1月24日(水)朝日新聞東京版朝刊文化面・寄稿「芥川賞・直木賞に決まって」

芥川賞「百年泥」 石井遊佳   チェンナイがくれたごほうび

南インド・チェンナイのさるIT会社二階、ダンナと二人で与えられているオフィスで
芥川賞受賞の報を聞き、ダンナとひと踊りしたあと帰国の算段をしに人事課へ、
ぎりぎりに自分たちへのオフィスへかけもどる。ぜいぜいいいながら次は自分の出番と
いうのでパソコン前に陣取り、芥川賞直木賞の受賞会見のライブ映像を見ながら電話を
手に待機していると、「みなさん並んで…」写真撮影の様子、見れば金屏風の前に私と
同時に受賞された御二方のシックな装いのお姿、怒涛のようなシャッター音の渦の
中心で御二方の頬は喜びにかがやき、小汚い部屋で小汚いTシャツにジーンズ姿の私は
おもわず、
「私もきんびょうぶ〜、きんびょうぶがいい〜」

机をたたいてもだえると、ダンナが、
「こらっ、チェンナイがくれた賞だろう、アダイヤール川の水で顔洗ってこい!」

きびしく叱りつけ、私は「やだ」上目づかいで下唇を突きだし素直に謝りながら、
チェンナイに来てからの日々を思う。

私たちは会社内で研修の一環として日本語を教えているから、生徒はすでに社会化
された大人ばかり、のはずが、よりによって私が受け持ったクラスは、この会社に
採用されたての新入社員、配属前に日本語学習を命じられた、上司によれば初の
試みのクラスだった。そして教室で向かいあったのは、いまだ学生気分で社会人と
しての自覚ゼロ、えりすぐりのごんたくれぞろいだ。かてて加えて私はダンナと違い
日本語教師の知識はなし英語はダメダメで顔もこわくないから、第一日目から教室は
小学校の休み時間みたいになった。何のことはない、「百年泥」の主人公さながらの
情況が四か月間絶賛公開中と相成った。

ということはこの小説が書けたのも今回の受賞も、十円ハゲと引きかえにチェンナイと
アダイヤール川と彼らがくれたごほうびとも思えるが、それを彼らに伝える気もなく
だいいち全員とっくに会社を移った。インド人は会社の移動が激しい。グッドラック!