「人工知能と人間の意識は比べようがない」と、「ホモ・デウス」の問題提起に疑念を抱く安宅和人さん=東京都千代田区で、藤原章生撮影
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 何かが足りない。2016年に出版された英語版を読んで、そう思った。この9月に出た邦訳版を読むと、今度は違和感を覚えた。ベストセラー本「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」(河出書房新社)のことだ。人類の支配者が、神、人間を経ていずれデータ、つまりコンピューターに取って代わられる可能性をめぐる話だ。すとんと落ちないのはなぜなのか。脳科学、情報技術ともに関わりの深い人と批判的に読み解いた。【藤原章生】

■ゴッホの表現力は意識が生み出す

 「ホモ・デウス」(神のヒト)の帯にこうある。「生物はただのアルゴリズム(演算式)であり、コンピューターがあなたのすべてを把握する。生物工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく。人類はどこへ向かうのか?」。著者は全世界で800万部も売れた「サピエンス全史」(11年)で人類を論じたイスラエルの歴史学者、ユバル・ノア・ハラリ氏(42)だ。

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 “知能”と“意識”を比べる問いに違和感を抱いたのは、以前、ヤフーの最高戦略責任者(CSO)、安宅和人さん(50)からこんな言葉を聞いていたからだ。「人工知能(AI)はあらゆる基礎的な情報処理で人間を超えるだろうが、人間のようになることはない。中でも大局的な把握は人間の最も高度な能力の一つで意味理解のないAIには極めて厳しい」

 安宅さんは、東京大大学院などを経て米エール大で脳神経学の博士号を取得し、現在は慶応大環境情報学部教授も務めている。オフィスを訪ねると、「ホモ・デウス」を読み終えた感想をこう漏らした。

 「疫病、貧困、戦争という人類の三つの死因が収束に向かっているといった分析など、前半は面白いけど、後半は息切れしている。前作は名著で興奮して読みましたが……」

 「AIは人間を超えますか」と素朴に聞くと、問い自体が適切でないと安宅さんは言う。人間とAIは何かを学習する道筋が全く逆、根本が違うため、等価な比較はできないという。

 「例えば我々の場合、ある草を踏んだら足がかぶれたので、危ない草だと学習する。一方、AIの機械学習はその草を避けるという『目的』がまずあり、モデルの中の変数を調整していく。自動運転もそうですが、『目的』にあった動作をさせることはできる」

 「避ける」という動きを与えるために「目的」を先に与え学習するのがAIの構築だとすれば、人間はさまざまな経験から意味を理解し「避けた方がいい」という判断をする。機械と生物の学びは逆だということだ。

 わかったようなわからないような顔をしていると、安宅さんはため息をつき「例えばゴッホの絵(=目的)をたくさん覚え込ませれば、AIはゴッホのような絵を簡単に描ける。あるいはゴッホとモディリアーニを混ぜた絵を。でも、AIが体験をもとに、ゴッホのような人間の深い心的洞察に基づく表現への手がかりを得ることはない。心に該当するものがないからです」。

 どうにかわかった顔つきをしていると、安宅さんは問題の書「ホモ・デウス」に話を戻した。

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■一神教の人には切迫感

 「ホモ・デウス」が説く、神の時代、人間の時代からデータの時代へ、という変遷もわかるようでわかりづらい。単純すぎるのではないか。そんな話を差し向けると、安宅さんの脳が少しスパークした。

 「データの利活用は科学の延長線上にあり、科学の担い手である人間の時代が続くだけです。そこに神の時代も並行してある。欧米など一神教の場合、神の代わりになるものが出てこない。だから、その穴を埋めるため、終末的な極論を展開しがちなんじゃないのかな。大方の日本人は一神教じゃないので、神の代わりといった代替物を考えなくてもいい」

 つまり、一神教の人には切迫感があるが、日本人にはないということなのか。

 人工知能と聞いて、一神教の人は「2001年宇宙の旅」で人間を死に至らしめる人工知能を思い浮かべる。だが「我々が描いてきたのはドラえもんですからね。うまく使い倒せばいい、となる。『ホモ・デウス』は一神教の人の考え方を理解する役には立ちますが。違和感があるのは、神に対する見方の違いもあるのかもしれません」。

 違和感が少し解けた感じだ。

毎日新聞 2018年10月11日 東京夕刊
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