>>334愚人さん 

 @ 礼拝に専念していた頃に迫害を受けた常不軽比丘は、釈迦の過去形。(←これは釈迦の言葉ですね。)
 A 勧持品二十行の偈文の該当箇所はこれから法華経を布教するにあたっての迫害を覚悟に忍ぶという未来形。(←こっち諸菩薩の言葉ですね。)

編纂者達の瞑想はこの通りですよね?
常不軽比丘は法華経知る前の難事の出来事であって、一方勧持品の菩薩達は法華経を知った上での難事なのですね。
瞑想の中ではどちらも迫害があるのです。ここで一環してるのは菩薩(覚りが確定してる人)の宿命なのですね。
編纂者達がこの瞑想の中で釈迦仏の説法も想像してしまうのですから、編纂者達はもはや覚っているとも言えるんじゃないかと思うんですね。
要するに、ただのフィクション物語であって現実味のないワイヤーアクションみたいなものじゃありませんかね。
編纂者が“自分達の置かれている状況”が如何なるものかと考えていたとすれば、誰よりも面白い物語を完成させるかということぐらいじゃないかと思います。
二重のオーバーラップ映像位いまでならまだ見やすいのですが、天台だの伝教だの日蓮だの猊下だの先生だの部長だの班長だのって七重にもなったら見れたものじゃないです。
また、日蓮に仮託した遺文類もあるかと思いますが、後々に火宅となることでしょうかねと。

植木訳安楽行品を有難う御座います。
直訳かと思いますが、漢訳と照らし合わせますと結構違いますね。
私も植木氏が著書「仏教、本当の教え」は読みましたが、結構勉強になります。