【大東亜論】靖国神社 「賊軍」合祀計画に会津出身者 「戊辰戦争の総括が必要」【英霊方】 [無断転載禁止]©2ch.net
靖国神社 「賊軍」合祀計画に会津出身者 「戊辰戦争の総括が必要」
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/news plus/1475624014/
2019年に創立150周年を迎える靖国神社に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。
つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、
西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。
だが、彼らの合祀を求める会を国会議員らが立ち上げ、靖国神社に申し入れをするというのだ。
発起人を務めるのは保守派の重鎮、亀井静香・衆院議員。そのほか森喜朗氏や福田康夫氏ら首相経験者、
二階俊博・自民党幹事長ら与党幹部、さらに、野党議員など70人を超える政治家の賛同を得ているという。
.
政界重鎮たちによる申し入れは無視できない重みがありそうだが、そもそも靖国神社への合祀は可能なのか。
靖国神社は、この動きについて「存じておりません」とした上で、「当神社は明治2年の御創建から終戦に至るまで、
当時の国の合祀判断に基づき、その都度合祀が重ねられてまいりました。当時に遡り、その基準を変更することはございません」と否定的だ。
だが戦後、靖国神社は国家機関から民間の宗教法人となった。そのため、合祀の可否は神社の最高責任者である宮司の判断に委ねられる部分が大きい。
1978年10月には、当時の松平永芳宮司の判断で、A級戦犯14人が合祀されている。亀井氏は自信を見せる。
.
「A級戦犯とは異なり、中国も文句は言わないだろう。神社と一体となって事業を行なう靖国神社崇敬奉賛会の理解が必要なので、
同会の扇千景会長(元国交相)にも根回しを進めている。ただし、最終的な権限は宮司にあるはずなので、徳川(康久)宮司の背中を押したい」
.
今回の申し入れについて、当事者の受け止めは様々だ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 明治維新後、司法卿として司法制度確立に尽力した江藤新平は征韓論を唱えた西郷隆盛に同調して下野した後、
「佐賀の乱」を起こして敗れた「賊軍」だが、佐賀県選出の原口一博・衆院議員(民進党)は合祀に賛同し、提出者を買って出た。
「『乱』という表現は支配者サイドからの観点であり、佐賀県民は江藤の反乱を『佐賀の乱』ではなく、『佐賀の役』と言います。
支配者側の一方的な見方ではなく、日本の夜明けのために命を失った方々を改めて評価するのは重要なことです。
英霊を鎮魂する場である靖国に敗者を合祀することで、平和への祈りにもなるはずです」
.
一方、戊辰戦争の「賊軍」代表、会津出身の小熊慎司・衆院議員(民進党)は、「合祀には賛成」としつつも、複雑な思いをのぞかせる。
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「戊辰戦争では会津側の戦死者が長期間、放置されるなど非人道的行為もあった。1864年の蛤御門の変では、会津と薩摩が御所を守り、長州が御所に発砲した賊軍です。
それなのに維新後、その長州で維新への功績もない人物までが祀られたのは明らかにおかしい。単なる官軍と賊軍の戦いという見方を改めるためにも、合祀の前に戊辰戦争の総括が必要です」
.
会津藩が戊辰戦争で降伏した9月22日に会津で行なわれる会津戊辰戦争慰霊の集いでは、さっそくこの話題が上がったという。
しかしながら、合祀は靖国神社の意義を揺るがしかねない問題を孕む。
『靖国誕生 幕末動乱から生まれた招魂社』の著者で歴史家の堀雅昭氏が指摘する。
.
「靖国神社は紛れもなく、明治維新の官軍vs賊軍という戦いの延長線上にある神社です。西郷以下、西南戦争を戦った面々は鹿児島の照国神社に祀られている。
それぞれの故郷で祀られ、語り継がれることで、賊軍として戦った意味や、維新の『負の側面』が語り継がれます。
安易な合祀は、賊軍側の行為まで蔑ろにしかねない。なによりこれを認めたら、靖国神社が依って立つ歴史的基盤がおかしくなってしまいます」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161005-00000003-pseven-soci >>5
在日歴代西郷隆盛誹謗中傷スレ+「会津プロパガンダ」スレ乱立犯(誤字脱字在日)
(アウアウ Sa3f-llS4)=(山陽地方)=重複スレ乱立厨=トンビ=アンチ会津=カンシチ=中野ジロキチ=馬場=護送さかな=プロガダンタ=プロパガン=讃えれて=悪魔の証明=自称、仙台人=Are you understand?
