>>166
>もはや教義上の正当性は完全にゼロ

そもそも在家の身分でありながら本尊の取り変えを会員に指示したり、
寿量本の省略を推進したり、学会指導部の信仰心自体疑わしい。
これらの所為の言外の意味は、今までそう信じ培ってきた信仰心の軽視で、
法華経や大聖人に帰結すべき信仰を組織の教えこそ第1だと錯覚させ、
会員の信仰心の質を内側から変容させる意図のものである。

一般会員が同じ事をすれば「我見の極み。頭破作七部」所為と批判されるだろうが、
池田と言う名や本部の指示であればたとえ組織の我見だろうと従順と従う。
人はある種権威の前では本質的な判断を失うの特性がある。特に集団や組織に対し
帰属意識が強い人間は。

池田氏をはじめとする職業幹部は僧侶となる修行をしたわけではない。
折伏こそ修行と言うかもしれないが、実際に折伏行をしているのは
名もなき末端会員が殆どで、池田氏においては個人折伏の成果はない。
また池田氏をはじめとする職業幹部は財務の供養を受けながら、
不戒の在家信徒である。
宗教上何の権威をもって勝手に教義変更が出来るのか?