(>>162の続き)

それは確かに、首相が「安全運転」を心がけたからだと評し得るのだろう。他方、
国会審議への意欲が減退しているようにも思える。なんだろう、これ。演説を何度か
読むうち、あることに気付いた。

「私」という主語を明示しての語りかけが、ない。強いて言えば1カ所、「私が適切な
時期に訪中し」とあるのみだ。

「I Have a Dream(私には夢がある)」。キング牧師の名演説を例に出す
までもなく、「私」をはっきりさせると演説の訴求力は格段に上がる。言葉を発する
主体としての「私」がまず立ちあがってこそ、賛であれ否であれ、聴く者の感情を
喚起することができる。いや、そもそもそういう技術論より先に、本気で何事かを
訴えたいと思えば、おのずと「私」が出てくるはずなのだ。

なのに、なぜ。ずっとこうだっけ? 第2次安倍政権下の施政方針演説を読み直して
みる。ほらね。当初はちゃんと「私」が躍動していた。

「私は、彼らの先頭に立って、国民の生命・財産、我が国の領土・領海・領空を断固
として守り抜く決意であります」(2013年)
「私は、自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが、世界に繁栄をもたらす基盤
である、と信じます」(14年)
「私は、この議場にいる全ての国会議員の皆さんに、再度、呼び掛けたい」(15年)

ところが16年から、「私」という主語ははたと消える。

「私」が声高に訴えずとも、望めばかなう、絶対的権力者となりおおせたることの
証左か。あるいは、15年に安全保障法制を成立させ、「私」が真にやりたいことは
やったという感があるのだろうか。唯一、憲法改正――「私」が前面に出ると頓挫する
可能性があるプロジェクト――を除いて。

  (続く)