大学生の頃の筆者は、ヒマがあれば龍安寺(京都市右京区・臨済宗妙心寺派)の石庭の前で坐(すわ)ることにしていました。それも京都独特の底冷えがする厳寒期、足指を凍えさせての鑑賞が好きでした。世界文化遺産(1994年)に登録されてからは観光客が激増、もはやゆっくり坐ることもままなりませんが。

 文学青年だった当時も、そして今も、筆者は作家・中国文学者の故・高橋和巳のファンで、その高橋が雑誌『近代文学』(1961年3〜4月)に書いた「逸脱の論理」(後に河出文庫に収載)の文章に影響されました。いわく、「竜安寺の低い塀は、石庭と外景とを区切っているけれども、それは背景の樹々を遮断するほど高くはない。内部は造園の構図と美学に従う恒常性が保たれ、外部は、四季の変遷や、大きくは時代の推移にそのまま委ねられる。そして、その恒常と推移の全体的照応像が、その庭園の美なのである」(河出文庫版、134ページ)。

 恒常と推移の全体的照応という高橋の言葉を、筆者は、無変化と変化との弁証法的統一として読み込み、それを石庭の内外に見出そうとしたのです。「虎の子渡し」や「七五三の庭」と呼ばれたり、禅の凛(りん)然たる精神の結晶とも評価されたりする石庭ですが、見方によっては、単に大小15個の石が雑然と配置されているだけともいえる空間です。いわば秩序と無秩序の混在であって、ここでも筆者はその両者の弁証法的統一を考えていたのだと記憶します。

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 もう一つの誘因は、大学入学直後からはじめた部落問題の学習と関連しています。あまり広くは知られていませんが、“昭和の小堀遠州”と称された造園家の故・中根金作が『造園雑誌』(日本造園学会編、1958年3月)に「竜安寺の池庭の遺構と石庭の作庭年代について」と題する論考を寄せ、そこで中野は石庭の作庭年代を寛永年間(1622〜44年)、作者を、石庭の中の伏石(塀際の細長い石)に名が刻まれた「小太郎・清二郎」の両名とし、この二人の出自を「河原者」と想定していました。

 龍安寺の公式ホームページを見ると、石庭の作庭時期も、作庭の意図も、作者もすべて不明としています(作庭時期は一応室町期と推定していますが、推定でしかありません)。このように、龍安寺石庭は“謎の集大成”のごとき庭園です。それゆえにこそ、中根による「小太郎・清二郎=河原者」(ただし、清二郎の「清」はよく読みとれない)の作者同定はかなりインパクトのある指摘となり、おそらく、作家の故・水上勉の短編小説「音次郎の庭」や、それを下敷きにした部落問題啓発映画「音次郎の庭」も中根説に影響を受けての作品だったのではないかと推察されます。小説や映画では、実際の作庭者が河原者・音次郎(石の刻印では小太郎・清二郎)であるにもかかわらず、作庭を命じた権力者(作品では、細川政元)がその名を嫌って、音次郎を切り捨て、これに怒った音次郎の息子・又四郎が雨中の深夜、石庭に走り込んで、石の一つに「音次郎の庭」と刻み込み、この庭が亡き父・音次郎の作品であることを後世に伝えようとしたと描かれています。

 「河原者」とは中世の賤(せん)民の呼称で、多くの場合、無税地の河原に住み、賤業と見なされていた死牛馬の処理、細工、掃除、庭園の手入れ、土木などに携わり、中には零細農業に就くものもあったと言われています。室町時代中期の頃には「山水(せんずい)河原者」と呼ばれる作庭者が現れていた事実があるので、前記・中根説および「音次郎の庭」といった作品、そして、実際の龍安寺石庭の存在には、差別の中で生きていた中世賤民がこの国の文化史上に果たした重要な役割と貢献を彷彿(ほうふつ)させるものがあり、筆者はそのような想念に駆り立てられながら、石庭に見入っていたことを今はなつかしく思い出します。

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 また、文化史家の故・沖浦和光は、作庭がなぜ賤民の職能になったのかについて、庭の清目(きよめ)との関係に注目しながら、「(庭は)物斎(ものい)みの場であって、その聖なる庭からケガレを取り除き、たえず掃き清めて美しく整備する必要があった」と述べています(沖浦・野間宏共著『日本の聖と賤』中世篇、人文書院、194ページ)。ケガレをキヨメる職能が期せずして後世に残る作庭術などの高い文化遺産を生みだしたこと、これはやはり差別問題を学ぶものが基本的に知っておくべき文化史的な事実なのだと筆者も思います。

 しかし、残念ながら、龍安寺の石庭について言えば、既述したように、今もすべてが闇の中にあり、すべてが謎のままです。

毎日新聞 2018年9月8日
http://mainichi.jp/articles/20180908/ddl/k26/070/430000c