>>222
鎌倉を追放されて、身延入りした最初の御書には、

(富木殿御書、1273ころ)
けかち(飢渇)申すばかりなし米一合もうらずがし(餓死)しぬべし、
此の御房たちも(弟子たちも)みなかへして(中山に返し?)但一人候べし、
このよし(飢饉の様子)を御房たちにもかたりさせ給へ。

十二日さかわ(酒匂川)十三日たけのした(足柄町)十四日くるまがへし(裾野市)
十五日ををみや(富士宮)十六日なんぶ(南部町)、十七日このところいまだ
さだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶いて候へば
(気分はわりとこの身延山が気にいっていて)しばらくは候はんずらむ…、

※日蓮さんは、金は持ってるみたいだけど、
米を売ってくれないから、腹が減って死にそー、
とか言ってて、静岡あたりの飢饉の状況がよくわかる記述で、

でも道ばたの死骸については、何も言ってなくて、
安国論はただのリップサービスで、貧乏人の死骸とか、
庶民が可哀想とかは、あんまし興味なさそうですが…。

そしたら前レス>>222 平安鎌倉時代の飢饉飢餓天災考に、こんな記述が。

■死者算なし
…然るに其後、復猖獗を極め(疫病が猛威を極め)、死者を出だすこと…、
文応元年(1260)、幕府は諸国の守護人に令し…社寺をして、
大般若経、最勝、仁王経を転読して、これを禳はし(払わし)めたり…

※※立正安国論を幕府に提出したと日蓮さんが自称する1260文応元年は、
実際に幕府が全国に、加持祈祷の大号令を出していて、
無数の幕府からの依頼に混じって、安国論を幕府に提出したらしい。