★海軍の山本五十六らが、計画的謀略によって日中戦争を勃発させた

『■山本は「頭の固い鉄砲屋の考えを変えるには、航空が実績をあげて見せるしか方法はない」と海軍青年士官に語っていた。
そう 日中戦争の開始は、海軍次官の職位にあった山本五十六中将、海軍軍務局長井上成美少将、
第二連合航空隊司令官大西瀧治郎大佐であった。
なお 山本の海軍次官は、1936年12月〜1939年7月 この間に1938年4月〜11月まで航空本部長を兼務する。』

『■この「航空が実績をあげる」絶好の機会となったのが前記の1937年8月の第二次上海事変だったのである。
この前年の1936年、海軍航空戦略にとって画期的な年となる。
この年、山本が海軍航空技術長の時に構想・開発させた長距離爆撃機
「九六式陸攻(搭乗員5名 最高速度370キロ 航続距離4380キロ 世界に誇る最優秀機)が完成したのである。

『■完成したら実戦に使用してみたい 試してみたい。この喉から手が出るほどの欲求は軍人となれば当たり前のこと、
この完成時に海軍航空本部教育部長だった大西(山本次官の誰もが認める腹心)が、その実用化を説くは当然のなりゆき・・
大西が上海事変直前の37年7月に発表した「航空軍備に関する研究(海軍の航空兵力を海戦とは独立して陸上の戦略爆撃に使用するとの事)」
そして事変の勃発、大西は直接にその戦力を使用できる位置にいた。

『■上海戦が開始された8月13日の夜、米内光政海相は、近衛文麿首相に臨時閣議を開催させ、
財政問題を持ち出した賀屋興宣蔵相を怒鳴りつけまでして陸軍の上陸派兵を決定させ、
さらに14日の閣議において、戦争の全面拡大を主張(東京裁判、米内の最大に危機)南京占領が必要であることまで口にした。』