【産経抄】戦跡破壊の理由は肝試し 9月18日

 サンゴ礁が隆起してできた沖縄の島々には、ガマと呼ばれる鍾乳洞が数多く見られる。読谷(よみたん)村にあるチビチリガマもその一つだった。浅い谷の底にあり、流れ込む川の水の行き先が分からないことから、「チビチリ(尻切れ)」と名付けられた。

 ▼昭和20年4月1日、米軍が読谷村に上陸すると、住民の避難先となる。普段は憩いの場であるガマは、まもなく地獄に変わった。米軍に捕まるのを恐れた住民は、包丁で家族の首を切り、毒薬を注射して、80人以上が集団自決した。犠牲者の過半数が子供である。

 ▼あまりに悲惨な体験だったために、生存者や遺族は長く沈黙を守ってきた。実態が明らかになるのは、戦後38年が経過した58年である(『沖縄・チビチリガマの“集団自決”』下嶋哲朗著)。

 ▼現在は、全国から学生が平和学習のために訪れる。そのガマが荒らされた。入り口の看板は投げ捨てられ、修学旅行生が折った千羽鶴も引きちぎられていた。今も遺骨が残り、立ち入り禁止になっているガマの内部でも、遺品が割られていた。

 ▼チビチリガマでは、かつて入り口に立つ「世代を結ぶ平和の像」が、右翼団体の構成員によって破壊されたことがある。今回の事件も、政治的な意図が背景にある。
沖縄の平和運動に対する反発だろう。地元の識者の見立てはどれも似通っていた。ところが、犯人は意外な人物だった。

 ▼器物損壊容疑で県警に逮捕されたのは、沖縄本島に住む16歳から19歳の少年である。「肝試しだった」「心霊スポットに行こうと思った」。少年たちは、現場を訪れた理由をこう語っている。
オバケが出そうだから、スリルを楽しむために来た、というのだ。彼らは沖縄の「平和教育」で、一体何を学んできたのだろう。

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