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黒い死に顔の話は、キーワード変えつつ、
さらに探索してたら、こんな↓リンクを発見して、
平安鎌倉時代の飢饉飢餓天災考
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den064.htm

■飢饉と救恤
正嘉三年(1259)の春より、疫疾流行し、
京都にありては餓※河原に横はりて道路を塞げり
(五代帝王物語)。※草かんむりに「孚」 。

※印は、葦、枯れ草、飢え死に(=殍)とあって、
餓死した死体を河原に投げ捨てて、道を塞いでしまう。

京都でそれぐらいの様子であるならば、
鎌倉でも死骸は珍しくはない光景だったと思われ、
この正嘉三年(1259)は、安国論を幕府に提出したと
日蓮さんが主張する文応元年(1260) の前年にあたります。

そうすると道ばたの黒く変色していく死骸は、
誰でも見たことのある、ありふれた当時の風景でもあって、
それは立正安国論の冒頭にも書かれていて。

(立正安国論)
旅客来りて嘆いて曰く…近年より…
天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち…、
牛馬巷に斃れ『骸骨路に充てり』。  

死を招く之輩既に大半に超え、
之を悲しまざるの族、敢えて一人も無し…。

※「骸骨路に充てり…」ですね、白骨の直前が黒くなる…。