ナチス・ドイツ(Nazi)のアウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所で
入れ墨を入れる係を担当させられていたレール・ソコロフ(Lale Sokolov)さんに初めて出会ったのは、
同氏の妻が亡くなって8週間たった頃のことだ。オーストラリア・ビクトリア州メルボルン郊外にある自宅を訪ねると、
同施設で被収容者たちの腕に識別番号の入れ墨を入れ続けた2年半について私に語ってくれた。

 レールさんは1942年4月、スロバキア・クロムパヒ(Krompachy)の実家から同強制収容所に送られた。
当時、町中のどの店にも、全てのユダヤ人世帯に対して、家族の中で成人した若い子どもを1人、
ドイツ人のために自主的に勤労させるよう命じるポスターが貼られていた。

 当時18歳だったレールさんが乗せられた貨物車が向かった先は、アウシュビッツだった。

 強制収容所に到着してから数週間後、レールさんは発疹チフスを発症。遺体運搬用の荷台に放り込まれたが、
同胞の被収容者に見つけられて助け出され、仲間の看病を受けて回復した。

 回復する様子を見守っていたのは、フランス人の被収容者で学者肌のぺパンという男性だった。
アウシュビッツで被収容者に識別番号を入れ墨で彫る作業を担当していたこの男性は、
レールさんを救うため自分の助手になればいいと言ってくれた。だがレールさんが仕事を始めてから数週間後。
作業をしているのは自分しかいない。
そのことに気付き、男性の行方を尋ねたが、おまえには関係ないと言われるばかりだった。
アウシュビッツの入れ墨係といえば、今やレールさん以外にはいなかった。

 新たな役割に苦悩するレールさんに突然恋心が生まれたのは、18歳の少女ギータ(Gita)さんの手を握っているときだった。
髪の毛をそられ、ぼろ布をまとっていた彼女は、レールさんが左腕に34902という識別番号を彫る間、
恐怖で震えていた。それきり2人は別れたが、レールさんはふと気付けば、
「瞳」が印象的なその少女の姿を探していた。すっかり少女のとりこになっていたのだ。

 それから数か月、そして数年が経過した1945年1月25日。
アウシュビッツのすべての女性たちが対象となった「死の行進」の中にあの少女の姿があった。

 2日後、ソ連(当時)軍によるアウシュビッツ解放に伴い、レールさんは家畜運搬用列車で別の強制収容所に移送された。
ギータさんがもう亡くなっているとはどうしても思えず、数週間後、レールさんは収容所を脱走して故郷に向かい、
戦争で荒廃したスロバキア・ブラチスラバ(Bratislava)に彼女を捜しに行った。

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