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 他国を見下し、自国の優越を誇るような「民度」という言葉遣いに批判が集まったのは
当然のことだが、私はその手前、「うちの国」で早々に蹴つまずいてしまった。

 うちの家族。うちのクラス。うちの会社。
「うちの」でくくれるのはせいぜいその程度ではないのか。
国とくっつくと、よからぬ気配が漂い出すのはなぜだろう……と思いをめぐらせるうち、
「うちの」が幅を利かせているジャンルがあり、一つは任侠(にんきょう)映画である
ことに気づく。うちの組。うちのシマ。うちの親分。うちの若えの。

 ああ、これだ。わが違和感の正体は。

 構成員の結束、一体感が無意識のうちにも前提とされる「うちの」の世界。
国家を家族になぞらえ、家族的情緒でもって個人を抑圧した戦前戦中の時代の尻尾が
「うちの国」の陰からちらりとのぞく。
考えすぎ? ではためしに、「私たちの」と言い換えてみてほしい。
ニュアンスの微妙な違いに気づいてもらえるはずだ。

 新憲法のもと、国家のための個人ではなく、個人のための国家として再出発した戦後日本。
ゆえにことに為政者に、「うちの国」なんて軽く言わせてはいけない、
いけないついでにもうひとつ、「民度」発言をとがめられても副総理は
「(自粛)要請しただけで国民が賛同して、みんなで頑張った。
国民として極めて、クオリティーとしては高いんじゃないか」と言い張った。

 へっ。私は私自身の判断で「頑張った」。
感謝されるならともかく、「クオリティー(質)」なんて言葉で頭をなでて頂かなくて結構。
手、どけてもらえます? 私はお宅の飼い犬、「うちの犬」ではないのでね。