>>323愚人さん
レス有難うございます。

端的に言ってしまえば法華経を編纂した時の者はもう釈迦仏なわけですね。その文が、、、

  『爾の時に常不軽菩薩は豈に異人ならんや、則ち我が身是れなり。』

と、自らを成仏した者と捉えています。所謂、法華経編纂者は過去身である常不軽比丘を説明して、
今この霊鷲山にては仏として説法がされてるという場面なのですね。
第十三章「勧持品二十行の偈」は諸々の菩薩達が説いた詩であって、法華経編纂者が受けている現状を述べたとすれば、
過去の常不軽菩薩話と辻褄が合わなくなってしまわれますね。

ちょっとややこしいですが、法華経編纂者の思想まで考えてしまいますと余計に法華経物語がオカシクなってしまうような気がします。
『如是我聞』と言う編纂者が自分の思想を書き入れるということすら変な気がするのですがね。
なんだか植木氏や苅谷氏の説にいちゃもん付けてるみたいですみません。
「思想としての法華経」、うむっ結構な¥ですなぁ〜迷っちゃいます。