日本に対するヘイト作品群に税金が投入されたことが問題になっていた。私自身は開会直後に観
覧していたので、マスコミがなぜ隠蔽(いんぺい)するのかも分かった。一部の右翼によって表
現の自由が日本では侵されていると報じたいのである。そのためには、日本への度を越えたヘイ
ト作品群であることは隠さなければならなかったのだ。
 各紙は申し合わせたように「少女像の展示に批判が殺到」と報じ、問題を矮小化(わいしょう
か)した。そして今回はリコール運動自体を黙殺したのだ。この運動に対して大阪の吉村洋文知
事や名古屋の河村たかし市長まで賛意を表明するなど、ニュース性は高い。それでも新聞は「報
道しない自由」を行使したのである。
 かくして“真実はネットから”という意識が国民に定着した。自らの主義・主張に都合のいい
記事しか出ない新聞は見捨てられ、部数は激減の一途を辿(たど)っている。
 私は高須氏らの会見を見ながら、これを報じるか否かで新聞にまだ「明日」があるかどうかが
分かるなあ、などと漠然と考えていた。結果は前述のとおり、産経以外は報じなかったのであ
る。
 長い間、情報を独占し、自分の主張に沿って都合よくこれを加工して大衆に下げ渡してきた新
聞。もう「真実を書かなくてもいい時代」はとっくに終わっているのに、いまだ改革できない組
織。やはり新聞は「消え去る」しかないのだろうか。