=俺の親戚はネイチブアメリカンだが?=中学で生徒会長だったが?=難事件 =嘘臭い理由=河北新報=地理板・仙台都市再開発スレ荒らし=西日本縄文コピペ荒らし=いじりる
=甘粕=丸山=史料提示=会津閉経ババア=キョンジュン=ジロシリアン=ジロリアン
=会津プロパガンダ=反日プロパガンダ←ココ!!
=ナチス白虎隊=ファシズム白虎隊=恩を仇で返す
=www=小保方AA=┐(´д`)┌ 顔文字=怒涛の×連投
※日本史、日本近代史、大河ドラマ、地理・人類学、速+、嫌儲等多数板に出入りし
コピペを貼る有名な狂人 大河板の通称「トンビ」
東京人になりすましながら環七をカンシチと呼んだことから「カンシチ」
日本史板では「アンチ会津」などと呼ばれる
※Yahoo知恵袋で自演疑惑(greco_se5○○、○re○o_se1500、gXXXo3500、○○ec○_se15000)
自称「山口旅行の経験がある者」「会津プロパガンダ」「今年山口長府移住を考えている」
しかし山口の高校の序列、名産や遊び場、果ては在日ヤクザ被差別部落に迄異常に詳しい
推定年齢 37〜8歳、33歳からハゲる
自律神経失調、生活保護、パニック障害、向精神薬・抗うつ剤等に精通
回答の9割まで女の話題と神経症・薬の話題
アナルをなめられるのを好む、18歳JKとLINE疑惑、仙台出身19歳JDに片思いしてキモがられ
mixiの彼氏持ちの女に横恋慕失恋、以来彼氏持ち女や仙台東北に極度の不信感を持ち敵視
知恵袋で連日罵倒を繰り返すがJCには犯罪誘発発言
中2家庭内暴力、18〜19の妹に欲情(妹結婚家族から絶縁)、小5で電気あんま自慰
※現在「震災歓喜は会津厨の仕業」と必死になすりつけ工作失敗
※知恵袋貼りや「会津厨長州厨の争い」を「自作自演」「どっちもどっち」と第三者偽装するも
長州を会津より勝たせたい無駄なプライドの高さで失敗
※最近は「甲州(武田)信州武士道」叩きにシフト 東北人を装い自演で会津叩きを続行 桜井庄太郎『名誉と恥辱』(法政大学出版局)P295より
明治新政府の官僚
其頃の地方の知事の勢力といったら、今の大臣どころでは無かった。
知事の管轄地内を巡回する時などは、土下座をして出迎えもすれば、又土下座を強制したものだ。
封建時代のお代官の権威と維新の浪人の蛮力を加えた暴威を振るい、何の事はない、
熊の胆と唐辛子とを混ぜて無理に口へ押込むような暴政を布くものもあった。
(『自由民権の憶出』) 「明治維新という過ち」
〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜
御所を砲撃し、天皇拉致まで企てた吉田松陰一派の長州テロリストたち
偽りに満ちた「近代日本」誕生の歴史
京都育ちの原田伊織著です 維新時の官軍賊軍とかは、まあどっちでもいい。
太平洋戦争で亡くなった英霊方を称揚するためにも、靖国に殉国者を等しくお祀りする
という神社さんになって欲しい・・・ >>8
歴史家でも何でもないサヨク爺の戯れ言じゃん 白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
長州人が差別したと嘘ついたのが司馬遼太郎。
司馬遼太郎の嘘に乗っかったのが
星亮一などの会津プロパガンダ制作者や
会津若松の商工会の連中。
司馬も星も若松の商工会も詐話師だわ! 「御所辺放火」計画については詳細な先行研究がある。
名城大学の原口清氏の成果である
(「禁門の変の一考察」『名城商学』46-2〜3、1996年)。
原口氏が使用した史料は、池田屋事件直後の
元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である。
(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)
在京の会津松平家老臣の書簡ならば、新選組ともきわめて近く
最も信用に足る史料の一つである。
原口氏はこの書簡を分析し、池田屋への出兵への経過を次のように述べる。
新選組が古高邸を襲撃したところ、甲冑10組程、鉄砲2〜3挺
長州人との往返の書類があった、そのなかに「機会を失しなわず様」と
記したものがあり、甚だ不審千万、きっと何か計画がある様子に見えた
その後何者かによって封印した土蔵が打破られ、甲冑や鉄砲が奪取られたことから
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので
すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し
会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。
原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという
記載が全くないことから、計画の存在を疑問視した。
そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に
古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと
突然「御所放火」が登場することを指摘する。その意味するところは実は御所辺放火計画はなかったのだが
慶喜らが周囲から長州人をはじめとする尊攘志士を弾圧したと
非難を受けることをかわすため(「史料的に確定は困難」とされてはいるが)
一・会・桑権力(慶喜、会津松平家、京都所司代桑名松平家の連立政権)の誰かが
何者からも長州人の弁護ができない取締りの理由として
6月9日ごろから御所辺放火計画が
でっちあげられた可能性が高いと結論づけるのである。 薩摩長州会津のタブーワード
日本の端っこや山奥
笑笑笑 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちるので、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心が招いたことで、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人達と縁を切って、新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 会津藩兵の蛮行
慶応4年
4月28日駒屋 守屋などで放火
5月10日中山村 竹ノ内村に放火
5月31日八幡村 富岡村に放火駒野村を襲撃
6月1日下守屋の民間を襲撃 金品強奪
10月7日亀ケ城に放火
会津戦争詳細年表より >>18
【官軍は上野に放火していた!無辜の市民を300人切り!そして玉川上水に毒を…】
840 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:18:31.34 ID:uz2UXnfS
長州藩士・杉山素輔は自身の部隊の残虐行為について詳細に証言している(「維新戦役実歴談」)
彼の部隊は下総方面で民家に放火し、助命を乞う敵兵(おそらく幕府歩兵)を片端から斬首した後
江戸に帰還するが、「暇を持て余し」上野戦争の前に江戸で狼藉の限りを尽くす
とうとう大村益次郎に呼び出され「どうもわが国の奴らは暴なことをしてならぬ」と叱責されたのに
「何構うことはない」などと開き直り、上野の戦争の時に
「賊も退却したについては全て放火してやれ」などと平気で放火をして
「平時においては火をつけると放火犯になって刑を受けるが、
戦争の時に火をつけるのは実に易いことで…非常に愉快に思いました」
「上野も団子坂も火を放ったままで消す者が誰もいないから燃え次第焼け次第でどんどん燃えている、
実に愉快でありました」
などと繰り返し、あきれ果てた回想をしている
杉山の部隊は翌日も上野周辺に繰り出し、
「印鑑を持っておらぬ奴は曖昧だからやれと言うので頭からぴしゃと打ち斬ってしまう
ずいぶん残酷なやり方でありました。その中に薩州土州でそういうことに遭った分の者が何でも三百何十人もあつた」
と、官軍による放火や大勢の虐殺が行われたことを証言している。
※当時、大総督府は江戸の失火を懸念していたが末端の兵士は↑にある通り
大村の言うことなんて全く聞かず平気で放火した模様
841 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:18:55.91 ID:uz2UXnfS
なお同書「東海道江戸方面」では長州藩出身参謀だった木梨精一郎が
「(下参謀)林通顕などは玉川上水に毒を流せと主張し、西郷は後で彼を呼び出し
あれは確かなことかと真面目に聞かれて取り消した」
という恐ろしい作戦案が浮上していたことを証言している。 >>20
grec○_se15000さん2015/11/20 23:46:35
私の記憶だと、戦後日本に残った
朝鮮人が245人だったと思います。
この朝鮮人達は、朝鮮半島が日本だった
頃から日本に住んでいるので、私個人は
永住してもいいように思ってます。
法的な事は解りませんが。 会津若松市の会社で社長の似顔絵を殴るという
ストレス解消法を実践wwwwww
実に会津のバカが考えそうな事だよなwww >>22
マルチコピペロボチョンジロキチ(山口下関在住メンヘラナマポ)
grec○_se15000さん2015/11/20 23:46:35
私の記憶だと、戦後日本に残った
朝鮮人が245人だったと思います。
この朝鮮人達は、朝鮮半島が日本だった
頃から日本に住んでいるので、私個人は
永住してもいいように思ってます。
法的な事は解りませんが。 >>24
>会津プロパガンダを総括しろよ
歴代西郷隆盛誹謗中傷スレ+「会津プロパガンダ」スレ乱立犯
(アウアウ Sa3f-llS4)=(山陽地方)=重複スレ乱立厨=トンビ=アンチ会津=カンシチ=中野ジロキチ=馬場=護送さかな=プロガダンタ=プロパガン=讃えれて=悪魔の証明=自称、仙台人=Are you understand?
=俺の親戚はネイチブアメリカンだが?=中学で生徒会長だったが?=難事件 =嘘臭い理由=河北新報=地理板・仙台都市再開発スレ荒らし=西日本縄文コピペ荒らし=いじりる
=甘粕=丸山=史料提示=会津閉経ババア=キョンジュン=ジロシリアン=ジロリアン
=会津プロパガンダ=反日プロパガンダ←ココ!!
=ナチス白虎隊=ファシズム白虎隊=恩を仇で返す
=www=小保方AA=┐(´д`)┌ 顔文字=怒涛の×連投
※日本史、日本近代史、大河ドラマ、地理・人類学、速+、嫌儲等多数板に出入りし
コピペを貼る有名な狂人 大河板の通称「トンビ」
東京人になりすましながら環七をカンシチと呼んだことから「カンシチ」
日本史板では「アンチ会津」などと呼ばれる
※Yahoo知恵袋で自演疑惑(greco_se5○○、○re○o_se1500、gXXXo3500、○○ec○_se15000)
自称「山口旅行の経験がある者」「会津プロパガンダ」「今年山口長府移住を考えている」
しかし山口の高校の序列、名産や遊び場、果ては在日ヤクザ被差別部落に迄異常に詳しい
推定年齢 38歳、33歳からハゲる
自律神経失調、生活保護、パニック障害、向精神薬・抗うつ剤等に精通
回答の9割まで女の話題と神経症・薬の話題
アナルをなめられるのを好む、18歳JKとLINE疑惑、仙台出身19歳JDに片思いしてキモがられ
mixiの彼氏持ちの女に横恋慕失恋、以来彼氏持ち女や仙台東北に極度の不信感を持ち敵視
知恵袋で連日罵倒を繰り返すがJCには犯罪誘発発言
中2家庭内暴力、18〜19の妹に欲情(妹結婚家族から絶縁)、小5で電気あんま自慰
※現在「震災歓喜は会津厨の仕業」と必死になすりつけ工作失敗
※知恵袋貼りや「会津厨長州厨の争い」を「自作自演」「どっちもどっち」と第三者偽装するも
長州を会津より勝たせたい無駄なプライドの高さで失敗
※最近は「甲州(武田)信州武士道」叩きにシフト 東北人を装い自演で会津叩きを続行 維新戦役実歴談によると
白虎隊士中二番隊に食料供給がなかったというのは
会津プロパガンダだった事が解った。
>会津藩士相馬直登の手記の
>次のような記述でした。
>「八月二十二日、未だ全癒これ無く
>病床に罷あり候ところ、猪苗代切迫の
>趣相聞こえ候に付、御城に罷り出で
>御機嫌伺い奉り、直に会所へ罷り出で
>郡奉行牧原奇平を十六橋へ出張せしめ
>居残りの者は終夜人足の配り並に
>兵量の配りを致し、黒川酒居共へ申し付け
>十六橋並に御城内諸番所共へ差配申付け候事」
>「白虎隊には兵糧のそなえがなかったので」と
>根拠もなく一般に固く信じられているので
>本書においてはくどいほど反証を述べました。
会津は本当、嘘ばっかしだよなwwwwww >>26
【官軍の徴発を恐れて逃げ隠れる住民たち!「歓迎された」は真っ赤なウソ】
843 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:20:42.68 ID:uz2UXnfS
やがて官軍が優勢となり会津若松攻めに我が只野村からも多数の男たちが人足に出た。
とくに会津落城後は「官軍の命により分捕り品」と称して、馬に付けるほどの貨財を自分の家へ運んで帰ってきた。
敗戦国会津はまことにお気の毒であり無情なことであった。その時の分捕り鉄瓶を今でも使っている人がいる。
明けて明治2年春、会津以外の地方に流行病が大変流行った。これを里人は「分捕疫病」といった…。
(中略)
官軍が村に多数入ってきたので、婦女子は危険を恐れて山中に隠れた。初めは本宮館(おおさ山)方面から、
棒芳山…といった所に隠れたが、しまいには遠く大久保、源田山付近までかくれた。
やがて男たちは会津方面へ官軍の人足に出て、何か不平がましいことを言うと
「人そう(人足)、そげんの事を申すと薩州候に申し上げるぞ」とにらまれ、腰のあたりの刀に手をやる。
