『スーパーカブ』はまるで純文学のよう? 日常的な芝居など“引き算の演出”が生む豊かさ [鳥獣戯画★]
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リアルサウンド2021.05.23 10:00
https://realsound.jp/movie/2021/05/post-765180.html
変わらない日常の中で、ほんの少し頑張って手に入れた家具や家電、あるいは乗り物によって生活が変化する。そんな瞬間は誰にでもあるのではないだろうか。最初は劇的な変化に喜び、気がつけばそれが日常となり、当たり前の存在に。だけれど、それを手に入れる前と後では人生そのものが変わっている。そんな瞬間を丁寧に描いたのが、テレビアニメ『スーパーカブ』だ。
『スーパーカブ』は2016年より小説投稿サイトにて連載されたトネ・コーケン原作の小説を原作とし、書籍・漫画化を経て、2021年4月よりテレビアニメで放送が開始されている。両親も友人もお金も趣味も将来の目標もない、1人で静かに孤独に暮らす主人公・小熊が、スーパーカブと出会うことで生活を一変させていく姿を描いていく。
一般的にアニメの魅力としてよく挙がるのは、やはり派手なアクション・バトルの作画や演出ではないだろうか。ぐりぐりとカメラごと動き回り、時には目で追うことも難しい激しいアクションやエフェクトに魅了されていく。実写では技術・予算的に難しいカットや派手なアクションが堪能できることが、アニメの魅力と語る人も多いだろう。
もちろんそれも正解なのだが、一方で多くのベテランアニメーターが描くのが難しい作画として挙げるのが日常芝居だ。歩く、走る、何かを持ち上げるなどのごく普通の芝居こそが、日常的であるが故に小さな違和感が目につきやすく、誤魔化すことができない。中には「歩き・走りの日常芝居ができて一人前」と語るアニメーターもいるほどだ。
その日常芝居に正面から取り組んでいるのが、本作である。近年“神回”と呼ばれるような緻密で派手なアクション描写は、ほとんど描かれることなく、淡々とした日常を中心としている作品だ。時には音楽も少なく、ほぼ生活音以外は鳴らない中で物語が進行していくことも多い。深夜アニメということもあり、疲れてリアルタイムで観ると眠気を催す視聴者もいるかもしれない。そう語ると地味な作品のように感じられる方もいるだろうが、むしろその逆だ。丁寧に作られた日常的な芝居と、静かな音楽の中に潜む、計算された演出によって本作に魅了されてしまう。
例えば第1話を例に挙げたい。冒頭では舞台となる山梨県北杜市の風景が描かれ、徐々に小熊の暮らす部屋の中へとカメラが向けられていく。そこで朝に目覚めた小熊がシャワーを浴び、パンにパターを塗って食べ、お弁当箱にご飯を詰め、レトルトのパックを持っていく。ただそれだけを、ナレーションもなく3分以上にわたり淡々と描写を重ねていく。特に何も干されずに外に置かれたピンチハンガーからは、日常の空虚感と孤独感が強く伝わってきた。
テレビアニメの第1話というのは、作品の導入としてとても重要で、登場キャラクターの紹介や世界観の説明、作品の最大の魅力やテーマを視聴者に説明したい回だ。そのために派手な演出やバトル描写、特殊エンディングや、多くのナレーション、説明セリフを用いることが多い。
本作に関しては舞台は現代の山梨県ということで説明の必要が少ないものの、それでも最低限の要素に絞って説明をしている。つまり、小熊の日常と、スーパーカブとの出会い、その変化だ。
それを象徴するのが初めてスーパーカブに乗ったシーンだろう。普段は少し色あせた色彩が、その瞬間に鮮やかに変化する。それまでBGMがほぼなかったのにも関わらず、運転を始めるとBGMがかかる。こういった演出は、ほんの僅かな変化のようではあるが、視聴者に小熊の日常の変化の予感を印象づけるのには最適な演出だ。
そして第1話から第3話では、スーパーカブを手に入れたことによって、行動範囲が増える様子を。そして第4話から第6話までは、とても身近でバイクや車に比べると、ともすればバカにされがちなスーパーカブの持つ可能性を描いている。この“走行距離が増える物理的な変化=人生における行動範囲が広がる精神的な変化”という描き方もまた、観ていて心地いいものだ。
本作からは徹底的に親などの保護者の存在が排除されているが、それもスーパーカブという1人乗りの乗り物にピックアップすることで、1人の人間の人生と成長を描くようにも感じられる。時にはメンテナンスを教えてもらい、友人や同好の仲間を見つけながらも、最後には1人で長い道のりや悪路を進む。まるで人生訓の詰まった純文学を読み進めているような気分にも近しいものを感じる。
ともすれば、こういった日常的な芝居の積み重ねはアニメではなく、より自然な演技もできるであろう実写で行った方がいいと考える方もいるかもしれない。
(以下リンク先で) >>80
むしろその発言が差別的
スクーターは男だけのものではない 文化祭の回、主人公たちが
「原付なんかで出来るかよ」という男子の言葉に反発してやっただけの荷物運び以外
なにひとつ参加してない…というかそれだけで感謝までされてるのが
ちょっと気になったけど、今ってああいう自由参加なもんなの? むしろ実行委員なんて罰ゲームだろ
他の出し物見に行ったり他校から来た連中と遊んだり部の出し物やるし >>54
バイクに乗る人は大なり小なりロマンがあるんだと思う。
きっとそれは人それぞれで、はたから見たら訳の分からないことをやっている風に映る時も少なくない。
しかも、「近くて遠い場所」なんて、クサイ言い回しもバイク乗りらしくて良いじゃない。
さて、夜が明けるまでに下道でどこまで走れるか。
垂直に立てたペンを離して、向いたペン先の方向へ疾ってみるか。オートバイで。 >>105
いや実行委員はそうだろうけど、そうでない生徒も
店の飾り付けなり店員ローテなり、
なにがしか役割つけられるもんじゃないの?今は違うの?
ということを言いたかった。 最初はなんかワケありだし孤独だし温めないレトルトで昼めしとかわびしいし
バイク動かなくても助けを求める術も知らないのがいかに頼り方を知らないのか伝わってきたし
なんでも自分で努力してレインコートを着て雨に向かって「ざまあみろ」って言うあたりまでは
成長過程が好きだったんだけど、慣れてきたら上から目線の切り捨てるような口調になってきて
いまドン引き。でも萌えっ子きたからええわ ばくおんのような、汚い女どもならわかるが
このアニメのキャラって、ですわ系お嬢様だから、バイクじゃなくて馬に乗るだろ いまどきはツーリングとかいうらしいが
ごまかすなと言いたい
暴走族だろ
このアニメもJKでごまかすな
おっさんがイキんでるだけ 主人公の境遇が悲惨すぎるだろ
ダメ親に育てられて、よくもぐれないもんだ >>84
文学って、恥ずかしい台詞でできてるんだね >>107
別に描かれてないだけで、裏方の仕事を何かやらされてんだろうなとか想像しないの? あんな山の岩道でずっこけまくって怪我しないとかありえるの? >>114
アニメの描写通り自由参加で何もやらされてないから 普通に思いっきりフィクションのラノベじゃねぇかなスーパーカブは
純文学のようとか引き算の演出とかそんな類のものではないと思う >>113
新海の陶酔感よりはマシだろ、あいつも星の声とか空の境界とか初期のモノローグは素晴らしかったよ
でもメジャーどころに走ったあたりから、きもってなった ブラックラグーンのレヴィみたいな鋭いのは善悪判った上で悪く振舞ってるが
この主人公は根本部分が若干壊れてそうな >>83
復帰後にリザーブにしたまま、走り続けて本当のガス欠になって動けなくなったのは酸っぱい思い出 この世界の片隅にのすずさんみたいにいい笑顔するのにやることぶっ飛んでるな >>122
ちょっとイキッた事言った後に自嘲笑いするのが可愛い 正直いいエピソードに見えなかったからあんまり擁護もする気起きないのよね
なんかもっと別の話作れるやん?って
なんかムリクリ修学旅行とか鎌倉の道とか絡めなくてもいいじゃないの?、と 北海道の若いローカルタレントとそのタレントが所属する事務所社長
この二人がカブ乗って後ろの車にいるディレクターと話す
こんな話だったら売れたはず >>127
まあ学校のイベント絡める方が作りやすいし見やすいからな
百合なら広げやすいがノリの昭和臭さからいって作者は平成の百合ブームにはかすってもなさそう
せめてweb版にあった同室の生徒にバイク話してどっちつかずな反応されるのはやったらよかった マルシンを積んで箱根の山を越えるくらいの気概を見せてほしかった >>117
これが引き算の演出ですw
演出でさえなく、親や学校や社会といった面倒な要素を上手いこと書けないから理由でっち上げて消してるだけ
純文学関係なくラノベってそーゆーもん スーパーカブは文学だよな
芥川賞やるべきだよ
作者も文学者チックだし >>135
「カブで無理矢理合流」をやりたいための近場なんで普通はもっと遠くに行く 小熊の生い立ちの説明をを省き過ぎたから、単に他人に厳しい人間だと視聴者が思ってしまう >>106
あのシーンはバイク乗りには不評だと思うぞ アニメ観てて思ったけどなんでこの子両親いないの?
劇中で説明ないからわからん 8話が寒くてやばい・・・
JKとおっさんの会話じゃねえし説明台詞のオンパレード・・ スーパーカブにリアカーつけて山梨でソロキャン
これが流行の最先端 このクソアニメ見たら雪道ノーヘルでジャンプして走りたくなりました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています