日蓮って ver.44
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前スレ日蓮って ver.43
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1510541794/
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。 >>261
信者は、文献を曲解しかできないもの。
「人は臨終の時地獄に墮つる者は黒色なる上、其の身重き事千引の石の如し。善人
は設ひ七尺八尺の女人なれども、色黒色なれども、臨終に色變じて白色となる。又
輕き事鵞毛の如し、やわらかなる事兜羅綿の如し」'(千日尼御前御返事)
今まで棺をたくさんかついできたけれど、千引の石の重さや鵞毛のような軽さなど
感じたことはないもの。普通で考えれば棺桶もかついだことがないのかと思う。
非科学的もいいところ。
「不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり・・是くの如き重戒なれども法華経の
敵に成れば此れを害する(殺すこと)は第一の功徳と説き給うなり」(秋元御書)
こうなると殺人教唆。 鎌倉期の人々が賢明にも日蓮を相手にしなかったから良かったものの、今ならオウム化してたかも知れんな。 「青年よ、仏敵を打ち砕け。 学会迫害の悪人は厳罰で野たれ死ぬまで攻め抜け」
正当なタックルじゃないよね。こんな指示する者は除名処分すべきものなのですがね。 >>262
この殺人教唆的部分はチベット密教ドルジェタク派と同じだね。
オウムのポアもドルジェタク派や中沢大先生の
虹の階梯や、チベットのモーツァルトの影響下にあるんだけど
日本の大乗仏教はガンダーラを周りシルクロードから 中国経由だと聞くけど
このドルジェタクやアサシン教団のような思想は 何に由来するのだろうか?
元はサンユッタニカーヤやマハーパリニッバーナを歪曲したって事?
釈尊は自殺自体は悪い事では無いと言っていたが
それをおかしな拡大解釈してしまったのかな? >>266
またお前か。まあ、そう無い袖を必死に振り振りシッタカ道に邁進するなよ。
みっともない。 >>267
たまにはパーリ語経典も読んでみなさいよ >>269
アーナンダ「目覚めた方はこう言われた、、、、」
お前仏教に興味あるんだったら、もう少し真剣に勉強しろよ >>270
何だそりゃ。内容を割愛してどうする?
で何て言ったって? >何だそりゃ。内容を割愛してどうする?
あーあ、、、、
レトリックも理解出来ない奴
お前仏教に向いてないよw ダイヤモンド社刊 リン・マクタガード著の『パワー・オブ・エイト』という本によると、祈りには相対的に効果があるらしい。日蓮が母親を延命させたのも、法華経の功力ではなく日蓮自身の祈りの効力だといえるかもしれない。
また、祈りの効果は自分にも起きるとのことだ。 >>275
これか?
「ボランティア」がインタネット経由で回答したのを分析しても
「釈尊が言ってた」と変わらんということ
パワー・オブ・エイト――最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡
世界中に数万人のボランティアを募り、インターネット経由で実施された、人間の
意識や意志が物質に及ぼす影響についての検証実験の結果を、科学者とともに
客観的に分析した一冊。前例のない大規模な実験である、世界100カ国以上
数万人もの参加者の意識の集中によって起こった奇跡の全容を余さず公開した貴重な内容です。 インターネットの参加者は、意識を送っただけ。
その送った意識に効果が相対的に効果があったことを示した内容。
但し、意識を送ったインターネット参加者に至福感があったとの内容もある。 意識が物質に影響を及ぼすといえば、挨拶すると水の結晶が変化する!
水にも心があるとかいうトンデモ本を何度も国会で取り上げて、国の予算で
調査しろってうざかった公明党の議員がいたな。
安倍ちゃんの嫁もブログでその本(水からの伝言)の著者を先生先生って
崇拝してて、大丈夫なのかこの人はと思ったが、案の定w >>278
いくら公明党でもそこまでデムパな議員がいたとは。 安倍ちゃんの嫁のブログは削除されてるけど、国家愛議事録
検索してみたんだけど、こっちも出てこないな
安倍昭恵のスマイルトーク : 江本勝先生より
https://togetter.com/li/381122
江本先生の研究によると水はすべての情報を記憶するそうです。
明日、31日正午、福島原発の水に愛と感謝を送って下さい。
たとえ離れた場所からであっても、その想いは必ず届き水は記憶します。
そのことによって事態が少しでも好転すればいい・・・。 ”もりかけ”って言葉を発したらどんな結晶ができるんだろうね?
流れて消えるかw >>280
水に感受性も記憶力もあるなら福島の水は癒えることのない残酷なトラウマに苦悶しているだろう。 日蓮が母親の寿命を延ばしたと法螺を吹いたのは
女信者にそう言えばもっと稼げるかもしれないと思った。
それだけのことだろ? >>284
母親の寿命をのばせるぐらいだったったら、
どうして自分の病気ぐらい治せなかったんでしょうね? 日蓮は何故に、祈りによって自分の病気を治せなかったのか?。
『報恩抄』に、
但し疑ひ念ふことあり。目連尊者は扶けんとをもいしかども母の青提女は餓鬼道に堕ちぬ。大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちぬ。これは力のまゝすくはんとをぼせども自業自得果のへんはすくひがたし。
とありますが、日蓮の「痩せ病」は自業自得果であったので治せなかったのでしょう。では、その「自業」とは何か?。『四条金吾釈迦仏供養事』に、
先生に法華経の行者をあだみたりけるが今生にむく(報)ふなるべし。此の事は如何なる山中海上にてものがれがたし。不軽菩薩の杖木の責めも、目蓮尊者の竹杖に殺されしも是なり
とあるように、過去世に法華経の行者を仇した事でありましょう。 【オフィス・マサル・エモトのホームページ】
http://www.masaru-emoto.net/jp/を読むと、強ちに「トンデモ科学」とも言えないような気がする。
なお『パワー・オブ・エイト』には、著者と江本博士とが共同して行った「琵琶湖の浄化実験」についての記述がある。詳しくは、本を読んでみて下さい。 >>287 江本博士って池田博士と同類じゃないの?
http://www.masaru-emoto.net/jp/member/
そんで跡継ぎが博正w
江本 勝
1991年10月に「オープン・インターナショナル・ユニバーシティ」より代替医療学博士の認定を受ける。
ギャハハ http://hadolife.net/
願いが叶うだの病気が治るだのインチキグッズを販売してるところは
日蓮業者とそっくりだけど、江本博士の病気はやっぱり前世の結晶が
変形したとかで治らなかったんですかね? http://hadolife.net/SHOP/3719.html
より健やかさを求める方の活性促進に優れた働きをみせる海水100%飲料。
優れたエネルギーチャージで活力を与えてくれます。疲れ知らずのサポートにもどうぞ。
すごすぎる 『パワー・オブ・エイト』によると「祈りの効果」は絶対的なものではなく、相対的なもののようです。祈らなかった場合と比較して祈った場合の方が、相対的に効果があるということのようです。
なお、『脳の神話がこわれるとき』という本を読むと、祈りの効果に特定の宗教は関係ないそうです。
日蓮正宗だから、創価学会だから祈りに効果があるということではないということです。
日蓮の曼荼羅本尊に祈らなくても、鰯の頭に向かって祈っても、意識を集中して祈れば相対的に効果があるということのようです。 >>286
都合の悪いことは前世の悪縁とするなんてご都合主義ですね。
ご都合主義のルーツは宗祖からはじまってるんだ。 http://www.myokoji.jp/page/menu_2/koshozan/215_03.htm
この日蓮正宗の能化僧の講話によると、部派仏教の頃からご都合主義はあったようです。
日蓮の文や能化僧の文を読むと、法華経の行者の祈りよりも、自業自得果の方が強力だという事でしょう。 すみません。妙光寺寺報は(故)尾林能化ではありませんでした。 >>292
法華経にそう書いてあるからな。前世の悪縁といっても法華経を誹謗したというだけの話だけど。
日蓮は法華経を狂信的に信じたから、カルト的になったと一般に考えられているが、自分はそうではなく、カルト的に都合がいいから日蓮は法華経を根拠にしてたと考えている。 法華経の業者は叶わない願いが無い
叶わないのはおまえの信心が悪いのであって日蓮のせいではない
前世が悪い
言ってることはコロコロ変わるんだけど
金は取るけど責任は取らない
それだけはブレない こないだ死んだ登山家と日蓮は似てるな
気持ちだけは一流気どりだけど他のプロたちから相手されず呆れられてるだけみたいな。 >>297
うちの母親もよくいってましたね
息子から相手にされなくなって
「宿運がわるかった」
でも現世の貴方の行いが原因で息子から愛想尽かされたんだけれど
そういういみでは因果応報の仏法はあたってます(笑) >>297
>金は取るけど責任は取らない
それな。それに尽きる。 正しく信仰です。
祈りの相対的効果を信じれば、祈れば良し。
祈りの相対的効果を信じなければ、祈らなければ良い。
信仰は、その人の自由です。
『パワー・オブ・エイト』の著者も『脳の神話がこわれるとき』の著者も、祈りの効果を信じないと地獄に墜ちると言って脅したりしていませんから。 >>302
>祈りの相対的効果を信じれば、祈れば良し。
祈りの相対的効果とはどういう意味か?
相対的効果という以上は、絶対的効果と区別されていると思われる。 祈れば必ず効果があるということではなく、祈らなかった場合と比べて効果があるということ。
ある地域の犯罪が無くなるように祈ったが、その地域で犯罪が無くなることはない。だが、犯罪は減ったということ。 >>302>>304愚人さん
「自行化他」をご存知かと思いますが、祈るだけでは良くないというのが末法の法華経行者だと日蓮が教え方ですね。
相対的の効果が人と人では別の話になっていくことでしょう。
日蓮曼荼羅を対照に祈る信者の効果は、功徳という自分への褒美を得る為だけのものです。
常不軽菩薩が法華経を知らずにして、自らに褒美が与えられるなどと知らずに行った振舞いが後に仏になるという筋書きなのですが、
報酬という約束を信じて行う日蓮教義への信者達とは全く違うものなのですね。
祈りだけでは何も自分の為にはならない事が誰しもが分かることだと思いますが、「信仰の自由」という概念が成立するにはもう少し議論するべきでしょうね。
脳の神話を壊すような「折伏行」などという信仰は、もはやこの類に入らないものではあります。
相対に向き合う対象は信仰という働きを一瞬でも捨てて、善悪を見極める「本心」だと思いますが、この対象に気付くことができないのが宗教にどっぷりの人達なんですね。
論より証拠ができないでいるのが、創価や正宗系達ですよね。
そりゃそうでしょうね、過去生や来世など話せるのは釈迦仏だけなのですから。
日蓮が著書にもっと詳しく自らの過去世の経歴を話してくれればよかったのに、、久遠元初からのねw
>ある地域の犯罪が無くなるように祈ったが、その地域で犯罪が無くなることはない。だが、犯罪は減ったということ。
よろしかったら具体的にそのお話しを聞きたいのですが? >>304
>その地域で犯罪が無くなることはない。だが、犯罪は減ったということ
犯罪は意外なようですが減ってきているんですよ。
何度も報道されるので犯罪が増えていると思われがちなんのですが
ですから、祈っているところも祈っていないとこも減ってます。
日本の犯罪と治安(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E3%81%A8%E6%B2%BB%E5%AE%89 世法と仏法で極端に違う犯罪が有りますね。(裁判で決められることですが
殺人や放火をしても罪の意識が薄く、寧ろそれが善行などと教えられているところ
日蓮系の人ならば世法での逮捕者がでても不思議ではないのですが、そこのところは弁えているんですね。
もしこんな国が創られたらとんでもない人間達の住処になってしまわれます。
座談会に遅れるから他人の自転車を無断で使用したことも、無罪どころか福を得る因などと言うはめになるねw >>304
>祈れば必ず効果があるということではなく、祈らなかった場合と比べて効果があるということ。
支離滅裂だ。「祈らなかった場合に比べて効果がある」なら「祈れば必ず効果がある」ということではないか。
>ある地域の犯罪が無くなるように祈ったが、その地域で犯罪が無くなることはない。だが、犯罪は減ったということ。
犯罪が有意に減ったのなら、それは効果があったということ。効果の有無は効果の強弱とは論理的に別の問題だ。
しかも犯罪が減ったという事実が祈りの効果とどのように結論付けられるというのか。 >>305
>日蓮曼荼羅を対照に祈る信者の効果は、功徳という自分への褒美を得る為だけのものです。
>常不軽菩薩が法華経を知らずにして、自らに褒美が与えられるなどと知らずに行った振舞いが後に仏になるという筋書きなのですが、
>報酬という約束を信じて行う日蓮教義への信者達とは全く違うものなのですね。
まさにその通り。 スチールカンさん。
2008年 9月14日〜9月21日
2008年9月14日〜9月21日 参加者11468人
「平和と共存がスリランカ北部ワンニ地区に訪れる」「戦争に関する暴力が少なくとも10%減少する」と意識を送る。
実験を行った週には暴力がこれまでにないほどの増加を見せた。
実験後の数週間には20週前と比べるとかなり減少。
実験を行った週に記録的な数字をたたき出すまで増加し続けていたが、実験1週間後には、戦いが激しくなる前でさえ見たことがないほどのレベルまで急落。
これだけでは解らないと思いますので、『パワー・オブ・エイト』101頁〜124頁を読んで下さい。 >>310
>スリランカ内戦中、バブニヤ県の一部は長期に渡り反政府組織タミル・イーラム解放のトラ (LTTE) の支配下に入っていた。政府がその支配を回復したのは、スリランカ軍が奪還を果たした2008年のことである。
スリランカ軍が奪還したので治安が回復したと解釈するのが正常な頭の判断。
カルト本を読むなとは言わんが、客観的文献を無視してはいかんよ。 カルト本と思うのならば、それで良し。
個々の判断で宜しいと思います。
ただ、一読はしてみて下さい。 カルト本過ぎて全然売れないとか?
それこそ自業自得だな それ故に、この“呼びかけ”はまさに自己の成仏を賭けた真剣な行動、
(中略)
それは自己の成仏のための必須の行為、即ちぼさつ行そのものであったのである。
(中略)
「あなたはぼさつ行を行じなさい。仏になります」という“呼びかけ”は、
まさに自利にして、しかも、利他のぼさつ行であることが知られるのである。
(東方出版刊 苅谷定彦著『法華経〈仏滅後〉の思想』516頁)
苅谷氏の考察によれば、不軽菩薩の礼拝行は、自利を求めたものでもあったようである。
因みに、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』には、
行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする人は、放擲者でありヨーギンである。
(岩波文庫 上村勝彦著 『バガヴァッド・ギーター』62頁)
とある。 >>310愚人さん
その本を購入して読まなければ内容が解らないのは当然なことですね。
もし機会があって立ち読みが可能ならば該当箇所を読んでみますね。
ひとつだけ質問したいのですが、
参加者の11468人の祈りとはどのようなものだったのでしょうね?
「北朝鮮と戦争にならないように」
創価の人も、正宗の人も、諸々の宗教郡の人達も、私達アンチでさえも、みんな思っていることでしょう。
祈りというものは、こういうものかと思いますが。
本来、宗教の枠に拘らずにて、「本心」とは殆ど一緒なんだと思います。
蓮華を例えに「何事にも染まらない心」こそ大事なことだと私は思っています。キザですがw
参加者の11468人の方々も一同に同じ宗教の人達ではなかったことでしょうね。
敵や味方などという戦いのスポーツでも、互いの選手の本心を失わせる者が監督が存在したのならば、
両者選手達の敵は互いに同じになっていくことでしょう。喜ばしいことですね。
そんなところ、日蓮門下内での「憎み合うように仕向ける教唆」に受態されていることに気付き、
悪き根源を排除すべきものかと思います。
試合以外の所で監督自ら相手にタックルすれば、とりあえず作戦は成功するわけであって、
教え子にそれをやらせるなんていうのは、監督としても教育者としても失格であって、失格前に元々が器の無い者だったのですね。
私だけでなく、誰しもがそのように思うことは一緒かと思うところ、
祈りとは「本心」をみだせる者に善き功積が身に付くことだと思っています。
11468人の良心には喜ばしいことだったと私は思います。(←偉そうにぃ〜)w
上下関係のない掲示板って最高。
>>314愚人さん
>不軽菩薩の礼拝行は、自利を求めたものでもあったようである。
何故なんでしょうね?
愚人さんはどのように思われますか? スチールカンさん。
当該書に、
参加者に「平和と共存がスリランカ北部ワンニ地区に訪れる」「戦争に関する暴力が少なくとも10%減少する」と意識を送るように頼んだ。
とあります。
日蓮の誤りは、「放逸」「慳貪」「嫉妬」「邪見」「淫乱」と週刊誌の見出しみたいな言葉を以て敵対者を批判したことではないでしょうか。
そして、今の正宗や創価、顕正の人達は、
総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。
との日蓮の教示を忠実に実行して、日蓮と同じように敵対者を罵っているのだと思います。
彼等が日蓮の真書とする『御義口伝』の、
上慢の四衆の所具の仏性も、不軽所具の仏性も、一種の妙法なりと礼拝するなり。
との文を噛み締めてもらいたいです。(私も含めて)
苅谷定彦氏の該当の考察箇所は、513頁〜516頁にありますので、その箇所を読んでみて下さい。但し、定価が16000円と高額です。
まあ、該当箇所を読んた私の理解をかけば、「ブッダとなる為の修行の為に礼拝行を行った」という事だと思います。
苅谷氏によると、不軽菩薩は、法華経編纂者達とのことです。このことは、植木雅俊氏も岩波書店刊『思想としての法華経』の306頁〜316頁で、当時の法華経編纂者達の事を述べたものとしています。
愚人も苅谷氏や植木氏の説に同じて、不軽菩薩とは法華経編纂者達のことであると思います。法華経の編纂者達は、菩薩としてブッダに成ることを目指していたのですから、そこには、ブッダに成るという「自利」が有ったと思います。 あなたはまだ子供だ。
あなたは幼い友達とライ麦畑の上で遊ぶ。
あまりに楽しく激しく走り回るので、あなたはライ麦畑から落ちそうになり恐怖を感じる。
そこへキャチャーが現れ、あなたの手をしっかりと捕まえてくれる。
正当恁麼時、作麼生! >>316愚人さん
>不軽菩薩とは法華経編纂者達のことである
このような発想は考えてもいませんでした。なんと斬新な思想であることに私は驚いています。
ただそうなりますと、法華経物語にでてきているキャラクター達も全部が編纂者達になってしまわれませんか?
正確にいえば編纂者達が自分達に当てはめて作られた物語になるわけであって、当然といえば当然な解釈になろうかと思います。
しかしながらこの様な解釈は日蓮教にもあるわけで、自らを法華経物語にでてくる菩薩達と混同させている様なものだと思うのです。
学術的に研究をされる御方達の「法華経は釈迦が説いたのではない!」という前提の元ならば当然にこの様な思想が浮かび上がることでしょうね。
そこでまた質問をして宜しいでしょうか。
不軽菩薩こと法華経編纂者達の「自利」とはブッタに成るという事のようですが、
初っ端から『エーヴァム・マヤ―・シュルタム』と、「嘘を付くこと」が彼等の利益になるということでしょうか?
この法華経編纂者達は「自利」というよりも、どちらかというと「利他」だったと思う方が自然になりませんか?
私としては大変に興味がありまして、かなりスレ違いな話に展開しそうですがご勘弁を願います。 スチールカンさん。
愚人は、法華経編纂者達には、
誰かある一人の衆生のためにだけでさえも説示したり、あるいは語ったりする人は、如来によってなされるべきことをなすひと(法師品/植木訳)
との大いなる自覚があったので、自分達が「嘘をついている」という自覚は無かったと思います。
また、
説一切有部の小乗涅槃経には、第三者から聞いた教えを仏説か非仏説かを判断する基準として、「法性に違わない」ければ仏説と判断して良いとの記述があり、(筑摩選書刊 平岡聡著 『大乗経典の誕生』119頁)
『大毘婆沙論』の冒頭にも、
ブッダの説であれ弟子の説であれ、法性に違わなければ仏説として受持してもよいとブッダ自身が認めた(『大乗仏教の誕生118頁』)
との記述があることから、法華経の編纂者達は「一切衆生本来皆菩薩/一切衆生皆成仏道」とのブッダの本性を説いているとの自負があったでしょうから、「嘘をついている」との思いは無かったと思います。
不軽菩薩は「菩薩」でありますから、その行は、「仏道無上誓願成」という「自利」と「衆生無辺誓願度」という「利他」であるとおもいます。苅谷定彦氏も、
「あなたはぼさつ行を行じなさい。仏になります」という“呼びかけ”は、まさに自利にして、しかも、利他のぼさつ行であることが知られるのである(『法華経〈仏滅後〉の思想』516頁)
と述べています。 スチールカンさん。書き忘れです。
法華経のキャラクター全部が、法華経の編纂者ではありません。
そうではなく、法華経の編纂者達が、法華経の中に自分達の現状を記述している箇所があるということです。
「勧持品二十行の偈」と言われている箇所などは、自分達が受けている現状を述べたものではないでしょうか。
>>319-320愚人さん
植木氏がどのように訳しているかは私には分かりませんが、
鳩摩羅什漢訳をテキストに沿って言うならば、釈迦からの功徳の説明は常不軽菩薩品以前の法師品や法師功徳品にも書かれている通りですね。
法華経編纂者達が自分達を常不軽比丘としての思想を入れた内容であるならば、当然に仏からの見返りを知っているわけでして、愚人さんが見解の
常不軽比丘=法華経編纂者達には「自利」を確信したものだということはありえますね。
しかしです、この常不軽比丘は「法華経を知らずにして礼拝行」を振舞っていたことは法華経本文該当の章で記述されているのですね。
法華経全体的にも矛盾な経緯から後先の解らない曖昧性で構成されているわけでして、作者=法華経編纂者達の思考は釈迦に仮託をした物語としては、
かえって釈迦像を見苦しく思わせるようなものですね。
多分ですがサンスクリット語から直訳するも鳩摩羅什漢訳も差ほど内容は変わらないものだと思いますが、
その常不軽菩薩品漢訳の、
『是の比丘終らんと欲する時に臨んで、虚空の中に於て、具さに威音王仏の先に説きたもう所の法華経二十千万億の偈を聞いて、
悉く能く受持して、即ち上の如き眼根清浄・耳・鼻・舌・身・意根清浄を得たり。是の六根清浄を得已って、更に寿命を増す
こと二百万億那由他歳、広く人の為に是の法華経を説く。』
の箇所は植木氏ではどのように訳されているでしょうね?
もし内容的にも同じようであるならば、法華経編纂者達と常不軽比丘の両者の思想は違うことになります。
どちらにしてもこのような矛盾性がある物語に、学者や研究者が常不軽比丘の自利説を述べるというのには疑問をもちますね。
主人公のドラえもんと作者の藤子・F・不二雄のどちらが主語として話されているのかが疑問に思う私です。 スチールカンさん。
時間ないので簡単に。
法華経編纂者と不軽菩薩の思想は、声聞・縁学、四衆共に菩薩の行を成し、ブッダになるというもの。
法華経の編纂者と不軽菩薩の間に思想の違いはありません。 しております。
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東京 >>323愚人さん
レス有難うございます。
端的に言ってしまえば法華経を編纂した時の者はもう釈迦仏なわけですね。その文が、、、
『爾の時に常不軽菩薩は豈に異人ならんや、則ち我が身是れなり。』
と、自らを成仏した者と捉えています。所謂、法華経編纂者は過去身である常不軽比丘を説明して、
今この霊鷲山にては仏として説法がされてるという場面なのですね。
第十三章「勧持品二十行の偈」は諸々の菩薩達が説いた詩であって、法華経編纂者が受けている現状を述べたとすれば、
過去の常不軽菩薩話と辻褄が合わなくなってしまわれますね。
ちょっとややこしいですが、法華経編纂者の思想まで考えてしまいますと余計に法華経物語がオカシクなってしまうような気がします。
『如是我聞』と言う編纂者が自分の思想を書き入れるということすら変な気がするのですがね。
なんだか植木氏や苅谷氏の説にいちゃもん付けてるみたいですみません。
「思想としての法華経」、うむっ結構な¥ですなぁ〜迷っちゃいます。 >>325
法華経はいくつかの経典をたしてできたんでしょうね。
ですから、前後でつじつまがあわなかったりするんじゃないかと思います。 法華経の文面によれば、法華経を書いたのは、瞑想に耽っていた釈迦を横から見ていた解説者。いわば、現場中継のアナウンサーのレポート。 「釈迦が深い瞑想に入られました」
「あっ、釈迦の眉間から光が出て、宇宙の果てまで照らされました」
「大地が鳴動しました、地震です、地震です、良いことの前兆です」
「さーこれからどうなっていくんでしょうか、楽しみです、大島さん」
「そう言えば大昔、同じようなことが有りましたねー、その時は法華経という経が説かれましたね、今回はどうでしょうか」 >>327
序品はそうですが、方便品以降は釈尊が説いている形式では? >>328
笑ってしまいました。そう、序品はこの五行ですんでしまいますね 宇宙の果てまで照らして、すぐに見える不思議。
光が到達するまで138億年、
反射してそこの景色が見えるまで138億年じゃないのか? 方便品以降は、情報操作の引き回し主義。
「お前らが愚かだったから、今までは低い教えを説いていただけだ」
「実はこちらが本当の教えだ」
「何十年も騙されていた人、ご免」
「バージョンアップのお知らせが届かない人は、今までの古い教えを信じちゃってるかも知れないけれど、まーいいかー」 法華経で釈迦が発した(説法)は半分のないのに、
全ての文字は釈迦仏の当体だのと言う教えが日蓮にもあったね。
>>326大乗非仏説
そうですよね。
愚人さんが「法華経編纂者達」と言っている通り多数の人によって成立したものだと学者達もいっているようですしね。
>>327さん
ぶっちゃけ、ドラえもんが伸びた君に、「ドラえもんのマンガ本」を読むように薦めるような感じですかね。
>>332さん
>まーいいかー
病のない是こそブッダだ! スチールカンさん。
愚人の書き方が悪かったので、スチールカンさんは誤解なされているようです。
不軽菩薩=法華経編纂者ではなく、不軽菩薩の“呼びかけ(礼拝行)”の描写は、法華経編纂者達が置かれた状況を模写して書いたということです。
法華経編纂者達は、釈迦仏ではありません。
安楽行品に、
その偉大なる聖仙は、夢の中で岩の洞穴において法を修行している自分の身体を見る。
法を修行して後、また〔法を法たらしめる〕根本の理法(法性)に到達して後、三昧を得たその偉大なる聖仙は、勝利者に出会うのだ。
夢の中で、身が金色で、幾百もの福徳の相を具えているブッダに出会って、法を聞き、聞いて後に、偉大なる聖仙は、集会においてその法を説き明かした。(植木訳)
とあるように、法華経の編纂者達は、瞑想に入って、見仏をし、仏の説法を聞いたのです。愚人は、それに自分達の置かれている状況などを付加して成立させたのが『法華経』であると考えます。
勧持品二十行の偈では法華経の編纂者達の四衆からの迫害がかかれ、不軽品の呼びかけ(礼拝行)”の描写でも法華経編纂者達の四衆からの迫害が説かれています。
愚人には、何が辻褄が合わないのかが解りません。教えて下さい。
如是我聞は、先に書いたように瞑想の中で仏から聞いた説法です。
そして、それを認めない伝統僧の非難には、先に書いたように、部派仏教教団の伝持している経の法性に違わないので、仏説であると主張していたとかん。
愚人は、苅谷氏や植木氏の著作を参考にしていますが、代弁者ではありません。そもそも代弁できるだけの理解力がありません。
『思想としての法華経』3000円。愚人にとっては3000円以上の価値がありました。
羅什訳の法華経の漢字の語句をあげて説法しても、それは羅什の法華経の説法でしかないと思いました。
『法華経〈仏滅後〉の思想』16000円。これは悩みました。ですが、読み応えはあります。法華経のことだけではなく、大乗仏教成立の考察などもあり、16000円の内容でした。 >>326
平岡聡氏は、『大乗経典の誕生』の中で、法華経編纂者達は仏伝を参考にしたと述べていますね。
岡田行弘氏も、『シリーズ大乗仏教4』の中で、法華経の編纂者達は、仏伝を参考にしたと述べています。
愚人は、法華経編纂者が瞑想で得た仏の説法に、自分達の置かれている状況や思いを付加して成立したと考えます。 >>334愚人さん
@ 礼拝に専念していた頃に迫害を受けた常不軽比丘は、釈迦の過去形。(←これは釈迦の言葉ですね。)
A 勧持品二十行の偈文の該当箇所はこれから法華経を布教するにあたっての迫害を覚悟に忍ぶという未来形。(←こっち諸菩薩の言葉ですね。)
編纂者達の瞑想はこの通りですよね?
常不軽比丘は法華経知る前の難事の出来事であって、一方勧持品の菩薩達は法華経を知った上での難事なのですね。
瞑想の中ではどちらも迫害があるのです。ここで一環してるのは菩薩(覚りが確定してる人)の宿命なのですね。
編纂者達がこの瞑想の中で釈迦仏の説法も想像してしまうのですから、編纂者達はもはや覚っているとも言えるんじゃないかと思うんですね。
要するに、ただのフィクション物語であって現実味のないワイヤーアクションみたいなものじゃありませんかね。
編纂者が“自分達の置かれている状況”が如何なるものかと考えていたとすれば、誰よりも面白い物語を完成させるかということぐらいじゃないかと思います。
二重のオーバーラップ映像位いまでならまだ見やすいのですが、天台だの伝教だの日蓮だの猊下だの先生だの部長だの班長だのって七重にもなったら見れたものじゃないです。
また、日蓮に仮託した遺文類もあるかと思いますが、後々に火宅となることでしょうかねと。
植木訳安楽行品を有難う御座います。
直訳かと思いますが、漢訳と照らし合わせますと結構違いますね。
私も植木氏が著書「仏教、本当の教え」は読みましたが、結構勉強になります。 >>336
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ」
この様な事を正宗系の人は言って、現在の病気、事故、事件の原因を説明するらしい?のですが
その様な文が法華経や釈迦にあるのでしょうか? これは単なる古代インド、中国の思想にしか過ぎないのでは
ないでしょうか?
大体、近代以前ならまだしも、科学的に証明もされていない、前世、過去世や、
過去の因だとしてもいつの時代の過去世の因? 100年前?1000年前?3000年前?の過去世の因?など
どうやって?証明するつもりでしょうか?
それに、現在の病気や、セクハラ、パワハラ問題などに悩んでいる人に、「それはあなたの過去世が原因だ」と平然と言ったら
激怒や顰蹙されるのではないでしょうか? 前世がなんちゃらなんてのは世間から相手にされず
日々増える自分のうんこさえ止められなかった
詐欺師から続く責任転嫁の伝統 トリックという番組でも取り上げてたけど
合格率50%の試験があるとして合格祈願1万円
不合格なら1万5千円返金しますという商売やっても
胴元の収支はプラスになるのに
金だけとって叶わないのはおまえのせいってw >>337さん
宗派を問わずにして誰しもが納得できそうな縁起説は何処にもあると思います。
仏教の経典群にしても殆どがこの縁起説を中心に構成されているのではないでしょうか。
法華経の常不軽菩薩の件もご覧の通りでありましょう。
この物語の大半は縁起説といっても過言ではないでしょうし、
日蓮が重視の方便品十如是も典型的な縁起の話をしてるだけなのですね。「難信難解」というほどの物ではないのです。
進化論によれば生物は因果を繰り返しながら発展してきてる中に、通性での人間という「果」も存在してきてます。
その人間も環境によって精神的な違いもでてくるだろうし、宗教もまた特性を強調した教えによって信者の因果が表れ語られることになるでしょうか。
ブッダの真似事は「あらゆる因縁説を探る」というものかと思いますが、正宗や創価も取り入れている臨終の相で亡き人の過去の因の良し悪しを決めるのは間違いなのですね。
このような教えも仏典の中にあるものかとも思いますが、誤りの因によって現在の果の曝け出しているのが彼等です。
>「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ」
この文言は心地観経のようですね。
>現在の病気、事故、事件の原因を説明〜その様な文が法華経や釈迦にあるのでしょうか?
法華経にも有りますし、実際の釈迦も子供向けかやら大人向けの因果応報は語った思います。・・・(隣の奥さんに手を出せば、その旦那に殴られるとか)
日蓮の痩せ病も日頃の自分の体を大事にしなかったということで、牛乳瓶の底みたいな眼鏡を掛けるはめになった戸田先生も勉強のし過ぎた結果でしょうかW
と笑っている場合じゃありませんね。テレビゲームやスマホやパソコンの普及により、今より多く人が視力を低下させることになるでしょうね。
>セクハラ、パワハラ問題などに悩んでいる人に、「それはあなたの過去世が原因だ」
先日、新幹線で痛ましい事件がありましたね。
被害者にも加害者にもそのような言葉を発する者は、現実的な対策をも考えない人達です。 >>339さん
運勢が良くなる高額な印鑑の購入に、今まで使ってた三文判で契約okって話を聞いたことがあります。 >>339 の場合だと、祈ろうと祈るまいと半分は合格するわけで
弁護士が多いとか自慢してる宗教団体もあるけど
信心のおかげだと主張するなら、比較するのは「ゼロ」じゃなくて
「信者ではない人」にしないと。 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ」日蓮は、この文を『心地観経』のものとしていますが、『心地観経』に、この文は有りません。
『法苑珠林』という中国の唐の時代に書かれた仏教百科事典の中には、
経言 欲知過去因 当観現在果とあり、
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8B%91%E7%8F%A0%E6%9E%97-131813
そこには、経言となっていて経名は書かれていません。
しかし、日本の『平家物語』に、日蓮が『心地観経』の文としたのと同じ文「欲知過去因 見其現在果」があります。
http://singetu.ddo.jp/heike_monogatari/oohara_gokou/04.htm
しかし、経名は『心地観経』ではなく『因果経』となっています。すなわち『過去現在因果経』です。もしかしたら『善悪因果経』かも知れません。
この日蓮の間違いを日蓮正宗は、どのように説明するのかと思ったら、
(註) 『大乗本生心地観経』巻第三「報恩品」第二之下の文の取意。
と説明していました。
http://www.myokoji.jp/page/menu_3/Kowa/4-5.htm
業について、『ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』に、
それはその拠りどころとしていた人間の行為に従い、行動に従って、その通りになります。
(中略)
福徳ある人は福徳の業によって生じ、悪人は悪業によって生ずるのであります。
(中略)
その行為をなすとき、その行為に相応した果を得るのです。(ちくま学芸文庫 岩本裕翻訳 『原典訳 ウパニシャッド』272頁 ) >>343愚人さん
心地観経じゃなかったのですね。有難うございます。
阿含経典の一部でありますが、山口益氏編に訳されている中に、釈迦が説かれた言葉があります。
『過去を追うべからず。
未来を期待すべからず。
およそ過ぎ去ったものは捨てられたものなり。
かつまた、未来は未だ至らず。
しかしかの現在の法を
ここかしこに観察し
揺るがず、動ずることなく
それを了知して修習せよ。
今日、まさになさるべきこと熱心に作せ。
誰が明日の死を知るべきや。』
(以下省略)
趣旨は、過去を追わず、未来をたのまずして現在をたいせつにしようとの事のようです。 公明の 市議会議員が 境内で
まんじゅうを売る 高幡不動
関東三大不動として有名な、東京都日野市の高幡不動尊だが、 高幡まんじゅう「松盛堂」の
オーナー、峯岸ひろゆきは公明党の市議会議員で創価学会員!
創価学会員が不動尊の境内や参道で何も知らない参拝客にまんじゅうを売っているのだ。
https://www.facebook.com/minegishi21
http://www.syoseido.co.jp/ 仏教は縁起を説き、霊魂(真我)を否定しているのですから、過去世で悪い行為をしたから、今世で不幸に遭い、今世で良い行為をすれば、来世で幸に遭うという図式は成り立たないのではなかろうか?。
スピリチュアルになりますが、愚人は、霊を信じる。霊が何回も何回も生まれ変わっていると信じる。
魂の故郷は「あの世」であり、「この世」は、大いなる霊(神)が霊の修行の場として作ったものと信じる。
この世の幸不幸・成功不成功等々は、あの世で事前に計画したもの。
なので、苦楽を同一と観て、惑うことなく生きていきたいと思う、今日この頃です。
>>348の愚人さん
> この世の幸不幸・成功不成功等々は、あの世で事前に計画したもの。
それは法華経の釈迦のように想起できないものですかね?
この世であの世を想像したら、あの世からこの世がみれるでしょうか。
博学な愚人さんしっかりしてください。 せいきょうしんぶんっ!! たらら〜ん♪
ざ せいきょうしんぶん >>349
スチールカンさん。
仏教一般では、自性を否定していますが、小乗の『涅槃経』を読むと、ブッダはアートマンを否定していないと思うのです。
釈迦が縁起によって否定したのは、肉身であって、霊は否定していないと思います。
>>351さん
誰の著書も読まず仙人みたいな私ではありませんが、
愚人さんとの話にそって述べさせていただきます。
色んな仏典を読んで釈迦の思想が解った読者がよく勘違いするのは、自己と釈迦を同一化としてしまう事です。
それによって「肉身は違えど心は釈迦」と思い込もうとする自性を強引に釈迦に近づけようとしていることでしょう。
しかしこれを概念とすることとアートマンを絶対者とするとでは違うのではないかと思うのですね。
自分の本心を客観的に感じるとり、ぼそぼそと独り言を話す人がおられます。
口には出さなくてもロボット以外は誰しもがこのような自性は持ち合わせているわけです。
アートマンとはまず主体が何であるかという根本を分ったうえで、共通する者同士の話になるかと思うのですね。
宗派が違う者どもが、「心は何であるか!」などど論じ争うこと事態が自らを失っているようなものと私は感じます。
我という中に述語は三千もあるかも知れませんが、吾は結局一人なのですね。
アートマンの原義はプシュケー「呼吸」とのことで、母体から離れた時から具わり得るものなのでしょうね。
生物すべての本能というべき極普通な永遠に続いてきた進化の根本の縁起や再生の主体は肉身だということでしょう。
この肉身こそが永遠の姿であって法華経での仏説の「久遠実成」とか日蓮の「久遠元初」だとかの言語の話よりも
遠い過去から続いてきているものだと思います。
浅はかな話にはなりますが、「今でしょう」の流行語が、過去の拘りを変換させるには名言だったと思います。
もし私が生まれ変わり説を信じる者でしたならば、あの世で事前に計画したものをもう一度この世で考え直すこと運命と思うようにしますw
(そういえば愚人さんとはここ掲示板以前に会っていますね。
もうかなり前の記憶なのでいつ頃だったかははっきりしてませんが、この世以外のあの世で説法した者が今の私です。
やっとこの世で私もアンチになることができましたことをご報告しておきますね。あの時はどうもスミマセン。)
例えばこんな感じでどうでしょうか。 ■ 「日蓮主義」は、 必ず 日本を滅ぼし日本国民を地獄へ突き落とす。
1. 鎌倉幕府は日蓮を島流しにした。
↓
2度の元寇を撃退。
2. 戦前、日蓮主義を野放しにした。
満洲事変( 満洲クーデター )、血盟団、515テロ、226クーデター、三国同盟締結、最後通牒のハルノート( 期限なしでの満洲撤退 )を握り潰し、日米戦争突入
↓
日本の歴史で初めての敗戦で日本滅亡。日本と日本国民を地獄に突き落とした。
3. 2001年 小泉連立政権誕生で公明党が連立
↓
・それまでの日本の1億総中流を破壊し、日本をワープア社会にした。 一方で創価の生活保護受給者は激増。
・グロテスクでオゾマシイ犯罪が激増。
・国交省大臣が公明党の指定席となっなってから、JR が事故故障だらけとなる。 鉄道・道路の案内標識への朝鮮語表記が始まる。 スチールカンさん。
アートマンの語源は、「全てのものの中に在るもの (सर्वम् आप्नोति)」という意味から始まったそうです。
詳しくは、http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2014/02/blog-post_5.html?m=1
を閲覧して下さい。
インドでサンスクリットとヴェーダーンタを教えている方のホームページです。
『チャーンドグヤ=ウパニシャッド』に、
生命が去ったとき、実にこれ(肉体)は死ぬ。しかし、生命そのものが死ぬることはない。
この微粒子はといえば、この一切はこれを本性とするものである。
それは真実であり、それはアートマンであり、それは汝である(ちくま学芸文庫 岩本裕翻訳 『原典訳 ウパニシャッド』141頁)
とあります。私を私たらしめているのはアートマンです。肉身は、その乗り物です。
小乗の『涅槃経』でブッダが述べた、
わたしは自己に帰依することをなしとげた。(岩波文庫 中村元訳 『ブッダ最後の旅 』102頁)
というのは、アートマンが無知・煩悩に汚されることはなかったということだと思います。
『ウダーナヴァルガ』(岩波文庫 中村元訳 『真理のことば 感興のことば174頁』)に、
よく修行を始めて、常に身体の(本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、
為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、諸の汚れがなくなる。
とありますが、この「身体の(本性)」とは、アートマンのことだと思うのです。
日本教文社刊の『前世を記憶する子供たち』1巻・2巻を読むと、生まれ変わりがあると信じる方が自然だと思うのですが・・・。
まあ、法華経観にしても、日蓮観にしても、転生観にしても人によって受け取り方は違うので、
愚人は、このように思ったということです。 >>354愚人さん
「アートマン」とは慣用句で説明した語源だと愚人さんは考えはじめていますでしょうか。
“全て”・・・・・・とは何であって、
“もの”・・・・・・とは何であって、
“中” ・・・・・・とは何であって、
“在るもの”・・・・とはなんであって、
結局は何であるというのでしょうかね?
言葉で表現するというのは大変に難しいもので、簡潔に話せる人はそんなにいませんね。
筆者も解らず曖昧な書き方をしておけば、読者が勝ってに想像してくれるだろうという論法は哲学によくあります。
門答形式で行われる儀式じみたようなショータイムも、質問する側が趣旨を解ってないことが多いかと思いますし、
論点をすり替えていく手法が得意とする者は大変多くの書物を読んでいることが多いでしょう。
気安くも私は貴殿を「愚人さん」といってはいますが、
サンスクリット語も読めない者が学者の解説を頼らざることに私も含めて愚か者でありますが、
一つ質問させてください。
1 どのように生まれかわるか、どこに生まれるかは、誰が決めるのでしょうか?
2 来世の為に今は何をしていますか?
3 過去生が悪かったから何もしていませんか?
良い事をしても、悪い事をしても、報いを受けるはこの世だと私は思いますよ。
盗人が金持ちに成っても本人に幸福感は得られなく、汗水流して働く人の姿に自分の愚かさを感じることでしょう。
そして盗まれた人も、相手を思う感情が報いとなるわけです。
以前ニュースで食べ物を小さな子に万引きされたコンビニが報道されました。
事情は親からご飯を与えられていなかったという事件です。
この事件で報いを受ているのは、当事者だけではなく、憐れむ私達も当該者なのですね。
ついこの前も目黒で痛ましい事件が起きたばかりです。冥福を祈るだけで済まない心の痛みを受ける報いも我々自身にあるものだと思います。
「教育の一環の為」←ふざけんなですよね。
「前世の報いで頸を切った」←ふざけんなですよ。
このような教義で転生説を信じるものこそ本物の愚か者というべきですよ。 愚人さん
因みにアートマンの語源が「呼吸」との見解をされた学者も中村元氏でもあって、
また数多くの哲学者の主張をも紹介されてます。(青土社 自己の探求)中村元
そしてこのようにも記述しているにですね。
「一般インド人にとっては、アートマンなるものは、個人的自我であると同時に、また普遍的自我であるとして表象される傾向がある。
そこでインド的特徴の顕者な哲学者の場合には、個人的自我の存在の確認から、直ちに普遍的自我の存在の論証へと飛躍して行くのである。」
北伝仏教経由で伝わる日本仏教解釈にはあまりにも本地には遠いものだとも思わざるをえませんね。
たとえ遠くの出来事や遠くの人の本心を素直に考えれば、僧伽思想というものが土を耕す農民には重視できるべきではないことが察しできます。
今、食わなけりゃ死ぬ!という人間に、、、「正法に帰依せよ!!」とは馬の耳に念仏と差ほど変わりゃしません。
> 日本教文社刊の『前世を記憶する子供たち』1巻・2巻を読むと
なんか興味がワキマセンです。すみません。
重大な話でもなさそうですしね。。 スチールカンさん。
「サンスクリット語も読めない者が学者の解説を頼らざることに私も含めて愚か者であります」
ブッダは『ダンマパダ』(岩波文庫 中村元訳 『真理のことば 感興のことば 19頁』)で、
もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。
と言っています。スチールカンさんは、賢者です。
一つ質問させてください。
1 どのように生まれかわるか、どこに生まれるかは、誰が決めるのでしょうか?
答え。ヘルパーや高次の魂の助言をうけながら、自分で決めます。
2 来世の為に今は何をしていますか?
答え。「来世の為」という意識は無いです。
3 過去生が悪かったから何もしていませんか?
答え。すみません。質問の意味が解りません。ただ、過去世のことは、意識していません。
「前世の報いで頸を切った」←ふざけんなですよ。
このような教義で転生説を信じるものこそ本物の愚か者というべきですよ」
過去世で悪いことをしたから、悪い人生を計画するということではないみたいです。
よって、「過去世で嘘つきだったから、今世で吃りになった」「過去世で他人の右腕をへし折ったから、今世で方端になった」とかいう因果論は違うと思います。 >>357愚人さん
>もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。
>と言っています。スチールカンさんは、賢者です。
誉めてくれて有難うございます。
ただ、“愚者”が主語になってますので本音はどっちなのか疑問に思いますでっしょw
質問に答えてもらって有難うございます。
来世の為を意識してなくて自分の決めたことが無駄になりませんか。
勘違いをしては困りますが、愚人さんが今まで学んだ事やこれから学ぶものの知識をどのように使うかには大変に興味があるスチールカンです。
色々と話題を作っていただきまして有難うございます。楽しかったです。 中村元氏は、春秋社刊『ウパニシャッドの思想』179頁の中でも、
古代インド語において、atmanという単語はしばしば呼吸を意味し、さらに一切のものに内在する風のようないきを意味していたのであった。
と言っていますね。
上野誠という学者が、中公新書『日本人にとって 聖なるものとは何か』という本の中で、こんなことを書いています。
何事の おはしますおば しらねども かたじけなさに 涙こぼる
という西行法師の歌を引いて、
一部の宗教家たちは、自らが拝む神仏の名も知らぬのは、信仰の名に価しないと、この歌の示す心の持ちようを厳しく批判している。
しかし、私は、そのような批判は当たっていないと思う。尊いと思うものを、それぞれが尊いと感じればよい、というのが日本型の宗教ではないのか?(中略)大切なのは、事物の恩を感じて生きることに尽きるのである。
極言すれば、経典も教理も、一切いらないのである。ご本尊についても、ご祭神についても、知らなくてよいのである。(同書50頁)
また、著者は、同書に『古事記』上巻の
・・・次に、屎(くそ)に成りし神の名は、波邇夜須毘売神。次に、尿(ゆまり)に成りし神の名は、弥都波能売神
との文を引いて、
・・・神となるのである。多神教においては、山川草木だけではなく、排泄物すら神となるのである。(同書20頁)
と書いていますが、こんな糞尿をも神として拝む国民に、「法華経だけに帰依せよ!!」「南無妙法蓮華経にだけに帰依せよ!!」と言っても、馬の耳に念仏でしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています