・天安門事件から30年、元学生リーダーの王丹氏 「いつか帰国を」

【6月2日 AFP】1989年5月、王丹(Wang Dan)氏は20歳だった。大きな眼鏡をかけた顔の前に拡声器を持ち上げ、中国・北京の天安門広場(Tiananmen Square)に集まって民主化を要求する群衆に向かって呼び掛けていた。

 わずか1か月余りの後、中国軍による鎮圧で大勢が死に、王氏の名前は中国の最重要指名手配名簿のトップに挙がっていた。

 それから30年後の現在、米ワシントンを拠点としている王氏は今でも、あの極めて重要な日々の一瞬一瞬を覚えているという。学生が主導する民主化運動は数週間続いたが、中国共産党にとってこの出来事は大きな恥辱だった。

 1989年6月4日未明、ついに中国政府は運動の鎮圧に乗り出し戦車と兵士を投入。犠牲者は数百人とも、1000人以上とも言われており、正確な数はいまだに不明だ。

 王氏はワシントン郊外でAFPのインタビューに応じ「全く予期していなかった」と話した。「群衆に向かって発砲するということは、私たちの想像を超えていた」

■指名手配犯のトップに

 天安門事件後、王氏は警察の学生リーダー指名手配名簿の一番上に自分の名があるのを見て「非常に驚いた」と言う。

「当時、私は最も名が知られていた学生指導者というわけではなかった。学生指導者の中の一人にすぎなかった」と語った。「何年もたってから、何か理由があったに違いないと気付いた。私には他の学生指導者たちと一つだけ違うところがあった」

「私は知識層と非常に近い関係にあった。政府は、抗議活動が知識層によって引き起こされたというレッテルを貼りたかったのだ」

 中国人民解放軍(People's Liberation Army)の戦車と機関銃を持つ兵士が、北京中心部の天安門広場へ鎮圧に乗り出したとき、王氏は故宮博物院(Forbidden City、紫禁城)と人民大会堂(Great Hall of the People)に面するその広大な広場にはいなかった。「私は大学の寮にいた。だが、天安門広場にいた友人たちが多数電話をかけてきて…徐々に多くの人が死んでいることを知った」

 王氏は他の学生らと共に自転車で天安門広場に戻ろうとしたが、「通りはすべて警察と軍によって封鎖されていた」と振り返る。「広場には行けなかった」

■中国にいつか帰国?

 王氏は中国国内で人権活動や民主化活動をしたら再び逮捕される可能性があることは十分分かっていたが、自らの信念を伝えるために国内を回ることにした。

「1989年に死んだ人々や若さを犠牲にした人々に対し、ある種の義務と責任を感じていた」と王氏は言う。当然のことながら再び逮捕され、今回は11年の実刑が下された。

 だが、1998年に表向きは治療のためとして再び釈放されると、王氏は米国へ亡命した。ハーバード大学(Harvard University)で東アジア史の博士号を取得し、中国の民主化を求める運動を続けている。

 中国へは20年戻っていないが、両親は今も中国で暮らしている。王氏は常に帰国を考えている。「いつかは、と確信している。それがいつになるか、分からないだけだ」 (c)AFP

関連:地方都市の「天安門事件」、30年前に起きた中国各地の抗議デモ
https://www.afpbb.com/articles/-/3228024?act=all

(米メリーランド州ボイズでAFPの取材に応じた天安門事件の元学生指導者、王丹氏)
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(中国・北京で外国人記者に向かって声明を読み上げる天安門事件の学生指導者、王丹氏)
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(天安門事件の元学生指導者・王丹氏の写真を掲げ、王氏が香港訪問を却下されたことに抗議する人々)
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2019年6月2日 11:00 AFP
https://www.afpbb.com/articles/-/3227517?act=all