・・・1986年8月14日、「近隣諸国の国民感情に配慮する」旨の後藤田正晴官房長官談話が出され、公式参拝が中止された。これに対して遺族会や右翼陣営が反発し、日本遺族政治連盟の16万人の会員が自民党脱退を明らかにする。

藤尾正行文部大臣は『文芸春秋』(1986年10月号)で韓国併合は「韓国側にも責任がある」と述べ、罷免された。1986年、教科書問題が外交・政治問題になった。
日本を守る国民会議(現日本会議)の学者が編集した高校用日本史教科書『新編日本史』に対して中国・韓国が批判すると、中曽根政権は記述を修正させた。朝日新聞は「復古調」の教科書と報じた。右翼陣営は中曽根首相を強く批判した。

当時、国家秘密法で大きな論争が起きていた。1985年6月、国家秘密法案が国会に提出されるとメディア、野党、日本弁護士連合会、日本ペンクラブなどが批判し、日本新聞協会や日本民間放送連盟は反対声明を発表する。
朝日新聞は社説「時代錯誤のスパイ防止法」(1985年5月29日)、記事「スパイ防止法ってなんだ」(新聞週間中17回連載)を掲載するなどの大キャンペーンを張り、廃案を主張した。

1985年12月、法案は審議未了で廃案になったが、翌1986年5月、修正案(死刑を無期懲役、報道機関は罰則除外、防衛秘密限定)を作り、7月の衆参同日選で圧勝後、中曽根首相は再提出の時期を探る。

推進派は統一教会の関連政治団体である国際勝共連合が中心となり、運動を展開した。地方議会の過半数で「スパイ防止法制定決議」が通過した。朝日新聞は同じ頃霊感商法を追及していた。
『朝日ジャーナル』(1985年4月5日号)が発売されると朝日新聞東京本社に嫌がらせ電話が殺到し、国家秘密法や霊感商法を批判していた神奈川新聞などにも脅迫や嫌がらせの電話が集中した[33]。