>>380
法華経の正義ってなに?
なぜそれが学会批判になるのかわからん。
法華経正義も学会正義も同じ。
凝り固まったイデオロギー崇拝。

人間がなにかを正義に仕立てあげることは、悪という対立軸も同時に仕立てあげなければならない。
正義を名乗り続けるためには、仕立てあげた悪という対立軸を攻撃し続けなければいけない。
それが先生奥様万歳であり、法華経万歳。
それが池田崇拝であり、法華経崇拝。

仏教の本質は、形あるものはなにもない、全てのものは流動的。
ただ、それら形あるものをあたかも生じさせるように見える仏という空間、あるいは場、あるいは意識は存在する。
仏という空間、あるいは意識は海のようなもので、全てを包括する。
そしてその海が、水や水蒸気や雲や雨や波や大海や生命を作り出す。
そして、海は同じ形を持たずに変化し続ける。

その流動が世の本質であって、正義や悪という定義付け出来るような凝り固まったものは人間が作り上げた幻想。
宇宙のリズムなんてものも、人間の勝手な価値観が作り上げた幻想。
南無妙法蓮華経も同様に幻想。

人間とは、海の波のようなもの。
大海や仏という包括生命は波を生じさせ、一時的な飛沫を大量発生させる。
その飛沫という包括生命の断片を、他から分離した自分だと勘違いしたものが人間。
そして人間は、別の形が違う水の飛沫を悪だ正義だと定義付けして争っている。
しかし、肉体という一時的な飛沫が海の一体に戻れば、飛沫に与えられた定義付けや争いは消滅する。
そして人間という個別性は、幻想であったことを悟る。
しかし人間は、この飛沫の争いの因果に執着するから、大海に消滅した後でさえ
再び飛沫に戻るという輪廻を繰り返してしまうんだけどね。

宇宙や仏を表現しようとするなら、常やリズムや固形はあるように見えるが実際には無い、あらゆるものを包括する変化とかしか言いようがない。
そこに、定義付け出来るものは何もかも存在しない。