【大東亜論】靖国神社 「賊軍」合祀計画に会津出身者 「戊辰戦争の総括が必要」【英霊方】 [無断転載禁止]©2ch.net
靖国神社 「賊軍」合祀計画に会津出身者 「戊辰戦争の総括が必要」
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/news plus/1475624014/
2019年に創立150周年を迎える靖国神社に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。
つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、
西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。
だが、彼らの合祀を求める会を国会議員らが立ち上げ、靖国神社に申し入れをするというのだ。
発起人を務めるのは保守派の重鎮、亀井静香・衆院議員。そのほか森喜朗氏や福田康夫氏ら首相経験者、
二階俊博・自民党幹事長ら与党幹部、さらに、野党議員など70人を超える政治家の賛同を得ているという。
.
政界重鎮たちによる申し入れは無視できない重みがありそうだが、そもそも靖国神社への合祀は可能なのか。
靖国神社は、この動きについて「存じておりません」とした上で、「当神社は明治2年の御創建から終戦に至るまで、
当時の国の合祀判断に基づき、その都度合祀が重ねられてまいりました。当時に遡り、その基準を変更することはございません」と否定的だ。
だが戦後、靖国神社は国家機関から民間の宗教法人となった。そのため、合祀の可否は神社の最高責任者である宮司の判断に委ねられる部分が大きい。
1978年10月には、当時の松平永芳宮司の判断で、A級戦犯14人が合祀されている。亀井氏は自信を見せる。
.
「A級戦犯とは異なり、中国も文句は言わないだろう。神社と一体となって事業を行なう靖国神社崇敬奉賛会の理解が必要なので、
同会の扇千景会長(元国交相)にも根回しを進めている。ただし、最終的な権限は宮司にあるはずなので、徳川(康久)宮司の背中を押したい」
.
今回の申し入れについて、当事者の受け止めは様々だ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>5
在日歴代西郷隆盛誹謗中傷スレ+「会津プロパガンダ」スレ乱立犯(誤字脱字在日)
(アウアウ Sa3f-llS4)=(山陽地方)=重複スレ乱立厨=トンビ=アンチ会津=カンシチ=中野ジロキチ=馬場=護送さかな=プロガダンタ=プロパガン=讃えれて=悪魔の証明=自称、仙台人=Are you understand?
=俺の親戚はネイチブアメリカンだが?=中学で生徒会長だったが?=難事件 =嘘臭い理由=河北新報=地理板・仙台都市再開発スレ荒らし=西日本縄文コピペ荒らし=いじりる
=甘粕=丸山=史料提示=会津閉経ババア=キョンジュン=ジロシリアン=ジロリアン
=会津プロパガンダ=反日プロパガンダ←ココ!!
=ナチス白虎隊=ファシズム白虎隊=恩を仇で返す
=www=小保方AA=┐(´д`)┌ 顔文字=怒涛の×連投
※日本史、日本近代史、大河ドラマ、地理・人類学、速+、嫌儲等多数板に出入りし
コピペを貼る有名な狂人 大河板の通称「トンビ」
東京人になりすましながら環七をカンシチと呼んだことから「カンシチ」
日本史板では「アンチ会津」などと呼ばれる
※Yahoo知恵袋で自演疑惑(greco_se5○○、○re○o_se1500、gXXXo3500、○○ec○_se15000)
自称「山口旅行の経験がある者」「会津プロパガンダ」「今年山口長府移住を考えている」
しかし山口の高校の序列、名産や遊び場、果ては在日ヤクザ被差別部落に迄異常に詳しい
推定年齢 37〜8歳、33歳からハゲる
自律神経失調、生活保護、パニック障害、向精神薬・抗うつ剤等に精通
回答の9割まで女の話題と神経症・薬の話題
アナルをなめられるのを好む、18歳JKとLINE疑惑、仙台出身19歳JDに片思いしてキモがられ
mixiの彼氏持ちの女に横恋慕失恋、以来彼氏持ち女や仙台東北に極度の不信感を持ち敵視
知恵袋で連日罵倒を繰り返すがJCには犯罪誘発発言
中2家庭内暴力、18〜19の妹に欲情(妹結婚家族から絶縁)、小5で電気あんま自慰
※現在「震災歓喜は会津厨の仕業」と必死になすりつけ工作失敗
※知恵袋貼りや「会津厨長州厨の争い」を「自作自演」「どっちもどっち」と第三者偽装するも
長州を会津より勝たせたい無駄なプライドの高さで失敗
※最近は「甲州(武田)信州武士道」叩きにシフト 東北人を装い自演で会津叩きを続行 桜井庄太郎『名誉と恥辱』(法政大学出版局)P295より
明治新政府の官僚
其頃の地方の知事の勢力といったら、今の大臣どころでは無かった。
知事の管轄地内を巡回する時などは、土下座をして出迎えもすれば、又土下座を強制したものだ。
封建時代のお代官の権威と維新の浪人の蛮力を加えた暴威を振るい、何の事はない、
熊の胆と唐辛子とを混ぜて無理に口へ押込むような暴政を布くものもあった。
(『自由民権の憶出』) 「明治維新という過ち」
〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜
御所を砲撃し、天皇拉致まで企てた吉田松陰一派の長州テロリストたち
偽りに満ちた「近代日本」誕生の歴史
京都育ちの原田伊織著です 維新時の官軍賊軍とかは、まあどっちでもいい。
太平洋戦争で亡くなった英霊方を称揚するためにも、靖国に殉国者を等しくお祀りする
という神社さんになって欲しい・・・ >>8
歴史家でも何でもないサヨク爺の戯れ言じゃん 白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
長州人が差別したと嘘ついたのが司馬遼太郎。
司馬遼太郎の嘘に乗っかったのが
星亮一などの会津プロパガンダ制作者や
会津若松の商工会の連中。
司馬も星も若松の商工会も詐話師だわ! 「御所辺放火」計画については詳細な先行研究がある。
名城大学の原口清氏の成果である
(「禁門の変の一考察」『名城商学』46-2〜3、1996年)。
原口氏が使用した史料は、池田屋事件直後の
元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である。
(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)
在京の会津松平家老臣の書簡ならば、新選組ともきわめて近く
最も信用に足る史料の一つである。
原口氏はこの書簡を分析し、池田屋への出兵への経過を次のように述べる。
新選組が古高邸を襲撃したところ、甲冑10組程、鉄砲2〜3挺
長州人との往返の書類があった、そのなかに「機会を失しなわず様」と
記したものがあり、甚だ不審千万、きっと何か計画がある様子に見えた
その後何者かによって封印した土蔵が打破られ、甲冑や鉄砲が奪取られたことから
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので
すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し
会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。
原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという
記載が全くないことから、計画の存在を疑問視した。
そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に
古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと
突然「御所放火」が登場することを指摘する。その意味するところは実は御所辺放火計画はなかったのだが
慶喜らが周囲から長州人をはじめとする尊攘志士を弾圧したと
非難を受けることをかわすため(「史料的に確定は困難」とされてはいるが)
一・会・桑権力(慶喜、会津松平家、京都所司代桑名松平家の連立政権)の誰かが
何者からも長州人の弁護ができない取締りの理由として
6月9日ごろから御所辺放火計画が
でっちあげられた可能性が高いと結論づけるのである。 薩摩長州会津のタブーワード
日本の端っこや山奥
笑笑笑 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちるので、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心が招いたことで、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人達と縁を切って、新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 会津藩兵の蛮行
慶応4年
4月28日駒屋 守屋などで放火
5月10日中山村 竹ノ内村に放火
5月31日八幡村 富岡村に放火駒野村を襲撃
6月1日下守屋の民間を襲撃 金品強奪
10月7日亀ケ城に放火
会津戦争詳細年表より >>18
【官軍は上野に放火していた!無辜の市民を300人切り!そして玉川上水に毒を…】
840 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:18:31.34 ID:uz2UXnfS
長州藩士・杉山素輔は自身の部隊の残虐行為について詳細に証言している(「維新戦役実歴談」)
彼の部隊は下総方面で民家に放火し、助命を乞う敵兵(おそらく幕府歩兵)を片端から斬首した後
江戸に帰還するが、「暇を持て余し」上野戦争の前に江戸で狼藉の限りを尽くす
とうとう大村益次郎に呼び出され「どうもわが国の奴らは暴なことをしてならぬ」と叱責されたのに
「何構うことはない」などと開き直り、上野の戦争の時に
「賊も退却したについては全て放火してやれ」などと平気で放火をして
「平時においては火をつけると放火犯になって刑を受けるが、
戦争の時に火をつけるのは実に易いことで…非常に愉快に思いました」
「上野も団子坂も火を放ったままで消す者が誰もいないから燃え次第焼け次第でどんどん燃えている、
実に愉快でありました」
などと繰り返し、あきれ果てた回想をしている
杉山の部隊は翌日も上野周辺に繰り出し、
「印鑑を持っておらぬ奴は曖昧だからやれと言うので頭からぴしゃと打ち斬ってしまう
ずいぶん残酷なやり方でありました。その中に薩州土州でそういうことに遭った分の者が何でも三百何十人もあつた」
と、官軍による放火や大勢の虐殺が行われたことを証言している。
※当時、大総督府は江戸の失火を懸念していたが末端の兵士は↑にある通り
大村の言うことなんて全く聞かず平気で放火した模様
841 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:18:55.91 ID:uz2UXnfS
なお同書「東海道江戸方面」では長州藩出身参謀だった木梨精一郎が
「(下参謀)林通顕などは玉川上水に毒を流せと主張し、西郷は後で彼を呼び出し
あれは確かなことかと真面目に聞かれて取り消した」
という恐ろしい作戦案が浮上していたことを証言している。 >>20
grec○_se15000さん2015/11/20 23:46:35
私の記憶だと、戦後日本に残った
朝鮮人が245人だったと思います。
この朝鮮人達は、朝鮮半島が日本だった
頃から日本に住んでいるので、私個人は
永住してもいいように思ってます。
法的な事は解りませんが。 会津若松市の会社で社長の似顔絵を殴るという
ストレス解消法を実践wwwwww
実に会津のバカが考えそうな事だよなwww >>22
マルチコピペロボチョンジロキチ(山口下関在住メンヘラナマポ)
grec○_se15000さん2015/11/20 23:46:35
私の記憶だと、戦後日本に残った
朝鮮人が245人だったと思います。
この朝鮮人達は、朝鮮半島が日本だった
頃から日本に住んでいるので、私個人は
永住してもいいように思ってます。
法的な事は解りませんが。 >>24
>会津プロパガンダを総括しろよ
歴代西郷隆盛誹謗中傷スレ+「会津プロパガンダ」スレ乱立犯
(アウアウ Sa3f-llS4)=(山陽地方)=重複スレ乱立厨=トンビ=アンチ会津=カンシチ=中野ジロキチ=馬場=護送さかな=プロガダンタ=プロパガン=讃えれて=悪魔の証明=自称、仙台人=Are you understand?
=俺の親戚はネイチブアメリカンだが?=中学で生徒会長だったが?=難事件 =嘘臭い理由=河北新報=地理板・仙台都市再開発スレ荒らし=西日本縄文コピペ荒らし=いじりる
=甘粕=丸山=史料提示=会津閉経ババア=キョンジュン=ジロシリアン=ジロリアン
=会津プロパガンダ=反日プロパガンダ←ココ!!
=ナチス白虎隊=ファシズム白虎隊=恩を仇で返す
=www=小保方AA=┐(´д`)┌ 顔文字=怒涛の×連投
※日本史、日本近代史、大河ドラマ、地理・人類学、速+、嫌儲等多数板に出入りし
コピペを貼る有名な狂人 大河板の通称「トンビ」
東京人になりすましながら環七をカンシチと呼んだことから「カンシチ」
日本史板では「アンチ会津」などと呼ばれる
※Yahoo知恵袋で自演疑惑(greco_se5○○、○re○o_se1500、gXXXo3500、○○ec○_se15000)
自称「山口旅行の経験がある者」「会津プロパガンダ」「今年山口長府移住を考えている」
しかし山口の高校の序列、名産や遊び場、果ては在日ヤクザ被差別部落に迄異常に詳しい
推定年齢 38歳、33歳からハゲる
自律神経失調、生活保護、パニック障害、向精神薬・抗うつ剤等に精通
回答の9割まで女の話題と神経症・薬の話題
アナルをなめられるのを好む、18歳JKとLINE疑惑、仙台出身19歳JDに片思いしてキモがられ
mixiの彼氏持ちの女に横恋慕失恋、以来彼氏持ち女や仙台東北に極度の不信感を持ち敵視
知恵袋で連日罵倒を繰り返すがJCには犯罪誘発発言
中2家庭内暴力、18〜19の妹に欲情(妹結婚家族から絶縁)、小5で電気あんま自慰
※現在「震災歓喜は会津厨の仕業」と必死になすりつけ工作失敗
※知恵袋貼りや「会津厨長州厨の争い」を「自作自演」「どっちもどっち」と第三者偽装するも
長州を会津より勝たせたい無駄なプライドの高さで失敗
※最近は「甲州(武田)信州武士道」叩きにシフト 東北人を装い自演で会津叩きを続行 維新戦役実歴談によると
白虎隊士中二番隊に食料供給がなかったというのは
会津プロパガンダだった事が解った。
>会津藩士相馬直登の手記の
>次のような記述でした。
>「八月二十二日、未だ全癒これ無く
>病床に罷あり候ところ、猪苗代切迫の
>趣相聞こえ候に付、御城に罷り出で
>御機嫌伺い奉り、直に会所へ罷り出で
>郡奉行牧原奇平を十六橋へ出張せしめ
>居残りの者は終夜人足の配り並に
>兵量の配りを致し、黒川酒居共へ申し付け
>十六橋並に御城内諸番所共へ差配申付け候事」
>「白虎隊には兵糧のそなえがなかったので」と
>根拠もなく一般に固く信じられているので
>本書においてはくどいほど反証を述べました。
会津は本当、嘘ばっかしだよなwwwwww >>26
【官軍の徴発を恐れて逃げ隠れる住民たち!「歓迎された」は真っ赤なウソ】
843 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:20:42.68 ID:uz2UXnfS
やがて官軍が優勢となり会津若松攻めに我が只野村からも多数の男たちが人足に出た。
とくに会津落城後は「官軍の命により分捕り品」と称して、馬に付けるほどの貨財を自分の家へ運んで帰ってきた。
敗戦国会津はまことにお気の毒であり無情なことであった。その時の分捕り鉄瓶を今でも使っている人がいる。
明けて明治2年春、会津以外の地方に流行病が大変流行った。これを里人は「分捕疫病」といった…。
(中略)
官軍が村に多数入ってきたので、婦女子は危険を恐れて山中に隠れた。初めは本宮館(おおさ山)方面から、
棒芳山…といった所に隠れたが、しまいには遠く大久保、源田山付近までかくれた。
やがて男たちは会津方面へ官軍の人足に出て、何か不平がましいことを言うと
「人そう(人足)、そげんの事を申すと薩州候に申し上げるぞ」とにらまれ、腰のあたりの刀に手をやる。
おそろしい生殺与奪の権を持った官軍にはなすすべもなかったのである。
(「増戸治助翁聞書」)
※只野村は二本松藩領 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 >>28
9月23日 官軍人馬横川村へ相詰のこと
早速申入候、兼ねて相達置候通り、十五歳から六十歳まで人馬あるたけ横川村(現熱海町内)へ相詰候様可被申付候、
もし不参等有之おいては廻村のうえ厳重申付方有之候間、急度取斗可申候、以上
横川軍夫方より 大槻組各村へ
(大槻町・安斎文子家文書)
このようにして少年から老人まで動ける男は軍夫として強制動員の対象となり、その数は郡山周辺で数千人に達している
彼らは会津城下に入ると危険な運搬作業を強いられ戦死者が大勢出ており、
またこれを知らなかった家族が村方に押しかけて泣きわめくと言った惨状が呈された。 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 >>30
1 名前:野良ハムスター ★ 転載ダメ©2ch.net [ageteoff] :2016/08/30(火) 19:52:15.92 ID:CAP_USER9
自分が死んだと嘘をつき、香典をだまし取った疑いで男が逮捕されました。
山口市の無職・林俊彦容疑者(71)は去年3月、他人になりすまし、林容疑者自身が死んだと嘘をつき、男性(68)から香典名目で現金10万円をだまし取った疑いです。調べに対し、容疑を認めているということです。
警察は、林容疑者がこの男性から他にも架空の投資話などで現金をだまし取った疑いがあるとみて調べています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000082425.html 『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな? >>32
山田仙三という長州兵は二本松に入ると菓子屋の略奪に熱中する。
散々菓子を食ったあと大きな羊羹の箱を持ち帰ったら俺にもくれと隊友がせがみ菓子売のようになった。
その後で母成峠に入ったが、食糧が来ないので百姓家から唐茄子や米を奪って飯を食った。
峠を越した後はやっぱり放火する。
白井良三郎は干城隊で越後に出征したが、村松城下が燃え上がるのを目撃。
「敵が退いたからと言ってあんなに焼く理屈はない」と思って聞いたところ、
今度は米沢藩の放火だった。村松藩は米沢藩から脅されたが中々従わなかったので放火されたらしい。
佐藤保介も干城隊で、越後・会津の国境まで進軍して庄屋宅に宿泊するが、
池にコイを見つけるとさあ獲れと言って15,6匹も獲った。煮ようとしたが味噌も何もない。
百姓は食糧を持って逃げてしまったので分捕りもできず、まずいコイの味に失望して捨てた。
本田友一も越後に出征。第一次長岡攻防戦で強引な渡河を行ったが、
小者に「うまくやったら武士に取り立ててやる」とマッチ箱を渡して渡河させた
小者はやっぱり放火をして回るがやりすぎて捕まった。
本田によると会津、長岡、庄内の三藩の兵が最も強かったらしい。
河村楳治は長州第4大隊第1中隊で、杉山素輔と戦歴が重なる。
上野戦争の翌日に大小を指した立派な武士が通りかかったが、
自分は幕府方ではないというのを無視してその場で殺した。
小島荒一は越後方面に出征。
長岡城攻防戦のときに暗いと言って百姓家を何軒も放火して回る。
長岡が落ちたあと避難する行列に大砲をぶっ放してやった。
6月1日の見附杉の森の戦いで村松藩兵3人を捕虜にしたが面倒だから斬った。
戦争が終わったあと村松藩兵2人が迷子になってたのを捕まえてまた斬った。
初めて戦争に出た人らしく、降参するから助けてくれと言われたが面倒くさかった。
(杉山素輔の部隊も、彼の部隊も捕虜がかなりいたようだが全員殺している)
戦況が不利になり見附を放棄するが地元民には先へ進むと騙して撤退した 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子←星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 >>34
【東京から転居した新・山口県民は語る「心の深奥からの憎しみ」】
25 : 日本@名無史さん:2011/04/11(月) 22:24:11.30
自ら賊軍になったのは会津だけだろ、しかも自業自得。農民は官軍に味方したしな。
巻き込まれた福島の他の地方と一緒にしないでくれ迷惑だ。
放射能も会津より茨城北部の方が被害大きいわ
被害者意識も大概にしろ
30 : 日本@名無史さん:2011/04/13(水) 08:34:24.54
会津恨族は地震の地割れに落ちろw
52 : 日本@名無史さん:2011/05/03(火) 10:55:30.72
福島県民に天罰が下った。
59 : 日本@名無史さん:2011/07/15(金) 14:45:51.85
やっぱり福島(会津)は賊徒だったわw
全国からの義捐を仇で返しとは。。。
長州の会津討伐は手ぬるかったな。
92 : 日本@名無史さん:2014/02/03(月) 18:45:49.90
東北の放射能汚染瓦礫を無理やりに西日本で焼却させて、
きれいだった西日本まで放射能汚染させたのは東北だ。
いまさら、何で関西へ逃げて来たいのだ。
この臆病者が。
日本人なら、そこで潔く死ね!
東北というだけで、感覚的拒絶反応がこちらではごく自然に沸き上がって来るよ。
これは、けっして差別ではない。←注目!
人為的に虐げられ命を損耗させられし者の、心の深奥からの憎しみだ >>36=>>1
【官軍の徴発を恐れて逃げ隠れる住民たち!「歓迎された」は真っ赤なウソ】
843 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:20:42.68 ID:uz2UXnfS
やがて官軍が優勢となり会津若松攻めに我が只野村からも多数の男たちが人足に出た。
とくに会津落城後は「官軍の命により分捕り品」と称して、馬に付けるほどの貨財を自分の家へ運んで帰ってきた。
敗戦国会津はまことにお気の毒であり無情なことであった。その時の分捕り鉄瓶を今でも使っている人がいる。
明けて明治2年春、会津以外の地方に流行病が大変流行った。これを里人は「分捕疫病」といった…。
(中略)
官軍が村に多数入ってきたので、婦女子は危険を恐れて山中に隠れた。初めは本宮館(おおさ山)方面から、
棒芳山…といった所に隠れたが、しまいには遠く大久保、源田山付近までかくれた。
やがて男たちは会津方面へ官軍の人足に出て、何か不平がましいことを言うと
「人そう(人足)、そげんの事を申すと薩州候に申し上げるぞ」とにらまれ、腰のあたりの刀に手をやる。
おそろしい生殺与奪の権を持った官軍にはなすすべもなかったのである。
(「増戸治助翁聞書」)
※只野村は二本松藩領 維新戦役実歴談によると
白虎隊士中二番隊に食料供給がなかったというのは
会津プロパガンダだった事が解った。
>会津藩士相馬直登の手記の
>次のような記述でした。
>「八月二十二日、未だ全癒これ無く
>病床に罷あり候ところ、猪苗代切迫の
>趣相聞こえ候に付、御城に罷り出で
>御機嫌伺い奉り、直に会所へ罷り出で
>郡奉行牧原奇平を十六橋へ出張せしめ
>居残りの者は終夜人足の配り並に
>兵量の配りを致し、黒川酒居共へ申し付け
>十六橋並に御城内諸番所共へ差配申付け候事」
>「白虎隊には兵糧のそなえがなかったので」と
>根拠もなく一般に固く信じられているので
>本書においてはくどいほど反証を述べました。
会津は本当、嘘ばっかしだよなwwwwww 明治2年5月11日
旧幕軍(会津)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より >>41
【「官軍の蛮行」を証言する長州藩士たち〜>>41大ショックでスルー】
883 :日本@名無史さん:2016/06/08(水) 13:43:34.55
維新戦役実歴談を読んでるとなかなか面白い
越後では明かりがないからと言って民家に放火。
小倉でも人家に放火したがなかなか焼けないから障子を外して
炭俵を積んでやっと火が付いたと言って喜ぶ。
愉快だったようだが脱隊騒動のせいで朝廷からは何もご褒美が貰えなかったらしい
斎藤太郎という長州藩士の話がことに面白い。
白河では担架を担がなければ切ると言って人夫を脅し、
糧食が足りないので「分捕り」と称して「各々勝手に」その辺で略奪してくる。
あげくの果てに薩摩兵がスパイ狩りと称して相撲取りを殺してその肝を取って提灯に入れて持ってきて
「煮て食うからぜひ来い」と誘われ、それを実際に煮て「煮えたら来るぞ、煮えたら来い」などと言ってたところ、
戦友が来て「食うたら目が飛び出る」と止めたのでやめて大酒を飲んだら1週間も頭痛がしたなどと言ったあとで
「野蛮極まりたることであったが士気は強盛であった」と言っている。
その後で二本松城に入ると略奪を始め、着物はないかと言って長持をドカドカ叩き壊し、着ていたものを脱ぎ捨てて
紋付から褌まで全部取り替える。薩摩兵も奥に行って赤い縮緬の着物を引っ張り出し「これを見い、いいだろう」と自慢する。
薩摩には「分捕り隊」というものがあったが、掠奪に熱中しているうちに城に火がついて命からがら逃げ出した。
(火薬庫に火が付いたらしい)
会津討ち入り当日、諏訪の森という所で隊長らしき人が戦死したのに目をつけ、
その人が指揮旗を持ち立派な刀や時計を持っていたので戦友が時計を欲しがった
そこで戦友に時計を与え自分は刀を分捕って刀屋に見せびらかしたところ
「これはどこから取ってきた刀か」と刀屋に問い詰められる。
斎藤さんは「いや俺は知らないよ、友達の刀だ」とシラを切ったところ、
刀屋は「これは私のお出入りの旦那の注文でこしらえたのだ、銘はこうでございましょう」
とさらに追及されついに分捕りを断念。 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子←星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 「スポーツは喜びです」を基本理念に
1997年に誕生したJヴィレッジは、
佐藤雄平・福島県知事が社長を務める
「日本フットボールビレッジ」が運営。
会社概要を見ると、副社長には東京電力の
皷紀男副社長、清水正孝前社長も
取締役に名を連ねている。
http://bizmakoto.jp/makoto/spv/1111/02/news008_2.html
今の知事、堀内もビィレッジの社長で
副社長は東電の人間だよwwwwwwwwwwwwwwwww
もういい加減、福島がどういう地域か理解しろよwwww
福島は会津プロパガンダで反日とズブズブ
原発で東電とズブズブなんだよwwww かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 武士道とか嘘だよな。だってこんなに潔くないんだもん。 カッコ悪い奴がカッコつけてるだけ。
それが会津武士道。 総括って明治政府にテロして負けて
助けてもらってこれ以上何を総括すんだよ?
会津は本当キチガイだよな。 朝鮮人も日本に対して同じ事を言うよね。
歴史の総括と。 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 悪いのは、スターリンとルーズベルト
あと白人様キリスト教徒だと思うけど 25歳看護師です、女性の友達がほしいのですが。暇の方連絡まってます。good-par.shiina@docomo.ne.jp千葉県八街市八街ほ973-13椎名 教泰043-442-1501、090-3202-8219 総括じゃなくて会津プロパガンダのゴリ押しがしたいんだろ。 だな。地場産業だもんな。
会津はやってる事が反日と同じだな。 ・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より 会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。 会津プロパガンダの会津は創作だからな
実際の会津は蛮行三昧だよ 総括って?150年前に戦争終わってるのに。
会津プロパガンダ、反日プロパガンダの
印象工作はもういいよ 現代人が批判することじゃなくね?
会津プロパガンダ洗脳者にも言える事だが 会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 日本人は
時間をかけて、怨みをなくし
仲良く暮らすことだよね まあペリーが来たのが原因だわな
でも会津プロパガンダはペリーが原因じゃなく
会津人の朝鮮的メンタルが原因 何でループしてんのか謎だが現代人が言っても仕方ないよ。 吉田松陰は会津に来てるし
吉田松陰が学んだ山鹿流兵学の創始者・山鹿素行も会津出身だし
会津の秋月悌次郎も長州の奥平謙輔と交流があったし(萩の乱の人だけど)
長州の山田顕義の長女・梅子は松平容保の三男・松平英夫と結婚したし
松平容保は水戸徳川家の徳川治保の子孫だし
容保の養子も水戸徳川家の徳川斉昭の十九男・喜徳だし
容保は桜田門外の変が起こった際には水戸藩討伐に反対し幕府と水戸藩との調停に努めたし
徳川慶喜ももちろん水戸徳川家 会津と長州は仲良しwwwww
会津の容保(と慶喜)が
薩長と共に明治維新を起こした側の水戸とズ〜ブズブwwwww
会津は捨て駒にされただけなのが丸わかりですね〜wwwww
ロスチャイルドに取りあえず戦争してお前負けとけと命令されてたわけでwwwww 白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
会津歴史研究会会長の井上昌威氏の研究により
20人切腹19名死亡の嘘が覆りました。
勘違い切腹も嘘です。飯沼貞吉の回顧録に
勘違い切腹は出てきません。
そうなると疑問視されるのは飯盛山にある
隊士19人の墓ですよねw
皆さん、会津プロパガンダによる嘘
もういい加減気づいてください。
会津プロパガンダに乗っかってるのは
パヨクであることもいい加減気づいてください。
パヨクは反日です。 二番目の山羊より
>昭和30年代まで、埋葬禁止説なんて
>無かったんですね。
>母が昭和17年生ですから
>中学くらいの時から刷り込まれたワケか。
>やっぱり「東北 vs 中央」の構図なんて、
>列島分断工作に過ぎないんだ(笑)
会津プロパガンダ、反日プロパガンダの方々
まともな会津人は気づき始めてますよwwwwww 総括?
和平交渉蹴って政府の交渉人拉致して戦争ふっかけて負けたんだからそれで終わりだろ。
戦争は最終手段だぞ。本当にバカなんだな会津って。 【アミシャーブ計画】 日本人にとって骨の髄まで凍り付くような恐ろしい話! 【スタクスネット攻撃】
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1525405421/l50
神道、皇室、ダブル解体の危機! 会津は無理な要求をする
自分たちの英雄は英霊にするが
西南の役の英雄は英霊にすることを拒否 会津の嘘はバレてる
会津が売国しようと企てたのもバレてる
会津が民間人相手にテロしてたのもバレてる
白虎隊の嘘もバレてる
なのに被害者商法をやめない会津
糞以外の言葉が見つからない 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の告発
色川高志「文句があったらいつでも俺にサリンをかけに来やがれっ!! そんな野郎は俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状)
■ 地下鉄サリン事件
オウム真理教は当時「サリン」を作ることはできなかった。
正確に言えば 「作る設備」を持っていなかった。
神区一色村の設備で作れば 全員死んでいる。「ガラクタな設備」である。
神区一色の設備を捜査したのが「警視庁」であるが さっさと「解体撤去」している。
サリンは天皇権力から与えられた。
正確に言えば オウム真理教に潜入した工作員が 「サリン」をオウムに与えた。
オウム真理教には 多数の創価学会信者と公安警察が入り込んでいた。
地下鉄サリン事件を起こせば オウムへの強制捜査が「遅れる」という策を授け「地下鉄サリン事件」を誘導したのは
天皇公安警察と創価学会である。
天皇は その体質上 大きな「事件」を欲している。
オウム科学省のトップは 日本刀で殺された「村井」という人物だ。
村井は「サリン」授受の経緯を知る人物なので 「日本刀」で殺された。
http://d.hatena.ne.jp/kouhou999/20150224 外国人が見た会津世直し一揆
軍医として新政府軍と行動をともにし
かつイギリス公使ハリー・パークスの
調査員でもあったイギリス人医師
ウィリアム・ウィリスが一揆に遭遇しており
一揆による打ちこわしこそ徹底的であったが
統制は取れており、過失によって死者が
出ることもあったが例外に
属することであると伝えている。
また、19日には旧藩主
松平容保・喜徳父子が東京に
護送されることになったが
領民は戦争を引き起こしながら降伏後
切腹もせずに生き延びた父子に対する
尊敬の念を失い、あらゆる方面で冷たい
無関心が示されたこと、武士は容保に
同情したが、農民は護送される
藩主父子に対して面も背けず野良仕事を
続けていたことを記している。
たとえ容保やその家臣が
恩赦を受けても支配者として会津に
戻ることは不可能であろう
とその手記をしめくくっている。 自然災害ってすごいなあ。面白いなあと思います。地球の神秘ですよね。
いつまでも逃げず死亡者も多かったですしね。
阪神大震災の時もそうでしたが
大阪兵庫の建設屋は手抜き工事が多すぎそれを平気で見逃す建築士も関西には多いですよ。
浪速建設様の見解と致しましては
三重 八尾市で一戸建て不動産物件をお探しら
【浪速建設株式会社】にお任せください。
新築物件から中古物件まで、自社物件なので仲介手数料無料です。
【 浪速建設 一級建築士 岸本晃 Akira Kishimoto】で検索
検索:村上康雄 久保峰広 赤田真一 岡田常路?? 恒成建設 五色建設 梅川建設 翁有建設 口コミ 評判 アパマンショップ八尾店?? 注文住宅 競売
任意売却からすま相談室 烏丸リアルマネジメント株式会社 大阪営業所 山城町 ソレイユメゾン 津西ひかりまち uj 策士で陰謀好き(ただし失策に次ぐ失策)
天皇を利用しのしあがる(京都守護職)
悪を突き通す(民間人相手にテロしまくり)
悪を善と言い押しきる(会津プロパガンダ)
まさしく狂人(外国に国土を売却しようとする)
怨念を長州、現代の山口県に向ける(会津プロパガンダ) まともな福島県民のコメント
>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。 >【韓国】私たちは明治維新の最大の被害者
>いつまで日本の見えない刀で
>刺されなければならないのか?
会津プロパガンダは反日プロパガンダ
やってるのはパヨク
パヨクは韓国大好き
皆もう気づこうぜ ここに湧いてる反会津レスをキチガイ連投してる気狂いは日本人じゃないだろ むしろ会津プロパガンダこそ日本人の美徳に反すると思うんだが… 本当は謎がない「幕末維新史」
幕末から明治にかけての戊辰戦争の影響で
福島県人(会津)と山口県人(長州)の
仲が悪いといわれるが
それは後の創作が影響している。
会津戦争のとき会津の庶民が
あまりにも官軍に協力的だったことは
司令官の板垣退助が驚くほどであった。
新撰組は京都の治安を守って
住民から感謝されていたというのはウソで
警察に雇われたヤクザようなものだった。
池田屋事件はヤクザの出入り同然で
京都市民から大反感をくらっていた。
このように一般的に語られている
幕末維新史には、のちにつくられた
創作が非常に多い。
歴史小説の影響も大きい。
そんな中、歴史分野で私の師匠にあたる
八幡和郎先生が
『本当は謎がない「幕末維新史』という
本を出版された。
小説や大河ドラマで語られるような
つくられた歴史と、本当の歴史を
整理した内容となっており
意外な幕末史の姿が明らかとなり
非常に勉強になる。