おそろしい生殺与奪の権を持った官軍にはなすすべもなかったのである。
(「増戸治助翁聞書」)
※只野村は二本松藩領 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 >>28
9月23日 官軍人馬横川村へ相詰のこと
早速申入候、兼ねて相達置候通り、十五歳から六十歳まで人馬あるたけ横川村(現熱海町内)へ相詰候様可被申付候、
もし不参等有之おいては廻村のうえ厳重申付方有之候間、急度取斗可申候、以上
横川軍夫方より 大槻組各村へ
(大槻町・安斎文子家文書)
このようにして少年から老人まで動ける男は軍夫として強制動員の対象となり、その数は郡山周辺で数千人に達している
彼らは会津城下に入ると危険な運搬作業を強いられ戦死者が大勢出ており、
またこれを知らなかった家族が村方に押しかけて泣きわめくと言った惨状が呈された。 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 >>30
1 名前:野良ハムスター ★ 転載ダメ©2ch.net [ageteoff] :2016/08/30(火) 19:52:15.92 ID:CAP_USER9
自分が死んだと嘘をつき、香典をだまし取った疑いで男が逮捕されました。
山口市の無職・林俊彦容疑者(71)は去年3月、他人になりすまし、林容疑者自身が死んだと嘘をつき、男性(68)から香典名目で現金10万円をだまし取った疑いです。調べに対し、容疑を認めているということです。
警察は、林容疑者がこの男性から他にも架空の投資話などで現金をだまし取った疑いがあるとみて調べています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000082425.html 『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな? >>32
山田仙三という長州兵は二本松に入ると菓子屋の略奪に熱中する。
散々菓子を食ったあと大きな羊羹の箱を持ち帰ったら俺にもくれと隊友がせがみ菓子売のようになった。
その後で母成峠に入ったが、食糧が来ないので百姓家から唐茄子や米を奪って飯を食った。
峠を越した後はやっぱり放火する。
白井良三郎は干城隊で越後に出征したが、村松城下が燃え上がるのを目撃。
「敵が退いたからと言ってあんなに焼く理屈はない」と思って聞いたところ、
今度は米沢藩の放火だった。村松藩は米沢藩から脅されたが中々従わなかったので放火されたらしい。
佐藤保介も干城隊で、越後・会津の国境まで進軍して庄屋宅に宿泊するが、
池にコイを見つけるとさあ獲れと言って15,6匹も獲った。煮ようとしたが味噌も何もない。
百姓は食糧を持って逃げてしまったので分捕りもできず、まずいコイの味に失望して捨てた。
本田友一も越後に出征。第一次長岡攻防戦で強引な渡河を行ったが、
小者に「うまくやったら武士に取り立ててやる」とマッチ箱を渡して渡河させた
小者はやっぱり放火をして回るがやりすぎて捕まった。
本田によると会津、長岡、庄内の三藩の兵が最も強かったらしい。
河村楳治は長州第4大隊第1中隊で、杉山素輔と戦歴が重なる。
上野戦争の翌日に大小を指した立派な武士が通りかかったが、
自分は幕府方ではないというのを無視してその場で殺した。
小島荒一は越後方面に出征。
長岡城攻防戦のときに暗いと言って百姓家を何軒も放火して回る。
長岡が落ちたあと避難する行列に大砲をぶっ放してやった。
6月1日の見附杉の森の戦いで村松藩兵3人を捕虜にしたが面倒だから斬った。
戦争が終わったあと村松藩兵2人が迷子になってたのを捕まえてまた斬った。
初めて戦争に出た人らしく、降参するから助けてくれと言われたが面倒くさかった。
(杉山素輔の部隊も、彼の部隊も捕虜がかなりいたようだが全員殺している)
戦況が不利になり見附を放棄するが地元民には先へ進むと騙して撤退した 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
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2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 >>34
【東京から転居した新・山口県民は語る「心の深奥からの憎しみ」】
25 : 日本@名無史さん:2011/04/11(月) 22:24:11.30
自ら賊軍になったのは会津だけだろ、しかも自業自得。農民は官軍に味方したしな。
巻き込まれた福島の他の地方と一緒にしないでくれ迷惑だ。
放射能も会津より茨城北部の方が被害大きいわ
被害者意識も大概にしろ
30 : 日本@名無史さん:2011/04/13(水) 08:34:24.54
会津恨族は地震の地割れに落ちろw
52 : 日本@名無史さん:2011/05/03(火) 10:55:30.72
福島県民に天罰が下った。
59 : 日本@名無史さん:2011/07/15(金) 14:45:51.85
やっぱり福島(会津)は賊徒だったわw
全国からの義捐を仇で返しとは。。。
長州の会津討伐は手ぬるかったな。
92 : 日本@名無史さん:2014/02/03(月) 18:45:49.90
東北の放射能汚染瓦礫を無理やりに西日本で焼却させて、
きれいだった西日本まで放射能汚染させたのは東北だ。
いまさら、何で関西へ逃げて来たいのだ。
この臆病者が。
日本人なら、そこで潔く死ね!
東北というだけで、感覚的拒絶反応がこちらではごく自然に沸き上がって来るよ。
これは、けっして差別ではない。←注目!
人為的に虐げられ命を損耗させられし者の、心の深奥からの憎しみだ >>36=>>1
【官軍の徴発を恐れて逃げ隠れる住民たち!「歓迎された」は真っ赤なウソ】
843 : 日曜8時の名無しさん:2016/06/17(金) 23:20:42.68 ID:uz2UXnfS
やがて官軍が優勢となり会津若松攻めに我が只野村からも多数の男たちが人足に出た。
とくに会津落城後は「官軍の命により分捕り品」と称して、馬に付けるほどの貨財を自分の家へ運んで帰ってきた。
敗戦国会津はまことにお気の毒であり無情なことであった。その時の分捕り鉄瓶を今でも使っている人がいる。
明けて明治2年春、会津以外の地方に流行病が大変流行った。これを里人は「分捕疫病」といった…。
(中略)
官軍が村に多数入ってきたので、婦女子は危険を恐れて山中に隠れた。初めは本宮館(おおさ山)方面から、
棒芳山…といった所に隠れたが、しまいには遠く大久保、源田山付近までかくれた。
やがて男たちは会津方面へ官軍の人足に出て、何か不平がましいことを言うと
「人そう(人足)、そげんの事を申すと薩州候に申し上げるぞ」とにらまれ、腰のあたりの刀に手をやる。
おそろしい生殺与奪の権を持った官軍にはなすすべもなかったのである。
(「増戸治助翁聞書」)
※只野村は二本松藩領 維新戦役実歴談によると
白虎隊士中二番隊に食料供給がなかったというのは
会津プロパガンダだった事が解った。
>会津藩士相馬直登の手記の
>次のような記述でした。
>「八月二十二日、未だ全癒これ無く
>病床に罷あり候ところ、猪苗代切迫の
>趣相聞こえ候に付、御城に罷り出で
>御機嫌伺い奉り、直に会所へ罷り出で
>郡奉行牧原奇平を十六橋へ出張せしめ
>居残りの者は終夜人足の配り並に
>兵量の配りを致し、黒川酒居共へ申し付け
>十六橋並に御城内諸番所共へ差配申付け候事」
>「白虎隊には兵糧のそなえがなかったので」と
>根拠もなく一般に固く信じられているので
>本書においてはくどいほど反証を述べました。
会津は本当、嘘ばっかしだよなwwwwww