ここからは自分の妄想となります。
以前、尾崎さんと彼女の2ちゃんねるのスレッドの中にも書きましたが、歌の「このまま」の時、(「透明の水」の一遍でも出てくる)彼女の時はあの時、止まった。
見方を変えれば彼女は心中の生き残り、彼女はあの時一度死んで、生まれ変わった彼女がその後の新しい人生を引き継いでいる。
(「このまま」の中にも「死んでしまえば良かった」のような歌詞がある。)
彼女はその後の人生で、時折見せる一瞬、どこか遠いところを見ている目、はるかかなたの永遠を見ようとする目はそれではないか。

彼女を今まで苦しめてきたもの、それはちょっと思いつくだけでも
・「斉藤さんちのお客様」の時、いろいろな所からいやな中傷が続いた。
・朝比奈の交通事故の時も写真誌は心配するどころか酷い書き方だった。
・はいすくーる落書きの時、あのシュチュエーションならしょうがない事なのに、彼女に対しても酷い事を書かれつづけた。
・NHK「おひさま」のとき紹介の狂言回しの役なのに、ひどい反発があった。
一部の人は彼女の中の普通の人とは違う「狂気」に、自分たちとは違う異質の者として非常に嫌悪する。
あの傑作で楽しいauのコマーシャルでさえ、彼女に対して極少数でしたが、目が狂っている基地外お母さんと嫌悪していた。

芸術とか、そんな高尚なすかしたもの言いはおかしいが、道を突き抜けるためには、ある意味「狂気」が必要。
狂気といえばとても悪い事のようにとらえられるが、尾崎さんも、有名な小説家も、画家も、発明家も、極めるためにはやむおえないことかもしれない。
(あの是枝監督も由貴さんの中の「狂気」をかっていると言っていた。)
そして由貴さんの中では、沢山の多重の性格の中で、狂気の芸術家と、優しく温厚なお母さんと、仕事をてきぱきこなす実務家と、ぼんやりした主婦とが
並列して存在する稀有な状況にあるように思える。
だからこそ彼女は必要で、この世界に残ってもらわなければならない人だと考えています。