外旅行が高嶺の花だった頃はこれで周遊気分を味わったものだ 兼高かおるは美人だが、子供心に変な顔だとも思っていた。
近頃兼高かおるの父親がインド人と知り、長年の疑問が解けた。 >>899
宝石箱150円くらいで再販すれば買うのに >>904>>905
ピンクレディー2連発ありがとう!
宝石箱の60秒CMは初見かも?当時数えるほどしか食べてない…
神州一のサウスポーは原型が「〜いちの」しか残ってなくて笑ったw
赤玉ポートワインのCMも懐かしい。 ピンクレディーと言えば何のCMだか忘れたが
「死んでくれるぅ〜?」と言うフレーズだけ衝撃的で覚えてる。
殺虫剤系? アイスはパナップが好きだった
当時スーパーの店頭に能勢慶子がパナップ持ってる
等身大くらいの販促用の立て看板があった >>907
ヨゴレ系CMなら海外進出後の低迷期じゃない?
推測だけど 足踏み式ミシンは時々油をささなければならないので、
各家庭にミシン油があった。 >>913
当時、わたしも子供ながらにきれいな人だと思っていた コーラの前を横切るヤツ、冒険活劇飲料サスケ
つづく >>901 >>902
兼高かおる 世界の旅といえば、聞き手の芥川隆行のなげやりな相槌がw
「このお祭りの時期になると、村の若い男性がたが何人も集まってこの像をお神輿のように担ぐんですのよ。」
「はあ、そりゃあ重たいんでしょうなあ。」
「なんでも像のあまりの重さに耐えきれず、毎年一人二人は骨折する方もおられるとかでウフフフフ。」
「ほぉお、痛いんでしょうなあ。」
「ですけど神聖なお祭りの中の怪我ということで、むしろ名誉と考えてらっしゃる方のほうが多いんですのよ。」
「ま、バカみたいな話ですなあ。」 >>921
(^^♪ 掛布を 王を 若松を キリキリ舞わせる スト〜レ〜トォ〜 テスト用紙はわら半紙に手書きのものがほとんどで筆圧に神経を使ったが、
たまに真っ白い上質紙だったときの鉛筆が机を叩く音の心地良さ。 >>923
消しゴムで消すときに
破ってしまうことがある 部屋の中だと聞こえたらまずい事もあるし、昔は電話のない人にも貸してたからな。 >>927
なるほど。そういう事情があったんですか
てっきり電話は「外から家(ウチ)にかかってくるもの」「家(ウチ)から外へかけるもの」だから家の出入り口=玄関に置くのかなあと思っていました
「昭和な事」
ゲーセンで脱衣麻雀をしているサラリーマンを見つけると、さりげなくチラ見しながら脱衣シーンでモロ見して欲情 >>923
コピー用紙で子供が指を切るからという保護者からのクレームで
未だにわら半紙の所もあるようだ 電車の中でお母さんが赤ちゃんにおっぱいを飲ませていても別に違和感がなかった フロンガスがオゾン層を破壊することが知られ、皮膚ガンの恐怖に怯える ガンプラ製作中に接着剤に含まれる有機溶剤の影響でテム・レイになり、
部屋の四隅からシャアが来るのを目撃し、赤い彗星の真の恐怖を知る 欽ちゃんの仮装大賞で合格点の20点にあと1点届かない19点だと審査員の誰かが必ず1点プラスして合格させてあげる温情に満ちた演出にみんな感動した 大半の人がまだ24時間テレビを胡散臭いとか仕組まれた演出だとは思っておらず素直に感動して涙を流し募金していた 空き地に落ちていた本のバナナを官能的に咥える女性の意味が分からず困惑 元祖どっきりカメラでは
一般人へのイタズラも多く
素人の顔に突然パイをぶつけたり
橋の手すりが壊れて川に落としたりもあった スリランカ人が出勤途中のサラリーマンを英語でいきなり襲い、それを生放送で流した テレビ局はNHKとフジテレビだけでいいと言われていた うちの爺さんはNHKしか見なかった
何度チャンネル設定してもNHK以外は砂嵐にしてた ラジオはAMは歌謡曲・演歌。FMは洋楽、ニューミュージック 冷房がついている電車には冷房車のステッカー誇らしげに貼ってあった ノーマルカセットテープの検出孔を自分で空けてメタルで認識されるようにしていた 今は地元のFMラジオが高齢DJのしゃべくりの場と化していて悲しい
開局の頃はAMと一線を画すおしゃれなイメージがあったのに(>_<)!!! オールナイトニッポンの録音は寝落ちしてしまう事も多かったから
オートリバースの時に録音が途切れないように
カセットを分解して終端のリーダーテープをわざわざ切ったりしていた 国際情勢により不況になることはあるにせよ、経済成長に上限はなく永遠に続くものだと考えられていた 海外での日本人観光客のマナー違反がしょっちゅう新聞記事になってた 昭和40年頃までは道端にゴミが散乱していたり、川に汚水、糞尿を流したりと、衛生管理がお粗末だった
ホームレスも多かった 昔は駅に痰壺があり、痰壺おじさんなる都市伝説も当時流行った
町のクリーン化は環境問題など意識の高まりもあったが、大阪万博が一つの節目だったように感じる 78回転のSPレコードは割れやすく、触ってはならないと厳しく言われていた
勝手に触ったり針を落としたりすると大目玉を食らった 忘れもしないセンチメンタルジャーニー
それまでは軍歌ばっかりだったので子供心に新しい風が吹いたような気がした パチンコ屋が軍艦マーチを大音量で流していたがそれが当たり前のことだった 自分で作曲して歌声をテープに録音して彼女に手渡したりしていた
今考えるとかなりのナルシシストだ… 昔は船舶関係の仕事でなくても手旗信号出来る人が多かった
今は災害、水害あって助けを求める状況でも誰もやらない 基本映画は20円あれば観れた。立見は当初は料金が分かれていた
たしか8円
そこから映画産業が下火になるのと反比例して料金が高騰
立見との別もなくなった 渡辺 だし一番
「だしの心は母ごごろ 飲めば旨みの泉わく ワッハッハッハwww」
テルマエロマエを見てこのCMを久々に思い出した 焼け跡で飲んだミルクコーヒーは美味かったが
焦げた脱脂粉乳は人間が飲むようなものではなかった >>956
インレタシールでマイフェイバリットのテープなどを作って
ドライブしながら聴くのが楽しかった 文化フライとは何ぞやと思い学校の帰りに買い食いしてみたが
すごいしょうもなかった 食券節約のためによく雑炊食べに並んだ
店によって当たり外れも大きかった
次行ったらやってなかったりした 祭りの出店で見世物小屋があったが子供の頃は入ってはいけなかった お金持ちは家に洋間を作り、天井にシャンデリアを飾り、壁に鹿、熊、虎などの動物の毛皮や剥製を飾るのが常識
電話は黒電話ではなく、白と金の洋風アンティーク調の電話を置く >テスト用紙はわら半紙に手書きのものがほとんどで筆圧に神経を使ったが、
謄写版と書けよ。分からんだろ 生米を持っていると没収されるらしいと聞き
子供のお手玉の中に隠したりしたが
中には子供が大泣きする中、お手玉を裂き
中身を調べられる事例もあったようだ >>907
殺虫剤ではありませんが金鳥電子蚊取り器のようですね。惜しい!
なぜピンクレディーが女賭博師の設定かは謎です(笑)
https://youtu.be/jJ2MOgtKwdA?t=2m
殺虫剤系CMと言えば京塚昌子のゴキブリホイホイや
研ナオコの「蚊が飛ンデレラー蚊が死ンデレラー」のほうを思い出します (^^;;) 蜜柑の薄皮に栄養があるのに
口あたりが悪いからとわざわざ取っていた 昭和40年代はアニメのことをテレビ漫画と言っていた
日本アニメーションという会社もあったが
漫画愛好家にアニメという言葉が広まったのが昭和50年代
世間的にはもう少し後のような気がする 祭りの日は決まって近くの人気のない神社の裏手で
浴衣姿の若い男女が盛り合っていた
子供は居なかったが夏はヤブ蚊が多い所だ キャッツアイとかいうピンクレディーにお色気路線が加わったようなイメージのB級アイドルがいたな
片方が失踪して自然消滅してしまったけど 殺虫剤がまだない頃は、野焼きをしたりアザミを庭に植えたりして虫を寄せ付けない工夫をしていましたね
あと鶏を飼っていたのでまめに掃除
夜は蚊帳を被れば良かったけども、終戦の年は大変だった
サイパンが落ちいよいよ国土が危なくなるとの事で
近所のあちこちに防火用水を張り、冬は問題無かったけども、夏は蚊がたくさん沸いて困りました >>960
昭和二十二年の年末に放送された
東海林太郎の電リク祭りを思い出します、 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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