(左)文壇随一の潔癖症といわれた泉鏡花 (右)泉家茶の間。天井には和紙で目張りがされている
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■刺し身NG 消毒液入れ持ち歩く

 明治から昭和にかけて文壇一の潔癖症で知られた金沢市生まれの作家泉鏡花(一八七三〜一九三九年)。熱かんは煮えるほど沸かし、刺し身が出されると「煮てくれ」といい、消毒液入れを持ち歩いた…。その振る舞いは奇人、変人扱いされることも多いが、自身が赤痢にかかったのがきっかけだった。背景に明治、大正期にはコレラやスペインかぜなどの大流行もあった。新型コロナウイルスが感染拡大する今、その潔癖症は笑えない。(松岡等)

 一九〇五(明治三十八)年、鏡花は赤痢を患い、伊豆などに療養した。自筆年譜には「ますます健康を害(そこな)ひ、静養のため、逗子、田越に借家。一夏の假(か)りすまひ、やがて四年越の長きに亙(わた)れり。殆(ほとん)ど、粥(かゆ)と、じやが薯(いも)を食するのみ」とある。

 鏡花の挿画で知られる日本画家の小村雪岱は『泉鏡花先生のこと』の中でこう記している。「先生が生物(なまもの)を食べないといふことは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年の間粥ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなつてしまつたのだと承りました」

 明治から大正にかけては、感染病が繰り返し流行した時代。一四(大正三)年にはチフスや日本脳炎、一六(同五)年にはコレラ、一九(同八)年はスペインかぜが世界的に大流行していた。

 そうした中で、鏡花が食べ物に敏感になるのも分かる。「例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸い物の中に柚子(ゆず)の一端、青物の一切が落としてあつても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹(ゆ)でて食べるといった風(ふう)であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした」(雪岱『前掲書』)

 生涯にわたり鏡花に傾倒した作家水上滝太郎が初めて鏡花に会ったのは、世界的に流行したコレラが日本にも上陸した一六年。『はじめて泉鏡花先生に見ゆるの記』は、畳には手の甲しか着けない、キセルの吸い口には「千代紙でこしらえた筒(キャップ)」をかぶせる様子を活写している。

 水上がご飯に誘うと鏡花は「実は今年は虎列刺(コレラ)が流行るので百日ばかりも外に出た事がなく、殊に喰べ物がこはいからうちで御豆腐と煮豆ばかり喰べて閉口してゐるのだ」と明かしたという。

 それでも鏡花なじみの鳥屋へ行くが、飲むのは「熱燗(かん)を通り越した煮燗(にえかん)」。鍋も「強い火で煮詰めて、佃煮(つくだに)のやうになったのに、多分に薬味をかけて、ふうふういひながら喰べる。案ずるに黴菌(ばいきん)を怖れるらしい」

 鳥鍋についてのエピソードは、谷崎潤一郎の随筆『文壇昔ばなし』(一九五九年)にも登場する。「鏡花、里見(●)、芥川(龍之介)、それに私と四人で鳥鍋を突ッついた」。メンバーの豪華さに驚くが、ここでも鏡花は、煮え切らないうちに鳥を食べてしまう谷崎に対し、「これは僕が喰べるんだからそのつもりで」という鏡花。谷崎は鍋の中に仕切りする様子をからかうように書いている。

 熱い番茶好きながら、それが飲めないから旅行が嫌いだったという鏡花。汽車でも熱い茶を飲むために、アルコールランプで湯を沸かし、乗客や車掌を驚かせたエピソードを自らも『熱い茶』(一九二七年)で語っている。

 泉鏡花記念館(金沢市)には、鏡花が外出で持ち歩いた消毒液を入れる携帯用のアルミ容器、キセルのキャップ、熱燗を沸かしたやかん、ほこりが落ちてこないように自宅の天井に目張りをした様子が分かる写真などが展示されている。実物を前にすると、鏡花の見えないものに対する並外れた感受性を改めて考えさせられる。

※文中の●は弓へんに享

中日新聞 2020年4月11日
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