太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、
一九四六年一昭和二十一年一の『アトランティック・マンスリー』誌に
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、
病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、
敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、
まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、
死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、
または他の骨でぺーパーナイフを作るとかしてきたのだ」と書いた。

これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。

ジョン・ダワー教授はいう。
「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、
日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、
あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。
たとえば【日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百何千という
生き残り日本兵を銃で撃ち殺した】アメリカの潜水艦艦長は、
この【虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞】を与えられている。」

「【連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたまま】だ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、
補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側が
それでも【交戦法規を忠実に守って】、
【大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ】様々な問題が生じたのである。 」


>日本は国際法を遵守して捕虜を扱った
>敗戦したイギリス海軍兵に対し人道に人道を重ね、”また戻ってきては花を海にやり弔った”

>対して連合国兵は捕虜や海に漂う兵士、病人怪我人、補給・医療船の非戦闘員に対し
>非人道的な虐殺を行い、その場を離れ、近くの基地で補給し”また戻ってきては虐殺を繰り返した”