アンパンマンは
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僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。 僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。 君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。 或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。 それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。 彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。 「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信を抱いてゐた。 それは緻密な思索はないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。 そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。 のみならず地下水の石を鑿つやうにじりじり実行へも移らうとしてゐた。 それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。 彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。 少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。 殊に彼等の団体へ新にはひつて来た青年たちは彼の怠惰を非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。 それは勿論いつの間にか一層彼等の会合から彼を遠ざけずには措かなかつた。 就中「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだん物足らなさを感じ出した。 彼はもう彼等には非難するのにも足らないものだつた。 或は大体彼に近い何人かの人々を残したまま、著々と仕事を進めて行つた。 彼は旧友に会ふたびに今更のやうに愚痴をこぼしたりしてゐた。 が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。 それから何年かたつた後、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。 従つて今では以前よりも兎も角大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。 そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。 彼は時々籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。 それは妙に彼の心を憂鬱にすることもない訣ではなかつた。 けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。 が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。 それは株に手を出した挙句、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。 その青年は彼の論文を読み、それを機縁に社会主義者になつた。 彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。 立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。 元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。 書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。 九人一つ座敷にいる中で、片岡源五右衛門は、今し方厠へ立った。 早水藤左衛門は、下の間へ話しに行って、未にここへ帰らない。 あとには、吉田忠左衛門、原惣右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、堀部弥兵衛、間喜兵衛の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽ったり、あるいは消息を認めたりしている。 その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静である。 時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂っている墨の匂を動かすほどの音さえ立てない。 内蔵助は、ふと眼を三国誌からはなして、遠い所を見るような眼をしながら、静に手を傍の火鉢の上にかざした。 金網をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。 その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。 丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉岳寺へ引上げた時、彼自ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰って来たのである。 赤穂の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何に彼は焦慮と画策との中に、費した事であろう。 動もすればはやり勝ちな、一党の客気を控制して、徐に機の熟するのを待っただけでも、並大抵な骨折りではない。 しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺を窺っている。 彼は放埓を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。 山科や円山の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。―― もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀の御沙汰だけである。 が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。 それも単に、復讐の挙が成就したと云うばかりではない。 すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。 彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。 しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚しさに曇らされる所は少しもない。 こう思いながら、内蔵助は眉をのべて、これも書見に倦んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。 こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気がさしそうでなりません。」 この正月の元旦に、富森助右衛門が、三杯の屠蘇に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。 「やはり本意を遂げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」 忠左衛門は、手もとの煙管をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。 煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。 「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」 手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」 が、現実は、血色の良い藤左衛門の両頬に浮んでいる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいって来た。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています