天皇論異聞 【女性天皇と象徴天皇】
最近のニュースを見ても分かる通り、皇位継承問題は依然として燻ったままだ
事もあろうに宮内庁長官が『女性宮家』の創設について言及した
羽毛田長官の真意はどこにあるのか現段階では不明だが、無視できる内容では無い
言うまでも無く女系継承容認の下準備となる可能性が高く、とても看過できるものでは無いからだ
(但し、このニュースを流した読売グループの誤報・捏造報道という可能性は残る)
その一方で秋篠宮殿下から『天皇の公務の定年制』について言及する御発言もあった
皇族の方々から現在の天皇の制度に関わる内容に触れられたのは異例中の異例だ
この御発言は今上陛下の御身体を心配されての御発言というだけでは無く、
『天皇』とは何か?という根本的な問題に関わる、非常に示唆に富んだ御発言だと考える
同時にこうした秋篠宮殿下からの異例とも言える御発言が出てくるという事は、
皇室を取り巻く状況や環境が激変している事を暗に示されているのではないかとも取れる
そこで本スレでは、この『天皇とは何か?』或いは『天皇と国民との繋がり』という事について、
取り分け、現憲法下に於ける『象徴天皇とは何か?』について考えてみたいと思う
議論するにあたり本スレ内の基本的な前提として1つだけ以下の原則を設ける
◆現憲法は有効であり、且つ憲法の改正は原則的に考えないものとする
理由は占領憲法無効論や改憲を視野に入れると議論の収拾がつかなくなる恐れが大きい為だ
同時にこのスレで議論したい事の本分から離れてしまう可能性も大きい
依って本スレでは現憲法の基本理念はそのまま通用するという前提で考えて頂く さて、俺は以前、女性天皇(当たり前だが男系のみ)の限定的即位を認めた上、その条件として
@ 皇位の生前譲位を認める事
A 女性天皇が婚姻を希望した場合は生前譲位を行う
B 婚姻を機に臣籍降下して頂く
以上の事を提唱した
予想はしていたが、特にBに関しての抵抗は非常に強いモノがあり、
その時の結果は散々なもので、挙句、スルー対象人物に指定されてしまった
まぁ、その事自体は今更どうでもいいのだが、先の秋篠宮殿下の『定年制』についての御発言は、
その内容を発展させれば@の生前譲位に通じる御発言であると捉える事も可能だ
勿論、秋篠宮殿下御自身が『女性天皇』についてどのようなお考えをお持ちなのか知る由もないが、
少なくとも天皇の『公務』と『在位期間』は分けられるのではないか?
或いは、天皇とは生涯に渡り全ての公務を行うべきなのか?という疑問があるという事は言えると思う
そしてこの『公務の定年制』という考え方は、『象徴天皇とは何か?』を考える重要なヒントになっている
それを踏まえた上で、以下に俺の考えを述べておく 前述した女性天皇に関する私見を述べた時に、反論する相手から言われたのが、
「天皇に即位したのに臣籍降下なんて有り得ない」、
「そんな事例は過去に例が無い」
「過去に前例が無い事を認めるなら、女系継承の容認に等しい」
「前例に無い事を認めたら保守思想とは言わない」
多少、表現は違うが内容としては概ねこんな感じだった
しかし、前例が無いという事は必ずしも理由にはならない
何故なら、『天皇(皇族)を憲法や法律で定義する』という事自体が、
明治維新以前の過去に、どこにもそのような前例など無かったではないか
極論的な事を言えば推古天皇以前に女性天皇が即位した例は無かった
では、前例を破り、初の女帝として推古天皇が即位したのは伝統破壊の暴挙だったのか? 言うまでも無く、推古天皇の即位を暴挙であったとするような論など聞いた事も無い
それは何故か?
当然だが、皇位継承という皇統の本質に抵触するものでは無かったとの判断があるからだ
こういう事を言うと、真性が必ず揚げ足を取ってくるから予め言っておくが、
前例を蔑ろにしろとか、前例は関係ないとか、そういう旨を言いたいのではない
前例は重要だが、必ずしも絶対では無い、という認識を言っているのだ
より重要なのは守りたい伝統の本質を見極め、それを保護する事を考える事だ
単に前例のみを踏襲し、それ以外を認めない事は保守とは言わん
それはただの原理主義だ そもそもだが、俺が女性天皇の即位・生前譲位・臣籍降下を考えるようになった背景には、
日本国憲法で位置付けられた『象徴天皇』とはなんなのか?という疑問に端を発している
憲法で謳う『象徴』とは何か?
古来からの伝承に倣えば、天照大御神の系譜に繋がる神々の子々孫々が皇族であり、
その中でも時代に1人しか就く事が出来ないのが皇位であり、それが『天皇』である
その意味では元来、天皇とは皇族の『象徴』であったと言う事が出来る
皇族の象徴という事は、権力機構であった大和朝廷の象徴でもあるし、
大和朝廷の象徴という事は、日本の象徴でもあるという事でもある
つまり『天皇』とは元々『象徴』としての意味合いも含めた存在であると言える
では、上記の象徴的意味合いと、日本国憲法で云う所の『象徴』と何か違う点はあるのか?
それとも同じモノを意味し、単に成文憲法として明文化しただけの事なのか?
結論から言えば、『違う』という事になる
細かく言えば、憲法で明文化したが故に『違うモノになってしまった』とでも言うべきだろうか では、何が違うのか?
それは言うまでも無く、『制約』の存在を明言した事にある
前述した、元来より兼ね備えていた『天皇』という存在の象徴性は、
端的に言えば国の東西や古今を問わず、ある程度の権力者なら誰もが持ち得るものだ
今風に言い直せば『カリスマ性』という表現に近いと言ってもいいだろう
だが、それは天皇が持っている権力・権限・発言力・影響力等のような、
現実として世の中に干渉出来る力とは別次元の話としての、観念的な意味でしかない
ところが憲法を制定し、明文化した事によって、それらの概念は一気に具象化してしまった
帝国憲法では『天皇の大権』について規定しながらも、議会の助言を必要とするよう足枷を付け、
現憲法では明確に天皇に政治的権能は無く、決められた公務のみを行うよう定めている
要するに維新以後の日本は成文憲法を制定し明文化する事によって、
それ以前までは観念的なモノであった天皇の象徴性や権限等含めた伝統も全て、
具象的で尚且つ限定的なモノへと変質させ、それを『近代化』或いは『民主化』と称したのである
余談だが古代ケルト人は経典や秘儀等を文字にして表すのは不浄な事として忌み嫌ったと言う
日本人も漢字が持ち込まれる前は特定の文字を持たず、漢字の導入にも長い年月を掛けた
文字の使用を嫌った先人達の想いが成文法にどう繋がるかは各自の判断に任せるが、
伝統を重んじる保守思想の人間にして見れば、含蓄のある話にも映る、と思う