>>169
清純の総合商社

「清純な乙女」が意図的に商品としてつくられることもある。
清純派女優とかアイドル歌手とかがそれである。彼女たちは
この世にセックスなんかないような顔をしていて、本当に
オナラやウンコやオシッコをするのかと信じられないほどである。
映画ファンの男たちはスクリーンのなかの彼女たちを見て大いに
心楽しく幸せのようであるが(そう言えば「吉永小百合の処女を
守る会」というファンクラブがあった)、彼女たち自身は
清純派女優であることを息苦しいほど窮屈に感じ、多大の無理を
しているのではないかと思われる。彼女たちの中から、年を喰って
清純派をやっていられなくなると、突然、逆の極端に走り、
それまでのイメージをわざわざぶち壊すような過激なことを
する者がときどき現れるのは、長いあいだ耐えていた窮屈さへの
反動とでも考えなければ、理解できない。「清純な乙女」という、
現実には存在しない代物を存在しているかのように見せかけ
続けるのは、大変なエネルギーを要することだったのではないかと
推察される。その反動がくるのである。入江たか子は化け猫女優
になり、天地真理はみっともないヘアヌード写真集を出し、
松田聖子は世界を股にかけて男を漁る奔放な女になった。
窮屈さに耐えきれず、薬物に走った酒井法子のような女もいる。
(原節子のように、自分のイメージを崩すまいと決して人前に
現れない女もいるが)。清純派の殻を捨てたとき、彼女たちには
何とも言えない爽快な解放感があったのではなかろうか。

と、岸田秀さんになり切ってみましたが、清純派からの解放は他にもいろいろな例をあげられそうですね。
(※ 参考/岸田秀『性的唯幻論序説』文春新書 P64〜P65)

カワイソス(´・ω・)