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【福島】「苦渋の歴史、会津に誇り」 戊辰戦争150年で式典 「八重の桜」主演、綾瀬はるかさんも出席[09/22]
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0001坊主 ★
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2018/09/22(土) 23:28:08.42ID:CAP_USER
戊辰戦争150周年記念式典で話す女優の綾瀬はるかさん=22日午後、福島県会津若松市
https://www.jiji.com/news/kiji_photos/0180922at45_p.jpg

 会津藩など旧幕府軍と明治新政府軍が戦った戊辰戦争から150周年を記念する式典が22日、福島県会津若松市で開かれた。会津藩主だった松平容保のひ孫松平保久さんは「苦渋の歴史ではあったが、(会津に)強い誇りを持って未来につなげていただきたい」などと語った。

 式典に先立ち、会津のために戦った当時の人々をしのび、全員で黙とうした。室井照平市長は「逆境においても義を貫き、会津人としての矜持(きょうじ)を持ち続けた。発展に尽くされてきた先人に敬意を表したい」とあいさつした。

 同市が舞台となったNHK大河ドラマ「八重の桜」で主演を務めた女優の綾瀬はるかさんも出席。綾瀬さんは終了後、記者団に「戦争は繰り返してはいけないし、どれだけ犠牲が大きいかということを伝えていくことは大事」と話した。

時事通信 2018/09/22/19:25
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018092200472
0215やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:22:40.20ID:5nNJS08n
会津藩の苛政ぶりもきちんと伝えないと。会津の農民は薩長軍を解放者として迎えた。
新潟県内の会津藩の飛び地も会津藩士を横暴だといって嫌っていた。

会津藩が下北に移転したのも、当初勧められた猪苗代地方では、会津藩士の
横暴ぶりが伝わっているからすぐ反乱が起きると恐れたから、悪行が伝わって
いない下北を選んだともいわれている。
0216やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:41:11.41ID:NONZe+xa
信用のない会津

会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。

「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)

以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。
0217やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:42:26.58ID:NONZe+xa
金をむしり取る会津

既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた

(小千谷市史下・越後歴史考)
0218やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:43:00.92ID:NONZe+xa
ヤクザな会津

会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)
0219やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:43:52.87ID:NONZe+xa
搾取の会津

越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。

しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。

旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)
0220やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:44:34.18ID:NONZe+xa
強盗の会津

またこのような組織だった徴発だけではなく
個人の会津藩士による略奪も多発した
模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)
0221やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:45:27.62ID:NONZe+xa
民衆を脅す会津

武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」

(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)
0222やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:46:42.17ID:NONZe+xa
強奪の会津

越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
0223やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:47:53.32ID:NONZe+xa
信用を取り戻せない会津

かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)

また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
0224やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:48:26.80ID:NONZe+xa
嫌われる会津

会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが
よろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)
0225やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:49:33.35ID:NONZe+xa
味方からも信用をなくす会津

米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。

「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)

これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。
0226やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:50:35.60ID:NONZe+xa
味方の信用をなくす会津

信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。

「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)

甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。

他にも「会津・長岡両藩
越地人民ノ心を取失候上」や
「会兵と御離れ、仕事を別申て
御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位を
いつく迄も御示被遊、御仁恤を御下し
被為在候様無之候ては
危急此事ト奉存候」
(米沢藩戊辰文書)
0227やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:51:21.34ID:NONZe+xa
見捨てられる会津

新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)
0228やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:52:21.36ID:NONZe+xa
味方の足を引っ張る会津

そして米沢藩総督である
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)

会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。
0229やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:53:17.66ID:NONZe+xa
蛮行の会津

会津が郡山で放火や略奪をした史料です

2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
0230やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:54:02.89ID:NONZe+xa
貧相な会津

英国公使館員の維新戦争見聞記

■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。

戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。
0231やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:54:51.96ID:NONZe+xa
残虐な会津

英国公使館員の維新戦争見聞記

会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。

そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。

私は会津の徒党の残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
0232やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:55:56.95ID:NONZe+xa
京都守護職なのに嫌われる会津

禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
0233やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:56:49.75ID:NONZe+xa
捕虜を虐殺する会津

寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
0234やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:57:34.38ID:NONZe+xa
売国を企てる会津

会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。

ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。
0235やまとななしこ
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2018/09/24(月) 12:58:14.09ID:NONZe+xa
差別されたと嘘をつく会津

白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。

この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。

■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
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