会津武士は立派。
熊本の白川には会津の猛将、佐川官兵衛を敬う石碑がいくつもある。
白川に駐留した官軍小隊長の佐川官兵衛が兵に地元の人々に対する礼儀を徹底した。
その貴さが熊本阿蘇の村の地元に延々と言い伝えられた。
石碑は地元民によって白川村に複数建てられた。

他方九州生まれの私が九州戦国時代の郷土史を調べてみると安土桃山時代の薩摩、大友、龍造寺の戦争は
大分、熊本で戦で負けた後は武士も農民も人買いに売られて奴隷となって二束三文で
海外に売られていった。
女子供は武家農民にかかわらず女郎屋にも売られた。
当時に九州制圧を試みた薩摩武士も足軽などの御徒組がそうやって追い剥ぎなど相当酷いことをしている。

地元の人買いに売られて奴隷になった人びとはスペイン商人の手に渡り島原の口之津から
何十万人がスペインや東南アジアの統治国にまた売られた。

その悲惨な状況は16世紀末に日本からローマに行った天正使節団によって詳細に記録されている。

時は幕末、黒田藩の内乱によって月形洗蔵等の勤王党は黒田藩主側から処分されたことを
皮切りに黒田藩はがたがたになり廃藩置県の5年前から黒田藩取り潰しとなった。
バラバラになった藩は福岡藩となり戊辰戦争に兵を数千人派遣したが、まともな武士が
残っていないため犯罪者なども会津戦争に出向き強姦掠奪の限りを尽くした史実は福岡でも認められている。
会津で官軍の雑兵が狼藉の限りをはたらいたのは否定できない。