日蓮って ver.44
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前スレ日蓮って ver.43
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1510541794/
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。 悪い事を行えば罰を受けます(因果応報)。当然、集団ストーカー(謗法)という悪事を行えば罰を受けます!足立創価学会の貧乏、教育水準の低さは仏法上の罰です。
池田会長の七年以上に渡る認知症も弟子達(足立創価学会)の悪事(集団ストーカー)の責任を取って受けた仏法上の罰です。
公明党東京都議会議員(足立区選出)の後輩が犯した法律違反を隠蔽するために竹内一彦全国総合青年部長は隠蔽工作と集団ストーカーを足立創価学会に命令しました。
竹内の命令に従って集団ストーカーを行った学会員は軒並み罰を受けています。ある学会員は認知症になって施設通いです。
ある学会員は生まれてきた自分の子供が知恵遅れで生まれてきました。両親は生涯苦しまなければなりません。
竹内一彦全国総合青年部長は僭聖増上慢と言われている極悪人です。竹内の命令に従えば上記のような罰を受けます。
脳に異常をきたすのは「頭破作七分」という仏法上の罰です。頭が七つに割れるという意味です。足立創価学会全体が教育水準が低いのも頭破作七分自分の子供が知恵遅れなのも頭破作七分です。
池田会長の認知症(八年間)も頭破作七分ですが池田会長の場合は弟子達(足立創価学会)の謗法の悪事の責任も取って罰を受けたのであります。「悪しき弟子を持つ時は師弟共に地獄に落つ」
弟子達の悪事(謗法)の責任を取らなければならない創価学会会長という職責の重大さです。 >>170さん
目が不自由な人に触られたゾウさんもきっと初めての経験だったことでしょうね。w
ことわざに「論より証拠」というものがありますが、実際に自ら経験したことを語る人のほうが説得力がありますよね。
ですが、、来世に生まれ変わったら成仏するなどと、過去生の記憶もない者が仏様なわけがありませんし、
法華経の釈迦でさえ過去生の姿を話ているのに、なぜ日蓮は話せないのか?
そんなひとが、自分より先に逝った熱原信徒の三世など話せるわけがないのです。
日蓮の胸中の肉団におはしまする九識心王真如の都の中に居る三十二相の釈迦仏の姿を御拝見したいもので、、
きっとゾウにも似た化け物だろうと思いますが、そのような日蓮には私はお礼などしたくないものですw
宗祖のお遊びごときに熱心になり、政党まで作るとはいささかやり過ぎでしょう。
そんな所に貴方がいるんですね?
ですから、貴方が名誉会長になってくださいと述べているのです。、、、内弁慶でなければw >>171さん
そんで?
一応はここ日蓮ってなのですので、時々少しは絡ませてちょ。 >>168さん
そろそろ真面目に眼鏡が必要になるようです。
CがOに見えるんです。 日蓮の信仰は低学歴というおまけがついてくるから
マイ性狂の洗脳信者は創価大へいって幸せなのだろうか >ですから、貴方が名誉会長になってくださいと述べているのです。
>、、、内弁慶でなければw
昔アラブの王様が心関で日がな一日、心が休まる事が無い。
ある日、有名な夢占い師を召喚した。
王様「わしは毎日同じ夢を見る。そして私の心の波立ちは治る事は無い」
王様「お前の力でわしの運命を占い、どうすべきか良いか教えろ」
占い師「それでは王様。王様の見た夢を聞かせていただきとうございます」
王様「何だと?わしは国王である。国王のわしが自分の見た夢など語れるか!」
占い師「では、王様は私に何をお望みで?」
王様「いいか?わしの見た夢を想像し、その夢について占え」
占い師「しかし、王様、、、」
王様「お前が少しでも間違えれば、わしはお前の首をはねる!」
占い師「、、、、、」
(千夜一夜物語)より 創価学会(および一部の日蓮宗)の信仰は基本的には「御書原理主義」であり、聖書原理(根本)主義のクリスチャンに似ています。
日蓮は仏であり聖人であるので、日蓮の言葉である御書は正しい、という前提で教義が組み立てられています。
聖書原理主義者が、キリストが神であるからという理由で正しさの原理とすることに似ています。
もちろん、日蓮は鎌倉時代の人間ですから、当時はそれなりに説得力があった考え方も、現代では通用しない考えをかなり含んでいます。
そのため、現代において御書原理主義的な信仰をつらぬこうとすれば、真摯な信仰者ほど、様々な疑問にぶつかることになります。 その疑問を超現実的な解釈や、スコラ哲学的に乗り越えることも可能とは思いますが、「信仰的世界観と現代的世界観」のミスマッチ、という問題を解決するものではないように思います。
創価学会の信者と、それ以外の人では、世界観や常識が断然されている、ということは、かなり大きな問題です。
創価学会員も、非創価学会員も、自分たちと同じ側、違う側、というのをかなり強く意識せざるを得なくて、差別や争いや誤解、そして人間関係の大きな悩みが生じる。
この解決法は、相手側をこちら側に引き入れることしかないし、お互いにそれは絶対に忌避したいことです。 御書原理主義、あるいは創価学会原理主義、三代会長原理主義、というのを、そうと意識せず、無自覚にやっている人は多いだろうと思います。
(あるいは、何も考えずに家族や周りの人が信じているという雰囲気の中、なんとなく信じている人)
そうした人たちが、自分たちの常識と世間の常識は違うこと、そして、常識が違うことの理由や経緯をフラットな視点で知ることが必要と思います。 >>176は何スレか前に生半可な哲学用語や心理学用語を誤用して顰蹙をかった創価信者だ。
たしか創価の子供が普通にチベット密教のツォンカパなどを知っているかのような露骨なウソもついていた。
今回も前回同様、メタファー、パラダイムなどの言葉を誤用しながらいい加減なことを言っている。
こいつの特徴はその反知性主義にある。つまり蒙昧主義に徹して本質的な議論を回避する姿勢にある。
こんな戯言は創価内で信者相手に相手を煙に巻くには役立つだろうが、世間では通用しない。
一見すると、この知ったかぶり創価の投稿も、スチールカン氏の投稿も同じように曖昧に見える。
しかし両者には本質的な違いがあることを見てとらねばならない。
スチールカン氏の文章表現は婉曲的だが、それは大上段に意見を言いたがらない彼の含羞から来ている。
知ったかぶり創価の場合は真逆で、自己の無内容な蒙昧性を覆い隠すための虚仮威しにすぎない。 >>177
>もちろん、日蓮は鎌倉時代の人間ですから、当時はそれなりに説得力があった考え方も、現代では通用しない考えをかなり含んでいます。
むしろ当時のほう今よりが相手にされなかったのではないか。
人々の受け入れる仏教が形骸化したからこそ日蓮の教義でも仏教だと勘違いされ日の目をみるようになった。 日蓮が鎌倉仏教の祖師扱いされるようになったのは、日蓮擁護のフェイクニュースを何百年もツイートし続けた日蓮業者と日蓮信者の地道な営業の賜物。 >>180
ハイダーの認知的バランス理論と、ニューカムの平行理論の唯一つの違いは
ハイダーは個人内の認知的均衡の考察であるのに対し
ニューカムは対人間の均衡を考察する。
ティナルディエの宿屋の女房は養女に迎えたコゼットを女中がわりに酷使し毎日恐怖を与えた。
この女房は、かわいそうな精神の持ち主である。
実子の娘達を愛するには、養女のコゼット憎まなければならなかった。
コゼットを憎む事でしか、自分の娘を愛していると実感を得る事は出来なかった。
そんな、憐れな女であった。
(レ・ミゼラブル ビクトル・ユゴー) >>183さん
確かに憐れな女ですね。
日蓮系の創価や正宗もこの憐れな女にも譬えられますよ。
そう、誰かしらを憎む事でしか日蓮の教えの折伏行を実践できないのです。
「人を憎むのでわない、謗法者を憎むのだ!」とでも彼等は言うことなのでしょうが、
そんなことはないですね、、、彼等が罵倒の言葉がその証拠です。
貴方なら智慧があるようですので、私の云う「名誉会長になって・・・」の意味が分かると思います。
貴方が会に居てはその教義に不満を持ち、破折もせずにして、
“人間的な弱さを持った人達が集まる創価学会員”を憐れむという優しい心は良いとしても、
それは日蓮教義とは正反対なものでしょうと思いませんか?
「本尊の女房は、信者に迎えたソウカを女中がわりに酷使し毎日恐怖を与えた。
この女房は、かわいそうな精神の持ち主である。
執行部の坊主を愛するには、養女ソウカを憎まなければならなかった。
ソウカを憎む事でしか、自分の坊主を愛していると実感を得る事は出来なかった。
そんな、憐れな女であった。」
正宗批判でもありますが、似たようなものでしょう創価もw >>177-179ひゃっきまるさん
ユダヤでありながらしてのイエスが当時の定義に否定的だったのは日蓮にも似ていますね。
一神教への両者の対象は違えど、日蓮の突然変異には「御書根本」という思考があったのかという疑問もあります。
唱題行といえども、日蓮の定義は経に帰依という釈迦の聖書を重視していたのではないでしょうか?
宗教というものは仏教もヤハウェ系も殆ど似たような内容で変動されているようですね。
今や宗教は、『罪』とかを信者に植付けて仏の加護がない現象や功徳を信者自身の問題として取り上げるよう
にもなっているようです。
責任転換にもしていかないと辻褄が合わなくなってしまうところに、新たな経や論が生まれてきたものなのでしょうか。
昔も今も変わらないものだと、人間らしい本質が歴史からもはっきりと伺えますね。
>>183さん宛ての私のレスも、
「進化をも考えなければ愛しい会員を救えないもので、覚悟が必要だと」述べたいのですが、
アンチの人間に言われる筋合いはないものだと彼は思っていることでしょうw
イエスも日蓮も型破りの発想者のようにも思えるところ、アンチと同類ともいえないでしょうかね?
とはいえ、神も仏も信じないアンチとは違いますがw 親はいるのだが、親と一緒に生活出来ない子供達とGWを過ごした。
川辺でBBQをした。彼等も私もアウトドアのBBQは初めてであった。
子供「お姉さん、このBBQ凄く美味しいね」
私 「このタレは私が作ったんだよ(得意げに)」
子供「まるでサッポロポテトBBQ味みたい!凄く美味しい!」
奮発してデザートにメロンを持って行った
子供「メロンって美味しいね。まるでハイチュー・メロン味みたいな味だね(喜んでる)」
施設長「せっかくBBQを作ったのに、サッポロポテトと同じ味って、、、(困惑)」
私 「まあいいじゃないですか?子供達嬉しそうにしてるしw」
施設長「でも何かこう、、、、何か悲しいわね、、、、」
私 「施設長さんはサッポロポテトBBQ味って食べた事ありますか?」
施設長「いいえ!あんなに体に悪そうな物は一切受け付けませんよw」
私は心の中で「この子達は、少なくとも自分の手でサッポロポテトの袋を開けてるんですよ」
と独り言を呟いた。
高僧ほど地獄に堕ちる、菩薩ほど地獄に落ちて苦しむ人々を救う。とはよく聞かれる例え話だが
私は餓鬼界に降りた菩薩達がサッポロポテトの袋を開け、皆で楽しくあじわっている姿を夢想した。
どうか大乗の慈悲よ、あの子達から離れないでいて欲しい。 >>185 スチールカンさん
僕は日蓮の信仰と日蓮本仏論者の信仰は全く違うものだと思っています。
日蓮自身が自分自身の言葉(御書)を原理的に信じなければならない理由がありませんし。
また、日蓮の信仰は単なる法華経原理主義ともやや違う気もしていますが、これは専門家による研究にまかせた方がいいでしょう。 日蓮?
ただのキチガイだよ wwww
破門された清澄寺を戦後に乗っ取って本山にしたりとか、やることがチョーセンと同じ >>177
聖書原理主義とは聖書を一字一句そのままに信じ進化論を否定する人たちなんだけどな。
聖典を根本にするのとはちょっと違う。
宗教で聖典(日蓮系では「御書」キリスト教では「聖書」)を根本にするのが当たり前で違ったらおかしかないかい。 自分の見方ではキリスト教に近いのは仏教であって日蓮教ではないと思うよ。 定義を明らかにするかウィトゲンシュタインのように「語れない物には語らない」という態度が必要。
>>189さんが指しているのは文脈的に合衆国バイブルベルトの福音派、キリスト教根本主義や
南部バプテスト、キリスト教原理主義過激派などの事でしょう。
私達日本人は全てを一括りに「キリスト教」と言ってしまいますが、そこを改めましょう。
メソジストや長老派の違いもエヴァンゲリズムとエキュメニズムの違いも分からない。
末日聖徒ジョセフスミスとJWも、英国国教会と米国聖公会や東方正教会などなど
違いを正確に私達は語れないという事を自覚しましょう。
なんとなーく、、で「キリスト教」を語る事ほど不毛な事は無い。
>>189さんだけは良く理解されているようですけど。 >>187ひゃっきまるさん
>日蓮の信仰は単なる法華経原理主義ともやや違う気もしていますが
法華経に限らず諸々の経をも文証として展開している日蓮でありますので、日蓮が拠り所は仏教経典を総体に思考し、
法華経への関心を多くの人に抱かせようとしていたものだと感じるのでが、
法華経物語でいうところの“方便”がそれではないかと思うのですね。
当時の末法思想に白法隠没という大集経からを根拠とし、不吉な時期に人々は煽られてたいたようですが、
法華経を推進する日蓮が意図には白法隠没などとは本心には思っていなかったんじゃないと思うのです。
寧ろ法華経への信仰の始まりは、世の乱れた末時の中から始まるものと考えていたとも思います。
もうその説明はいいや!と思うぐらに法華経には爾前経を方便だとの説明がなされていますし、
日蓮がこれを知らないわけがないはずで、法華経原理に日蓮がいてもおかしくはないかと思います。
例えば「六万九千三八四 一一文文是真仏」だったと思うのですね。
いわゆる日蓮は釈迦オンリーなわけであることは、ひゃっきまるさんのいうところの
>日蓮自身が自分自身の言葉(御書)を原理的に信じなければならない理由がありませんし
とは、その通りでありますと私も思います。
そんなところ、日蓮を奉り上げてマジに釈迦仏をスルーとする宗派は大間違いをしているものかと思いますれば。
>>189さん
フィリピンでは進化論が普及してないとかって聞いてましたが、やっぱり宗教が影響しているんでしょうね。 >>193 スチールカンさん
そうですね、少なくとも日蓮上人は、釈尊が第一と考えていたのであって
自分が「本仏」とは考えていないですよね。
普通で考えれば、法華経の記述では釈尊はさまざまな奇跡をおこしていますが
すくなくとも日蓮上人がそんな奇跡をおこしたという記録もないですしね。 >>195:大乗非仏説さん
奇跡をおこす力は日蓮ではなく、法華経行者を護るという神々なのですね。
末法での法華経行者を護る善神が、その誓いを日蓮に申し出たという話を作れる人はまだ出ていませんねw
大乗非仏説さんレス有難うございました。 クリスチャンが、南無聖書様、南無聖書様と唱えだしたら、面白い
今日からキリスト教のシンボルは十字架でなくて、「南無聖書様」と書かれた御本尊様
毎日一万編唱えると功徳が有るらしい >>193 スチールカンさん
日蓮が釈尊と法華経を第一に考えていたのは間違いないと思います。
その上で、そもそも仏教というのは原理主義的信仰に向かない宗教だと僕は考えています。
というのは、経典への深読みというか、経典の真意を探って行くことで、経典への解釈を深化させていき、教義が変わっていくようなところがある。
日蓮も一念三千の法門を基本にしつつも、そこに自分の悟りを加えてアップデートしようとしたし、それが仏道修行でもあったのでしょう。
現代の日蓮本仏論者の信仰は、あまり仏教的ではなく、キリスト教やイスラム教に近い感じがします。信仰対象(神、本尊)への絶対的な信仰表明こそが大事なのであり、信仰対象と自分自身との対話が大事なのであり、
迷いながら模索していくこと、問うていくこと、といった思考の過程がない、むしろ、それを心の迷いや「魔」として否定する傾向がある(信仰対象を疑うこと自体を悪とすることはその典型)ように思います。
こうした信仰至上主義的な宗教は、ほとんど必ず宗教的排他主義と結びつき、熱狂的な信仰になりやすく内部の結束を高める一方で、外部との深刻な軋轢を生みます。
人々が幸せになるためにあるはずの宗教が原因で戦争が起きる、というような矛盾を引き起こすのは、このタイプの宗教でしょう。 >>198
横レスです。
>現代の日蓮本仏論者の信仰は、あまり仏教的ではなく、キリスト教やイスラム教に近い感じがします。
>信仰対象(神、本尊)への絶対的な信仰表明こそが大事なのであり、信仰対象と自分自身との対話が
>大事なのであり、迷いながら模索していくこと、問うていくこと、といった思考の過程がない、むしろ、
>それを心の迷いや「魔」として否定する傾向がある(信仰対象を疑うこと自体を悪とすることはその典型)ように思います。
なるほど、納得です。 >>198ひゃっきまるさん
原理主義的信仰とは日蓮がいうところの文証を重視して展開された事でもあるかと思いますが、
その聖典文証の曖昧さを補う為にも論の数々の中からも引用しなければならなかったという難義を日蓮も経験したことでしょうね。
>原理主義的信仰に向かない宗教だと僕は考えています。
まったくをもってこの通りだと思います。
法華経での釈迦さえ爾前の教え方の原理を否定したような内容となってしまうところに、
如何にも人間臭さが染み出ているところが面白い物語でもあります。
法華経に限らず爾前経をも根拠とする原理主義とは言霊信仰というべきもので、釈迦仏教以前のバラモンにも見られますね。
鳩摩羅什せよ玄奘三蔵せよ文字が原点などという発想は若干は抱いていたとしても、本音は違うものだったと思うんですね。
どうしても音写で残すべきの箇所は訳すことなくされているところに彼等が意図が見受けられるのだと私は思います。
要するに文字よりも音のほうが原理主義的なものなのではないでしょうか。
意味が解らずとも題目だけで十分だと解釈する日蓮が唱題行の所以も一応は理に適っているわけではありますが、
当然に辻褄の合わない矛盾性もでてきてしまうわけですね。
戸田城聖が講義に法華経序品の八万大衆などあるわけがないと、便所を例えに会員に教えていたようでして、
ここだけを聞くならば現代の人々も戸田氏の解釈ほうが現実的な話だと思うであろうし、
信用性も法華経文証より戸田氏に引き寄せられることになるでしょうか。 (お肉牙を話する人とはとても思いませんがw)
この戸田氏の文証否定も、釈迦の己心を表現したものだと展開していくことになることが、よけいに原理主義的信仰に向かないものだと感じられます。
どこまでいっても曖昧的になってしまうところに新たな解釈が生じて、これが分裂の原因であり争いの種になることは大昔から一致しています。
ただ、この争いが良い事なのか悪い事なのかと考えてみれば、、、、難しいですけどね。
雑文ですみません。
一言でいうならば、原理などという概念すら定まらない者同士が争うことは必然であると思うのです。 日蓮の教義と日蓮本仏論の教義を切り分けようとするのは無理がある。
後者は日蓮を本仏とするがゆえに日蓮の遺文を金口として日蓮教の教義を形成するのだから、
日蓮教の教義がおかしいとすれば、つまりは日蓮の教義がおかしいということにならざるを得ない。 法華経が大事だとは言っても存在感が薄いし
比叡山は信長が放火して重要書は残ってないし 結論
日蓮はもはや、
過去の教えであり、
過去の宗教であり、
過去の妄想である
ピラミッド時代の宗教を調査するように扱えば良い >>201
どうでしょう?
日蓮上人そのものが自ら本仏とは思っていなかったでしょう。
日蓮本仏論そのものが、私は異端と思いますよ。 >>204
日蓮が自ら本仏と思っていたかどうかはさほど重要な論点ではない。 日蓮が、自分を本仏とまで思っていたか知らないが、自分のことを「国の柱」とか自惚れていたことだけは確かのようだ。
麻原彰晃や大川隆法のようなタイプかな。
勿論麻原や大川が日蓮に近いのでなく、日蓮のレベルが彼らカルトに近いと言うこと。 >>199 大乗非仏説さん
ありがとうございます。
>>200 スチールカンさん
日蓮は法華経や他の経について、自説に都合の良いものを取捨選択していた、ということはこのスレでも何度か指摘されていたと思います。
そもそも、時代も製作者もバラバラな経典群を辻褄があうように解釈することなど不可能なのですがね…(考古学研究が進んだ現代だから言える後知恵ですが)。
教えの解釈が様々になってしまうことは、分裂の原因にはなりますが、争いの原因にはならないと僕は思っています。 争いの原因になるのは、「この教えこそが唯一正しいのだ」「他の信仰は間違っており、不幸になる」といった主張や、それを積極的に(いきすぎれば暴力的に)広めなければならない、という考え方だと思います。
もちろん、唯一性や正しさの主張が正当なものなのであれば、それは議論の俎上にあげるべきなのだと思います。例えば、地球温暖化は事実なのか、といった類の話はその必要があるでしょう。
日蓮の時代においては、どの仏教が正当なのか、どの教えが正しいのか、ということは、現代においての地球温暖化の議論と同じレベルで重要で深刻な問題だったのでしょう。
当時の世界観においての日蓮の主張と、現代において日蓮の主張をすることはまるで意味が違ってきます。
現代においては、日蓮の言う唯一性や正しさの根拠(文証としての)が全て崩れていますし、そもそも宗教的世界観自体が否定されています。
例えば、正しい宗教が信じられていなければ、地震などの天変地異が起こる、といった主張は、現代では受け入れられないでしょう。
それは宗教だから、と私たちは考えますが、当時においては科学と宗教は分かれていなかったのです。 >>207-208ひゃっきまるさん
積極的な布教を行った日蓮自身が、法難だとかいう怪我を負うはめになっている事の原因は、日蓮自らの振舞いからだったわけですね。
暴力を振るわれる原因もまた、言葉から出てくるものだと私は思っています。
相手を脅してまでも布教をするというのは常不軽菩薩の精神といえないものであって、法難覚悟とはいっても威嚇的な言葉はどうかと思います。
後にその日蓮の咎が幕府によって罰せられたことは日蓮自身も認めているようですし、
このような発言をも正当化しようとすることは暴力への示唆と私は思ってます。
科学によったとしても日蓮の行動は永遠に良いものだとは証明できないものでしょうと思うのですね。
>教えの解釈が様々になってしまうことは、分裂の原因にはなりますが、争いの原因にはならないと僕は思っています。
大昔からの中東の歴史を見てみてもあの有様ですね。
隣国から日本に攻めてくるという日蓮の予言も仏教の一環にした解釈からでして、また三災七難の自界叛逆も分裂と争いが伴うものであって、
このような例はよく有る話だとは思っています。
今はまだニュースになるほどの暴力沙汰まではなってないとしても、日蓮が教義を信じ過ぎれば誰しもが世法に罰せられることになるでしょう。
それでも彼等が法を仏教にと拠り所とし、世間を見下すようなこととすれば、争いは必然であると思います。
余談ではありますが、信者が坊主を殴るという事件が正宗でありました。
これは被害者と加害者の個人的な分裂であったものでしょうけれども、一概に他人事ではないものだと彼等は思ったと思いますがね。
大勢での争いの始まりはたった一人から始まるもので、宗祖が暴力的な発言をすれば相手も同じような感情になってしまうかと思います。
ぶっちゃけ、日蓮教は戦争での兵士達に教えるにはとても便利かもしれませんがねw >>209 スチールカンさん
宗祖や開祖の思想や振る舞いが、後世の信者にどのように影響するか、というのは、親と子供の関係に似ている気がします。
子供が良い振る舞いをしていれば、さすが〜〜さんの子供ね、と言われ、悪い振る舞いをすれば、親の育て方が悪い、と言われるでしょう。
子供と親の関係は切り離せないと思います。
しかしそれでも、責任能力のある大人なのであれば、自身の振る舞いを親の責任にすべきではないと思います。良いことも悪いことも、結局は子供が判断して行動したことであり、子供の責任です。
子供が、自分の判断や行動を、過去に親に言われたことに従っているだけだ、と開き直ってしまっている状態が原理主義です。
話し合おうとしても、「俺の親はこう言った」「とにかく親を信じる」で、話し合いが成立しません。
だから原理主義はダメなのです。 >>209
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、
彼等が頚(首)をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ
(選時抄)
これ殺人教唆、甘く見ても脅迫以外のなにものでもないです。
こんなことをいわれていれば、他宗の僧侶・信者は激昂するでしょう。
法難とか騒いでも、これって自業自得ですよね。 >>210ひゃっきまるさん
親子関係を例にしますと、とても解りやすいですね。
御菓子や玩具の奪い合いで喧嘩する兄弟は沢山いるかと思いますが、親の奪い合いというものは滅多にない話ですね。
原理主義の原点が定まらずして、理法など改めるなどできない彼等は、
衣を変えて着飾って身体を外見よく装っても、性格が悪ければ磨く珠(理)さえ見つけることが出来ないものだと私は感じます。
日蓮自身の個人的な内心には釈迦の言葉だったのでしょうが、日蓮以降の信者達は釈迦が御祖父となることでしょうか。
そこで御書根本と称する者達にとっての原理が曖昧であることは確かだと思うのです。
仏法でいうところの血脈とは釈迦が源なはずで、仏縁を断つような思いを起こすことにもなった彼等が教義は、
もはや原理などというものは無いのですね。ご都合主義がこれです。
経典という連載の法華経の趣旨の中で、釈迦が教えの経緯から切り取ったような日蓮が論は、
後の子孫を狭義の家中に入れたようなもので、今ではその家の中が火宅となっていることが窺えますね。
釈迦が与えようとする玩具も否定する彼等には、もはやお手上げですね。
親子関係は、本人達には見えなくても、他人によって見えるものがあります。
彼等の本来の原理は、譬えの「蓮華」なのでしょうが、まったくそこに気付いていません。
土壌がどうあれ、そこの教義に染まることなく自らの花を咲かせるという、子供でも認識できる単純なことなのですがね。 >>211大乗非仏説さん
本来に被虐性欲のある彼等には「法難」という言葉はないはずなのですがね。(ユダヤ系です)
日蓮の場合はSなのかMなのかと聞かれた、、、うむぅ〜??? やっぱりSっ気でなければ自らを「先駆け」とは言わないでしょう。
勝っても負けても快感を得るという、こんな面白い趣味はないことでしょうな。ww サドヶ島に流されたくらいだからw
曰蓮狂徒にとってはサドは聖地みたいだしwww >>214
まさにそこがポイントで日蓮も日蓮教徒も被虐趣味なのだよ。
つまりは国家による仕置きを希求するという念の入った被虐趣味。
被虐の悦楽と法難の悦楽を同時に得ようとする欲張りなカルトと言える。 >>215
もう何年前になるかな?スペインとスェーデンで、遠く離れた国なのに同じようなお祭りがあった。
それぞれの国の法律で禁止されているらしいのだが日本カトリック教会関係者に
不思議なインビテーションが届いた。
洋画で十字軍時代の話として伝わる(イングマール・ベルイマン監督の第7の封印とか)
被虐趣味の強いパレードだった。
ムチで打たれる人、重い十字架を担いで木の枝で叩かれる人
手のひらに釘を刺した人などが恍惚とした性的トランス状態で行進をする
明らかに男性たちは衣服の汚れからして射精していた。
宗教的被虐性とは性的快感・性的絶頂と同値なのだろうか?
ちなみにイエスは手のひらに釘を打たれたのでは無い
手首でもない
実は手首からロープで十字架に吊るされただけ >>134-136 龍ノ口御法難記念日
http://www.honmon-butsuryushu.or.jp/pg/attemple/item/xn71512557/
龍の口まとめ、書いとくか…。
1. ↑上のリンクにある、日蓮が正座合掌して、
その後ろに首切り役人が立って刀を振り上げている、
そんな絵柄に相当する御書の記述はありません。
2. 龍の口の夜明け前に、突然光の球体がながれて、
真っ暗だったのに、月明かりのように明るくなって
現場が大混乱のパニックに陥った、ということは
かなり詳細に書かれている。
※※
3. 評定所で奉行に、放火殺人のテロ煽動を言ったか?
と聞かれ、はいそう言いました、と日蓮さんが答えたので
該当するのは斬首刑だから、日蓮と金吾は、
龍の口で小休止 = 首切り処刑の実行、と思いこんでいる。
4. ところが、平左衛門とその一行は、
なにやらあれこれ議論しているだけで、
光り物が現れて現場騒然とするも、夜が明けると
なにごともなく、相模の庄屋宅に向けて出発してしまう。
※※
5. 1-4のなかには、
A.首切り処刑が始まった、
B.光り物大パニックで、首切りが中止になった、
このAとBに相当する御書の記述が存在しない…。 >>217 どうでしょ? 首切り処刑の記述は
御所のどこにも存在していません、
あるのは処刑とは関係ない、光り物の霊験談だけ。
こんな単純なミスにだれも気がつかないはずはなく、
でももし首切り処刑がなかったと気がついても、
上司の坊さん(or学者)「おまえ、それを言うのはいいけどお、
どうしても主張すんだったら、破門覚悟で
ちゃんと辞表は用意してるんだろうな、ああ?」
だんだん日大アメフト危険タックルみたいな構図になってきて、
本田圭佑とハリルホジッチとか、
伊調ちゃんとハゲの強化委員長…。
※※
光り物の話は、吾妻鑑にもあるんだけど、
むかしから怪異談は広く流通していて、
宇治拾遺物語、今昔物語、日本霊異記、
有名なものなら平安時代からすでにそろっていて、
当時の鎌倉の事情通からみれば、
あっ、パクリねたね、としか思われない。
で、じっさい龍の口の八日後、金吾あての手紙には、
三光天子に引っかけて、光り物三兄弟のシリーズ化を
相談してるけど、結局話はこれで立ち消えになるから、
あまり一般受けしないネタだったみたい。
ところがこれも750年の時のベールに遮られて、
だんだん時代感覚が失われると、逆にホンモノに見えるのかも…。 >>137 この安国論年表は、ようするにさ、
立正安国論を幕府に提出したと主張する1260年から
八年経った後の1268年以降に成立したことを示す
後出しの記述しか見つからないわけよ。
そうすると、幕府提出は嘘ついてることにならん?
で、嘘つきのおっさんが書いたまんだらに向かって
なむなむ題目唱えたら、功徳がありますから、
わたしのことを信じてくださいね、
と嘘つきの大聖人がそうおっしゃるわけで…。
嘘つきの書いたまんだらに、功徳ってあんの?
すいません功徳も嘘でした、なんてことないよね?
であれば大聖人が嘘つきだとマズいから、
日本史教科書の山川出版と吉川弘文館に
幕府提出のうそ話を書いて権威付けしてもらえば、世間をだませるし、
お金はあとで裏口からこっそりお支払いすれば…。
※※
それでさ、安国論幕府提出の宛名書きである
「最明寺殿」なんて人物は存在しません、
最明寺殿は庶民の世間話レベルのいわゆる俗称で、
上申書に馴れ馴れしいあて名書きで届くわけないのよ。
少なくとも、上奏文とか建白書とか権威ぶってるなら、
相手の正式な名前で上申しないと失礼にあたりますが、
正式名称は、鎌倉あじさい寺の北条時頼公のお墓の
説明看板に書いてあるんだけどね…。 >>140
そんな臨済宗いるんだ、
というか、意味不明なこと言えば悟り人ですう、
みたいな悪い風潮が臨済宗に広まってるのは知ってる。
岩波文庫の臨済禄に白牛が…、
師問杏山、如何是露地白牛。
山云、吽吽。
師云、唖那。
山云、長老作麼生。
師云、這畜生。
臨済師が杏山和尚に質問して、
臨済「露地にいる白牛、とはどんなものだろう? 」
杏山 「もーもー 」
臨済 「喋れないんだ 」
杏山 「長老はどう思います? 」
臨済「ただの動物だよ」
・・
最後の行で白牛の神秘化を否定してんだけど、
じつはこの問答の三行目、「唖那」が
臨済和尚の定義するほとけなんだけど、
日本の臨済宗はわかってないかも…。 >>216
>宗教的被虐性とは性的快感・性的絶頂と同値なのだろうか?
そのように「同値」などと短絡的に還元してはならない。重なり合う部分があるという理解に止めておくべきだろう。
キリスト教の分派にある鞭身派(フルィストィ)、去勢派(スコプツィ)などにみられる。
>>220
臨済禅においては、そのように主知主義的に「解釈」することによる「理解」は禁物だろう。
予めきまった正解などない。 >>220
の見解は臨済宗という宗派仏教自体の独自性をまだ良く分かっていないんだよ。
正師であれば分別知を超越した活溌溌地なる境涯で語れるんだ。
しかし、臨済宗の公案体系は実は法華経にも似ていて(仏の慈悲という意味では同じだが)
言葉では表せない物を言葉に表す以上、第三者は言語論理の破綻を感じ
それ以上の大乗仏教の深みを考察する事なく、言葉、字面につられて
分別知を働かせ相対的価値観で読んでしまう。
禅語はそれらの原理主義を一切否定する。
禅宗は時として仏教をも否定する。
>>221
そうですね。多くの人には「不立文字」や「教外別伝」は理解しにくいですね。
というか、私達も仏教を勉強していなかったら
今頃、禅宗は訳のわからない事を言うインテリの遊びだ!禅天魔だ!
と叫んでいたかも知れませんね。221さんは良く仏教を勉強されてますね。 日蓮教は仏教ではなく、その亜流ですらない。
このことは広く一般に認識されるべきだ。 >>223
いや日蓮も宗教的天才だと思うよ
インチュイションが先走り過ぎて日蓮のパッションを理解出ないまま
信者になった人が多いって事じゃないかな?
日蓮の例の2人の側近の坊主が日蓮仏教を台無しにしてしまったと私は理解している。
例の2人の坊主はイエスに罪と罰を本当は与えたく無かったが
知事ピラトの自治区の反乱を治める為にイエスは貼り付けにされたんだけど
ヘロデ王と同じ立場、同じ感情だったのかもしれない。
イエスが救世主になってくれないからユダヤ人は暴れ出した。
日蓮が国政に参与出来ぬまま終わってしまった事に例の2人の坊主は
本来の日蓮とは別のイマジナリーな日蓮を作り
現在フィクションの中にしか存在しない日蓮を皆んなは崇めているのでは?
瀧ノ口と金吾の件は
以前、法華経や日蓮に関する書籍が多い某大学教授(社会学)と一緒に
徹底的に文献を調べたが、結局でて来たのは
瀧ノ口というのは「道に迷いました」という結論しか得られなかった。
この教授の本はみなさんも良く知ってい >>224
統合する能力を失調しているのではないか。 いやいや
ヘロデ王がナザレのイエスを殉教者にしてしまったが故に
キリスト教が広まったのと同じように
日蓮も殉教者として信仰の対象になってしまったのでは無いか?と言いたかっただけ
連合赤軍浅間山荘事件も1人も殺さずに、殉教者を絶対作らない事を第一義とした。
殉教者が出れば信者やシンパの結束力は強くなるからな。
オウムもダッカ事件も殉教者を出さなかった。
麻原が死刑執行されないのもそういう理由からだ。 日蓮は転向して、
勤行でなく湯治で腹を治そうと
旅の途中で死亡。
殉教とは言えない。むしろ背教。
勤行に効果がないことを教祖が認定。
殉教したのは熱原の三烈士。
日蓮も六老僧も殉教などしていない。
犠牲になるのは常に日蓮の教義を鵜呑みにした信者。
それが日蓮教の鉄板の法則。 https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-07.pdf&type=G&prt=1208
現在国宝に指定されている立正安国論は、日蓮死後4年の時点で裏にされて
本朝文粋が書写され、既に第二十四紙は無かった。
殉教というより、日蓮というインチキ予言者が宗教的に消されたという意味じゃないのか。 日蓮が相手にされなかったから未だに立正安国論に基づく政治とか言ってる
くるくるぱ〜がいるのだろう。
埋蔵金で全てうまくいくと言ってた人達みたいに実際にやらせてみれば消えて無くなる。 >>228さん
一応は仏説に温室洗浴衆僧経というものがあるようですけども、
日蓮がもしも湯治で延命をしてしまったら洒落にもなりませんしね。
結局のところ、、、晩年の日蓮には少なからず心の変化があったのは確かですね(法華経ごっこ、やぁ〜めた!)みたいな。
もし私でしたら、八かん地獄のような身延よりは温泉地を選ぶのは当然ですが、
せっかくに築いてきたはずの大塔を自ら壊すような、
または自ら頸を斬ったような日蓮ではなかったと思いたいのですがねw 波木井殿御報(日興代筆)には何事もなく池上に着きました
病のため花押はナシと書いてあるけど
蒙古が撃退されてしまったので身延で首を吊ったとかだったりしてな
法華経に首を捧げて実現力のある身に生まれ変わりたいと
願ってたようだから >>104 日蓮の思想が殺された
日蓮が一番信頼していた2人の弟子により 八尾市で一戸建て不動産物件をお探しなら【浪速建設株式会社】にお任せください。三重 評判 アパマンショップ八尾店 浪速建設様の見解と致しましては 任意売却からすま相談室 烏丸リアルマネジメント株式会社 大阪営業所
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スキン常路のやり方が大嫌い たや やっぱり、なんで身延では日蓮の成仏祈願をしてたのか
誰が日蓮(の思想?)を殺したのか、そこがポイント
http://gachinbow.hatenablog.com/?page=1472857200
「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師の筆なり、下添え書きに云く、
正安二年庚十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に敬って之を造立す」
(身延山久遠寺諸堂建立記・日蓮宗宗学全書22、56頁)
「日向の添書に『正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を
造立す』とある丈二尺七寸、幅一尺八寸の大聖人の御筆を写した板本尊」
(堀日亨の著書『富士日興上人詳伝(下)』p120〜p121より) >>237
要は弟子ですら日蓮が成仏・得道していないと思ってたわけだ。 日蓮正宗法華講総講頭であり、創価学会の最高指導者である池田大作
付け加えますと
池田大作は、日蓮正宗の信者の最上位・ナンバー1の職である「日蓮正宗法華講総頭」に、1964〜1979年と1984〜1990年の、通算21年間就いていました。
1979〜1983年は日蓮正宗法華講名誉総講頭でした。
1965年に任命したのは66世細井日達、1984年に任命したのは67世阿部日顕でした。
北条浩、秋谷栄之助、森田一哉、小泉隆、白木薫次、森田悌二、青木亨、辻武寿、和泉覚ら創価学会の古参最高幹部たちも1990年までは日蓮正宗法華講大講頭(ナンバー2)の職にありました。(あるいは歴任していました)
彼らの生みの親・育ての親・本家本元は日蓮正宗であり、今でも根本の本尊・教義・信仰活動などは日蓮正宗とほとんど同じです。現在でも日蓮正宗も創価学会も、違いはありません。 日蓮正宗の実態は、とんでもないカルト教団を次々と生産し世に送り出してくる、インチキ宗教です。
日蓮正宗は、創価学会や顕正会の本家本元であり、親元であるばかりでなく、現在もまた新たなカルト教団・妙観講を生産している、
まさにカルト宗教問題の本家本元というべきものです。
創価学会問題、顕正会問題、カルト宗教問題に斬り込んでいくには、日蓮正宗問題に斬り込んでいく必要があります。
日蓮正宗から生れてくるカルト教団というものは、偶発的に生れてきたのではなく、日蓮正宗総本山大石寺・日蓮正宗法主が陣頭指揮をして生産しているものです。
さらにこの日蓮正宗という宗教は、室町時代の法主が偽造した「本門戒壇の大御本尊」なる名のニセ板本尊や「二箇の相承書」「日興跡条条事」といった後世に偽造されたニセ文書を「日蓮から代々の法主が相伝した」などと欺瞞して自分たちを正統化し、
信者を騙して毎年のように数十億円もの供養金を搾り取っている、伝統仏教の仮面をかぶった、とんでもないインチキ宗教であり、悪質な宗教詐欺です。
さらに日蓮正宗・創価学会・顕正会…といった教団に所属・信仰している信者が引き起こす犯罪・事件が後を絶ちません。これらの教団そのもの、ないし教団の指導者たちが、教義的・ドグマ的・宗教活動的に反社会的体質を持っていることと決して無関係ではありません。
創価学会、顕正会、正信会、妙観講、法華講…などのカルト教団の生みの親、育ての親であり、本家本元である日蓮正宗を徹底的に批判し、追及・糾弾していくべきです。 宮崎英修氏が著述の日蓮辞典では、御講聞書(おんこうききがき)は、
「本書は日向に仮託した後世の成立である。その内容、御義口伝よりやや素朴であるが、
現実絶対肯定の観心主義に偏重してると見られ、あるいは一致派における成立かとも考えられてる。」
と、このような見解がなされているようですね。
”法界衆生平等利益の為”にって、偽書をお互いに造るはめになるわけでしょうが、結局は利益にならないものとなってしまうのでしょうね。 >>241
>宮崎英修氏が著述の日蓮辞典では、御講聞書(おんこうききがき)は、
日蓮辞典なんてあるのかw あんたも好きねえw >>228
>日蓮は転向して、
勤行でなく湯治で腹を治そうと
旅の途中で死亡。
確か日蓮の母親は、日蓮の祈祷で、生き返り、寿命を延ばしたはずでは?
>>229
>殉教したのは熱原の三烈士。
日蓮も六老僧も殉教などしていない。
小松原の法難は、殉教したのは、必死に日蓮を庇った弟子の鏡忍房と信者の工藤義隆。
熱原に至っては、当事者?の弟子の日秀、日弁は、房総に逃げていたのでは?
>>237
正宗は、その日向作の板本尊を証拠?に、戒壇の大御本尊の真実性?を主張するらしいが? https://kodokunopennginn.amebaownd.com/
創価公明の人々のための画像掲示板作ってみました、なんとなくですけど<改Tバージョン> 日蓮正宗なんコント劇団なんだから、日蓮のお化けが怖くて身延から逃げ出したでもいいね。
何百キロもある板は日興が乗って富士まで飛んだことにしよう。 >>240
>本家本元である日蓮正宗を徹底的に批判し、追及・糾弾していくべきです。
実害がないのならば放置しておけば良いと思いますね。 >>243
>>確か日蓮の母親は、日蓮の祈祷で、生き返り、寿命を延ばしたはずでは?
とても信じられないです。根拠は?
仮にあったとしても、プラセボ(偽薬)効果のようなものでしょう。
日蓮でなくても、信じ込んでしまえば、ある程度の効果はあるかもしれません。
例えば麻原彰晃の残り湯でも。 可延定業御書に母親の病気を治して寿命を4年延ばしたとある
日蓮は女をバカにしてたんだろう、女信者への手紙では平気で
デタラメを言う。 >>246
実害があるから批判しようという主旨なのだよ。 >>241
新曽妙顕寺の日向記は埼玉県の重要文化財に指定されているのだが
hideが突撃したら鑑定すら行っていないと認めたんだってさ。
日蓮宗でも偽書だと言ってるそうだ。
http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/34425943.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f2c519fe5384e767e1c9e99abdcfc293) >>249
なぜ、自分の命は延ばせなかったんでしょう? >>252さん
https://www.city.toda.saitama.jp/site/bunkazai/kyo-syogaigaku-prop-bokuseki.html
日向記もさることながら、、、子安曼荼羅も紹介しているようですよ。
>“このときの安産のお守りは、後世の女人のためにと、「子安まんだら」といわれ、大切にまつられることになりました”
と1271年(文永8年)のことのようですが、その本尊は日蓮自筆による1279年(弘安2年)だとも、、あらっややこしやw
http://juhoukai.la.coocan.jp/mandara/067.html
時系列が私にはさっぱりです? 大石寺の板には若惱乱者頭破七分有供養者福過十号が無いけど
弘安2年10月の子安曼荼羅にはあるという
お万の方のおかげで安産寺として大繁盛、日蓮の歯を所蔵する妙法華寺が
有名になるとどこからともなく御肉牙が!という怪談 御講聞書
自弘安元年三月十九日連連御講至同三年五月二十八日也仍記之畢
日向記之
御義口伝巻上
弘安元年戊寅正月一日 執 筆 日 興
御義口伝巻下
弘安元年戊寅正月一日 執 筆 日 興
偽書同士で比べてみると、建治4年2月29日に改元されたんだけど
弘安元年戊寅正月一日しか書かないところが
コント芸人としてのプライドなんだと考えるしかない(たぶん) >>258
徐氏の科註も先取り
時空を超越するのが正宗系カルトだからw >>261
信者は、文献を曲解しかできないもの。
「人は臨終の時地獄に墮つる者は黒色なる上、其の身重き事千引の石の如し。善人
は設ひ七尺八尺の女人なれども、色黒色なれども、臨終に色變じて白色となる。又
輕き事鵞毛の如し、やわらかなる事兜羅綿の如し」'(千日尼御前御返事)
今まで棺をたくさんかついできたけれど、千引の石の重さや鵞毛のような軽さなど
感じたことはないもの。普通で考えれば棺桶もかついだことがないのかと思う。
非科学的もいいところ。
「不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり・・是くの如き重戒なれども法華経の
敵に成れば此れを害する(殺すこと)は第一の功徳と説き給うなり」(秋元御書)
こうなると殺人教唆。 鎌倉期の人々が賢明にも日蓮を相手にしなかったから良かったものの、今ならオウム化してたかも知れんな。 「青年よ、仏敵を打ち砕け。 学会迫害の悪人は厳罰で野たれ死ぬまで攻め抜け」
正当なタックルじゃないよね。こんな指示する者は除名処分すべきものなのですがね。 >>262
この殺人教唆的部分はチベット密教ドルジェタク派と同じだね。
オウムのポアもドルジェタク派や中沢大先生の
虹の階梯や、チベットのモーツァルトの影響下にあるんだけど
日本の大乗仏教はガンダーラを周りシルクロードから 中国経由だと聞くけど
このドルジェタクやアサシン教団のような思想は 何に由来するのだろうか?
元はサンユッタニカーヤやマハーパリニッバーナを歪曲したって事?
釈尊は自殺自体は悪い事では無いと言っていたが
それをおかしな拡大解釈してしまったのかな? >>266
またお前か。まあ、そう無い袖を必死に振り振りシッタカ道に邁進するなよ。
みっともない。 >>267
たまにはパーリ語経典も読んでみなさいよ >>269
アーナンダ「目覚めた方はこう言われた、、、、」
お前仏教に興味あるんだったら、もう少し真剣に勉強しろよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています