山本伸一の写真に、ことのほか関心を寄せる写真家の一人が、
後に日本写真家協会の会長となる三木淳であった。
彼は、日本を代表する報道写真家で、
米国の雑誌 『 ライフ 』 の表紙を飾る写真も撮影した人物であった。
戦後、三木が日本の総理だった
吉田茂の写真を表紙に掲載した折のことである。
彼は、敗戦国で国際的に弱い立場にあった
日本のイメージを払拭しようと、
あえて総理に葉巻をくわえてもらい、シャッターを切った。
これによって、堂々とした日本の印象を海外にアピールしたのである。
三木は、一枚の写真が持つ力を熟知した芸術家であったといってよい。
彼が学会と関わりをもったのは
一九六一年 (昭和三十六年) ごろのことであった。
そのしばらく前に、友人の一人が、人生に挫折した末に、学会に入会した。
ある日、その友人が、
雑誌の編集をしている 学会の幹部を伴って訪ねてきた。
三木が 海外で撮影した写真を 使わせてもらいたいというのだ。
三木は、学会に対する、
「 人の仏壇までも焼いてしまう暴力的な宗教だ 」
などといった噂を耳にしていた。
甚だしい偏見と悪意に満ちた、無責任な風評である。
だが、その編集者と接するうちに、
学会員は、およそ 「 暴力的 」 とは異なり、
勤勉で礼儀正しいことに驚いた。
” これが、創価学会員なのか。
  噂話とは、全く違うではないか …… ”
彼は、「 真を写す 」 ベき写真家として、
学会の真実を見極めようと思ったようだ。
三木は、この編集者との出会いが機縁となり、
何人もの学会員と親しく交わるようになった。