2018.04.04 乗りものニュース編集部
「厚木駅」は神奈川県厚木市ではなく隣の海老名市にあり、現在の厚木市中心部には「本厚木駅」があります。なぜこのような状態になったのでしょうか。


最初に厚木駅を作ったのは相鉄

 厚木市は神奈川県中部にある人口約22万5000人の大都市ですが、「厚木駅」は厚木市内ではなく、相模川を挟んで東隣にある海老名市の河原口地区にあります。
一方、厚木市の中心部にあるのは「本厚木駅」で、土地勘のない人にはややこしく思えます。なぜこのような状態になっているのでしょうか。
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(写真)
小田急小田原線の厚木駅。ただし住所は厚木市ではなく海老名市の河原口だ(2017年5月、草町義和撮影)。


 現在の厚木駅は、JR東日本の相模線と小田急電鉄の小田原線が立体交差するようにして乗り入れています。しかし、実はこの2線だけでなく相模鉄道(相鉄)の線路も乗り入れていて、JR厚木駅の東側に相鉄の厚木駅が設けられているのです。

 横浜〜海老名間を結んでいる現在の相鉄本線は当初、横浜駅と厚木駅を結んでいました。戦時中の1941(昭和16)年、小田急小田原線の海老名駅に接続する線路が開業したのに伴い、
厚木駅に接続する線路が独立して貨物列車専用の厚木線になりました。現在は厚木駅に車両を留置するための回送や、新型車両の搬入などに使われています。

 この3路線のうち、最初に河原口にやってきたのが、かつて相鉄本線の一部だった厚木線です。
ということは、最初に「厚木駅」という名前を使ったのも相鉄ということになりそうですが、当時の相鉄本線は「神中鉄道」という私鉄が運営していました。

 まず1916(大正5)年、神中軌道(のちの神中鉄道)の発起人が路線の建設許可を受けました。このときの申請書類には、「高座郡海老名村(現在の海老名市)河原口」を終点とすることが記されています。


「厚木」に込められた鉄道会社の思惑
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神中鉄道は翌1917(大正6)年に設立されましたが、1918(大正7)年には輸送力を大きくするため、計画の変更を申請。1919(大正8)年に許可されました。計画変更の申請書類では、
終点の場所こそ変更前の計画とほぼ同じですが、その表現は「河原口」ではなく「愛甲郡厚木町(現在の厚木市)ト相模川ヲ挟メル対岸高座郡海老名村ニ於ケル相模鉄道厚木停車場附近」に変わっています。

(写真)
現在は車両の留置などに使われている相鉄厚木線の厚木駅。この西側(写真左)にJR相模線、南側(写真手前)に小田急小田原線の駅がある(2017年5月、草町義和撮影)。

 この記述にある「相模鉄道」は現在のJR相模線のこと。ただし、相模線の建設を計画したのは相鉄です。ちょっとややこしいですが、
戦時中に相鉄が神中鉄道を吸収合併する一方、相模線が国鉄線に編入されて相鉄の手を離れたため、現在の相鉄は神中鉄道の路線だった相鉄本線や厚木線を運営しているのです。

 つまり、相模線を計画した当時の相鉄が、海老名村に「厚木」を名乗る駅の設置を最初に考え、神中鉄道もそれにあわせたようです。
こうして1926(大正15)年5月、神中鉄道の厚木駅が海老名村の河原口に開業。同年7月には相模線の厚木駅も同じ場所に開業し、ふたつの路線の接続点になりました。

 それではなぜ、当時の相鉄は海老名村内に厚木駅を設ける計画を立てたのでしょうか。1980(昭和55)年に発行された小田急電鉄の社史『小田急五十年史』によると、
相鉄の重役を兼ねていた海老名村長が、河原口に設ける駅に「厚木」と名付けることを考えたといいます。

 このころ、海老名村の人口が約9000人だったのに対し、厚木町は約3万人。村長としてというよりは、相鉄の重役として「規模の大きい厚木の名を冠した方が、相模線の利用者が増える」と判断したのかもしれません。

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